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68.いとし、いとしと言ふ心


 いつものように騒がしい教室は、まったく変わらない様子で鈴子を迎える。

 ところが、一番後ろの自分の席に座った途端、横からにゅっとノートが出て来た。

「はい。休んだ分の授業ノート」

 枝毛を触りながら言ったのは、たらこ唇だった。

「え?な、なんで?」

 仰け反ったままどもると、たらこ唇が盛大に眉をしかめた。

「はあ?一週間も休んで、それで授業について行けるほどあんたって頭いいの?」

「い、いや……そうじゃないけど……」

 段々とうつむいてしまう。語尾が消えた鈴子の前で、小さなため息がこぼされた。

「あんたさあ。あたし隣の席なのに、ノートも取ってあげないほど冷酷な人間に見えてるの?」

「そ、そんなわけ!……ない、けど……」

 たらこ唇は厚い唇を尖らせる。いらいらと足を組み替えて髪をかき上げた。

「もっとはっきり言いなよ。あんた……あ、鈴子って呼んでいい?鈴子さ、あんた」

「え?名前、知ってるの?」

「……あんたね」

 今度こそ、呆れ加減の大きなため息が鈴子にかかった。

「春に席替えして、もう何ヶ月経つと思ってんの。隣の奴の名前、知らない方が珍しいわよ。……ってあんた、まさかあたしの名前」

「……ごめ」

 膨れる厚い唇を上目遣いで窺う。あーあ、とこれ見よがしに伸びをされた。

「リサよ、リサ。ったく、鈴子、スマホ」

 つっけんどんに出された手に言われるがままスマホを置くと、慌て過ぎて滑った。

「何この古い型。え?ライン入れてねえの?マジで?まあいいや、あたしのアドレス入れとくよ」

「……うん」

 呆然と見守るしかない鈴子の背後で扉が開いた。

「あ、おはよー。功成くうん」

 何オクターブ声が変わるんだとリサに目眩がする。

 鈴子の後ろで功成が挨拶を返す気配がした。そして彼は前の席へ着く。

 何事も、なかったかのように。

「……ああ、格好いいよねいつも。でもさ」

 声を潜めてリサが顔を寄せた。

「何か近寄りがたいよねえ。いつも笑ってんのに。この前、クラスの男子があだ名で呼ぼうぜってはしゃいで、功成くんをコウ、て呼んだらさ。あたし見ちゃった。一瞬、ほんの一瞬だけ、すっごく冷たい顔したの」

「……」

 リサは片肘をついて、鈴子のスマホを素早く打ちながら呟く。

「ま、ね。ああいうのは、遠くから眺めてるのが一番都合いいね。うちらにとって」

 黙った鈴子にそれ投げて寄越す。

「……ありがと」

 腹に力を込めて言ったら、頬をうっすら赤くして、「別に」とみっともないほど広げた足でつま先を小突かれた。



 近くにいるようでいて、みんな遠くから眺めている。

 鈴子は強い決心を胸に、前方をにらんで歩き続けた。

 前を行くのは功成だ。以前後をつけた時よりもかなり近い距離で追いかけているのに、彼は一度も振り向かない。

 絶対に気付いているはずなのに鈴子を見ようともしないその態度に、あの夜の出来事はなかったことになるのだと分かった。

 それが少しだけ、悲しく寂しい。

 変わらぬ歩調で歩く功成の制服が、冬空に映えて紺色に輝く。木枯らしの舞う温い日差しが薄い影を作った。

 功成は駅の、家とは逆方向のホームに立つ。塾と噂されていた通りの行動だった。

 電車内ではほとんど隣という位置に座ったのに、やはり彼はちらりともこちらを見なかった。

 そして大きな駅に着き、迷うことなく賑わう街へ下りた。


 やはり、思った通りだった。

「……」

 しかし功成は鈴子の想像通りの建物へ直行はせず、その一歩手前で小さな店に入る。

 可愛らしい花屋の店員は、功成が軒をくぐった瞬間に破顔した。レジ横の棚から、リボンでくくられた一輪の白いバラを手渡す。

 受け取った功成は金を払い、短く言葉を交わして外へ出た。

 そのまま通り過ぎた門を鈴子もくぐる。

「……」

 巨大な玄関ホールに踏み入れると、陽光溢れる吹き抜けの建物内が一望できた。

 大勢の人々がたむろする受付スペースを通り過ぎ、開放的な廊下をどんどん進み、別の棟へと足を運ぶ。棟が奥に行けば行くほど、行き交う人々にはパジャマ姿が増えた。

 あの夜の建物とは別世界の、明るく美しい病院だった。

 有名な巨大病院の複雑な通路を、功成は壁の標識を見ることもなく慣れきった様子で進んで行った。

 車椅子の少年が功成に手を振り、それに答える。点滴を抱えた老人が笑いかけ、それに頭を下げる。

 見知っているのだろう人々の間を抜けた功成は、入院棟管理室の前で一度だけ止まった。

「こんにちは」

 詰めていた看護師たちが一斉に微笑む。が、中から貫禄ある巨体の看護師が出て来ると功成は慌てた素振りで腰を折った。

「……はい。もう二度と、病室にバイオリンとフルートを持ち込まないよう妹にきつく言い聞かせます」

「お茶の道具と油絵セットもです。病室はお稽古事の成果発表会場ではないのですから」

「はい。もちろんです」

 すでに日常化されているのだろうか。周りの看護師が、口を押さえて笑っている。

「それからこの前、病室宛に届いた宅配便の中から異臭がしました。滋養がどうのこうのといった、あやしげな干物が入っていたと。ここは民間療法の研究所でもありません」

「……はい。肝に銘じます」

 会話が聞こえるほど鈴子は近くに立っている。そのせいで連れだと思われたのか、管理室の先へと入る際にもとがめられはしなかった。

「……入院、棟」

 細身なのに広い肩に、日差しが降り注いでいた。

 入院棟の最奥、最上階へふたりの靴音だけが続いた。床が絨毯になり、廊下の絵と飾られた花瓶が豪華になり、特別室と掲げられたプレートを過ぎて彼は反転する。


 そしてそこの引き戸を掴んで中へ消えた。


 豪奢な引き戸は閉まる途中で、鈴子の体の厚みを感じて止まる。

 戸の桟の上に立つと、直後にもわっと甘い香りが鼻をついた。急に視界を遮った真っ白な塊に目が眩む。


 半開きの室内は、白いバラで埋め尽くされていた。

 朱の絨毯、隅に塔のごとく積まれた宅配便の箱。脚に黒い布の巻かれた中央のベッド。

 それから、ベッドに眠る女性がひとり。


「……」

 静寂に満ちた部屋だった。

 壁際に設置された機器類から、一定の電子音が聞こえて来る。腕につながれた点滴は音もなく落ち、チューブの管は体を隠す毛布の中へと伸びる。

 酸素呼吸器をつけた女性のまぶたは、固く閉ざされていた。


「…貴ちゃん」


 微かに声を漏らし、ベッド脇の椅子に座った功成は、ゆっくりと前髪を落とした。

 キスをするのかと思った。

 額を女性の耳につけ、鼻を首元に寄せ、顔をシーツに埋める。

 功成は女性に寄り添った。


 そうして、そのまま動かなくなった。





 ホールを抜け玄関口の自動ドアをくぐると、緩いはずの日差しがあまりにも眩しくて鈴子は立ち竦んだ。出入りする人々の邪魔にならないよう入り口の隅へと移動する。

 明るい太陽が目に痛く、両足を踏ん張って仁王立ちする。渾身の力で拳を握り、大理石の床をにらんだ。

 スカートのポケットでスマホが鳴る。

 取り出して見ると、リサからのメールだった。

『いま、うちでみんなと反ダイエット会してるよ。みんなに鈴子のこと話したら、チョー興味しんしん。よかったら今から来ない?山のようなお菓子とケーキ、がっつり食えるよ!』

 写真付きで、リサが厚い唇を全開にして笑っている。周りの女子たちも変な顔したりケーキを掲げたり、こちらに手招きをしたりしていた。

「……誰、だっけ」

 顔は知っているのに、あたしは彼女たちの名前を知らない。

 鈴子は慣れない手つきで、可愛い絵もおかしな文字も作れず、それでも心を込めて返事を打った。

『うん。行く』

 送信ボタンを押した途端、堪え切れずにこぼれたのは大粒の涙だった。

「ふっ……く」

 震えながら通話ボタンを押す。数回のコールの後、電話口に出た声にしゃくり上げた。

「パパ」

「鈴子か。……どうしたその声、何かあったのか!」

 パパもママも、おじいちゃんの家を出てから心配性になった。何か怖いものを見たのか、と聞きたいだろう顔で、何かあったらすぐに言えと鈴子に訴える。

「パパ」

 今度こそ本当に、友達の家に行くから。伝えるはずだった言葉は消え失せ、代わりにあの夜感じた、冷たい水に包まれた感触がした。

 そして肺に水が入り溺れる寸前の苦しみの中、眼前に伸びたたくましい両腕も。


 涙が出た。


「……あの時。水風呂からあたしを抱き上げてくれて、ありがと」

 パパは少しの間黙り、そして小さく呟いた。

「鈴子。パパもママも、あの時のことを忘れない。一生、後悔しながら生きるよ」

 電話を切ったら水滴がぼとぼとと落ちた。染みになって広がるそれを見つめて、鈴子はとうとうしゃがみ込んだ。

 膝を抱えてうずくまる。雄叫びに似た泣き声がほとばしった。

「う、う、あああああんっ」

 病院という場所柄か、通行人はみんな見て見ぬ振りをしてくれる。お婆さんが寄って来て頭を撫でてくれた。松葉杖の若い男性が黙ったまま、足元にハンカチを置いて行った。

「あああああっ」


 あたしの周りは優しさで溢れていたのに、ただ見ていなかっただけだ。あたしは愚かだった。あの黄色の悪意の固まりのせいだけじゃなく、幻影に目を塞がれ、周りを見ようとしなかった。あたし自身が弱かった。あたしはいつでもひとりじゃなかった。

 でも。


「嘘吐き……っ」

 彼もひとつだけ嘘を吐いた。

「ひとりなんて」

 ――大丈夫なわけ、ないじゃない。


「……あああ、ああああっ」

 たったひとりの相手が必要で、そのひとりがいなくなってしまった彼。彼女がいなくなってから今までの長い間、何度その名を呼んだだろう。作られた笑みの影で、穏やかな態度の裏で、自分をひとりにした彼女をどれだけ恨み、憎み、そして渇望して来たのだろう。


 想像するだけで、その孤独に絶叫したくなる。

 

 いとし、いとしと言ふ心。決して届かぬこの心。

 愛しい愛しいとどれだけ叫んでも、心臓が裂けて喉がつぶれるほど叫んでも、君には届かないこの心。


「どうして、届かないのよ……!」

 ……どうして、世の中には仕方のないことが溢れているのよ。

「……そんなの、くそ食らえよ」


 鈴子は泣いた。そして泣きながら祈った。願いを叶えてくれるなら、組んだ両の爪が割れても構わなかった。

 きりん様はいない。もともときりん様なんていない。ならば、もしかしたら神様もいないのかもしれない。

「だったらっ、誰でもいいから……っ」

 誰でもいい。お願いだから、彼を助けて。

 面倒だと言いながら、あたしを助けてくれた彼を。

「どうか」

 彼を。

「……あのふたりを、助けて……」

 誰か。


 小春日和の日差しが首筋に下りて来る。

 枯葉が舞う中、似付かわしくない一陣の優しい風が泣きじゃくる鈴子の髪を撫でて行った。




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