61.鈴子と功成
話したいと願ってみても、話す機会すら与えられなかった今日までは、それは所詮夢物語だ。
ただ、人生最大の勇気を叩いたら、鈴子に思いもよらぬ幸運が舞い降りた。
「暇だったら、一緒に行く?おもしろいものが見られるかも」
校門を出て行く功成の後をつけた。普段の通学に使っている自転車は学校に置き去りだ。
どうしても聞きたいことがあって、そして自分のことを話したくて、爆発した欲望のまま鈴子の足は勝手に動く。あの、折った指。あれが鈴子の背を無理に押す。
彼があの角を曲がったらあたしも帰ろう、あの交差点を抜けたら回れ右して戻ろう、あの駅に着いたら黙って引き下がろう。
何度も何度も思い直して足を止めようとするが、なぜか言うことを聞かない。
そうしたら、駅の階段で数メートル先の背中が振り向いた。
「もう日が暮れるけど。行く?」
「あっ」
後をつけた気まずさよりも、気付かれていた嬉しさに仰天した。
功成は、ずっと気付いていたのに嫌な顔ひとつせず、さらに鈴子をどこかへと誘っている。
「う……うん」
頭がぼうっとなって何も思考せずに頷くと、「じゃあこっち」と長い腕が手招きした。
「あ、あ、あ、あの」
「うん?」
どうしよう。足が震えて階段を踏み外しそうだ。
もしかしたら夢の中の出来事かも、と鈴子は口の内側をぎゅっと噛んだ。
「あの、じゅ、塾。いいの?行かなくて」
「ああ……」
緊張で目の前がめまぐるしく点滅する。鈴子が指した自分のカバンを眺め、功成は少し首を傾げた。
「お、お弁当、妹……さんが届けてた、し」
「ああ、うん。……まあ、今日くらいは大丈夫。それに塾じゃないし」
「え?」
発車ベルが響き渡る。
思わず立ち止まると功成の背中はすぐに遠くなり、鈴子は小走りで追いかけた。
功成は人でごった返す改札を抜け、どんどん先へと歩いて行く。切符を買うのにもたついていたら見失いそうで、鈴子は必死に追いすがった。
地下道を抜け連絡橋を渡り、一番先のホームへと続く階段を上る。
息を弾ませる鈴子を彼がやっと振り返ったのは、単線電車が止まる小さなホームの隅だった。
「こ、ここ。あまり……使われてない線だよね」
「そうだね。こんな時間にこっち方面に行く人なんて少ないだろうし」
人気のない単線電車の行き先は、鈴子には見覚えのない土地名が書かれている。背後を見ると、主要線のホームに並ぶコート姿の人々がやけに遠く感じられた。
「こっちには誰もいないみたいだね、うちの学校の人」
鈴子の胸の奥に、ふつふつと青白い炎が灯る。誰か、誰でもいいから、今この光景を誰かに見られたかった。
あの功成とふたりきり、見かけた誰かの驚く顔を思いきり笑ってやりたい。
下等な奴らの間抜け面を見返してやりたい。
「行こう」
しかしそんな楽しい妄想は叶わず、乗り込んだ車内は空席だらけだった。長椅子に微妙な距離を空けて座ると、発車のアナウンスが流れる。
「で?僕に何か聞きたいことがあって、後をついて来たんでしょ」
「え、えっと」
一緒に乗り込んだ冬直前の寒風が足元を撫でる。頭が真っ白で、咄嗟に出た言葉は幼稚だった。
「塾、じゃないの?……噂では、毎日学校が終わると家とは違う方向の電車に乗って行くって」
「塾じゃないよ。面倒だからそう答えてるけど」
苦笑いする横顔が凛々しくて、鈴子の膝裏がくすぐったくなった。
「じゃ、じゃあさ。これも噂だけど、町で随分年上らしき女性と歩いてたって」
「さあ?誰かな。お母さまか……」
「おか……ママのこと?」
「違うけど。……そうか」
白い頬を緩めた功成が、鈴子を覗き込んだ。
「夏の三者面談の時、つい口から出ちゃったの聞いてたんだ」
おかしそうに口元に手を当てている。細身でもしっかりした肩が揺れて、喉仏がくっきり浮かぶ。目にかかる長めの前髪が跳ね、鈴子の頬を上気させた。
「じゃあさ、じゃあさ。あの時読んでた文庫本、古代や近代歌集の解説本でしょ。噂だと、家業を継ぐかどうか決めかねてるって誰かが言ってた。おうちを継ぐより、ああいうのに興味あるの?」
「別に。仕方なく読んでるだけ」
「仕方なく?」
「そう。勉強しなきゃなんないみたいでさ。約束させられて」
他人事のように吐き捨てて、切れ長の目尻がほんの一瞬何かをにらんだ。
「え?誰に?」
言った途端、激しい後悔に襲われた。明らかな拒絶の空気を浴び、鈴子の膨れた好奇心はぺしゃんとつぶれる。
「あ、ごめ……」
調子に乗り過ぎた。浮かれて、馬鹿な奴らと同じような質問ばかり繰り返してしまった。整った唇が結ばれたままの横顔から目を逸らし、苦い思いで歯の裏を舐める。
車窓の外は、流れる景色が闇に染まりつつあった。
「……別に、謝らなくてもいいよ。ま、僕は興味ないんだけどね。歌とか、古代信仰とか、本当にどうでもいいんだ」
「うん」
線路からの震動に紛れた功成の声音には、冷めた響きがあった。
「でも、確かあの文庫本は、最後の方はおもしろかったかな。古代から江戸までの歌の解説が載っていたんだけど、江戸末期頃の創作歌って言うのかな。都都逸、だっけ。あれは結構いいね」
淡々と歌を読み上げる。
「コイといふ字を分析すれば、いとし、いとしと言ふ心。とか」
……昔の恋という字は、糸、言、糸に心と書いた。
恋という字をほどいて見てみれば、糸し、糸し……愛しい愛しいと言う心、となる。
「いとし、いとしと言ふ心。決して届かぬこの心。みたいな?」
笑いかけられ、鈴子も無理に笑う。落ち込んだおかげで、ようやく本来の質問を舌に乗せることができた。
「あのね。もうひとつ」
「また噂?」
半笑いの横顔にかぶりを振ると、大きく上体が傾いてどこかの駅に着いた。
「今日、あたし見たの。休み時間にみんなで番組を観てて、あの時。机の下で指を折ってたでしょ。あれ、あたしも小さい頃にやってたのをちょっと思い出したの。他の人が見えないものを数える時に、周りに隠して指を……それで、あの。もし良かったら、あたしの話も聞いてもらえたら」
言いかけて、鈴子は口を噤んだ。
「君の話はこれからゆっくり。まずは、僕の話からしよう」
立ち上がる肩を見て、何も考えずに立つ。吸い寄せられるようについて行き、ホームに降りた。
さっきから、言われるがまま彼について行くばかりだ。
「ここどこ?」
「あはは。最後の最後に、そんな一番大事な質問?」
駆け足の闇が迫っている。凍える空気がまぶたに刺さった。
「少し歩くよ。平気?」
吐く息が白い。
振り仰ぐと、星のない空の向こうに小高い山の稜線が見えた。黒い輪郭がうっすらと盛り上がっている。
知らない間に随分遠くへ来たらしい。
その輪郭の方向へと足を向け、功成は語り出した。
長く長く、不思議な、そして少しだけ恐ろしい過去の話だった。




