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57.きりん様


 幼い頃、鈴子の隣にはいつも「きりん様」がいた。


 きりん様は見上げるほどの巨体で、長い筒のような首は遥か上まで伸びている。その先にあるはずの顔は天井を突き抜け、小さな鈴子には遠過ぎた。実際、鈴子はきりん様の顔を一度も見たことがない。

 しかし不思議なことに、声は耳のすぐ近くに届く。いつか鈴子が、「長い首が、動物図鑑で見たきりんのよう」と言うと、「構わねえよ」と笑いを含んだ深い声が答えた。

 そうして彼は、きりん様となった。


 きりん様はいつも優しい。子供の鈴子に色々なことを教えてくれた。

「鈴子、お前の体にはなあ。ヘビのような白く長い奴が巻き付いているんだぜ」

 こうささやいたのもきりん様だ。

「でも、そのヘビはもうかなり透けてやがる。割れて剥がれ落ちるのも時間の問題だな。だからほら、お前はぼんやりとしかおかしなもんが見えないだろ」

 確かに、鈴子は物心つく頃から、他人には見えざる者が見え、聞こえざる声が聞こえた。ふと気付くと傍らにはきりん様もいた。

 しかし、それらはすべて霞の中でぼやけており、はっきりと見えたことがない。見えると認識した時には、すでにヘビは透け始めていたのだ。映像は輪郭のない幻影のようで、声はプツプツと途切れる意味のない音だった。

「そっか。だからあたし、きりん様のことも、よおく見てもぼんやりとしか分からないのかしら」

「そうだなあ」

 きりん様の皮肉げな、でも優しい笑い声。暗闇で光る蛍のような、淡い黄色の巨体。太く長い首には薄茶色の斑点があって、全部が全部不確かで幻想的だった。

「他のものはよく見えなくてもいいから、きりん様だけはちゃんと見たい」

「俺を?そうか、残念だなあ鈴子」

 きりん様がくつくつと深い声で笑う。鈴子は嬉しくなって、陽炎のようなきりん様の足元に寄り添う。

 この頃の鈴子にとって、きりん様が世界のすべてだった。

「どこへ行くにも一緒だよ、きりん様」

「おうよ、鈴子。俺がいつでも守ってやる」

 パパが事業に失敗し、家を引き払ってママの実家に身を寄せた時もきりん様と一緒だった。ママのパパ、つまりおじいちゃんが鈴子の薄れかけた力に気付き、目の色を変えた時も一緒だった。おじいちゃんが鬼の面よりも厳めしい顔で「鈴子、今日からお前は鈴子ではない。神の子だ」と告げた時もそばにいてくれた。

 鈴子は家に閉じ込められ、奇妙な袴を着せられて座敷にこもる。御簾の向こうでは、毎日たくさんの大人が訪れて鈴子にお辞儀をした。

「それではこれより、神児のご神託を申し上げる。さ、神児」

 御簾のこちら側でおじいちゃんが重々しく合図をすれば、鈴子はかしこまる人々へと目を凝らす。彼らの背中や腕にぼうっと黒い影が見えれば、それを仕草でおじいちゃんに教える。するとおじいちゃんは頷いて、彼らに向かって神主さんが持つような棒を大げさに振った。

「あなたは、背中に病が。あなたは腕に凶兆が。神児に私財を渡し、浄化されるがよい」

 誰もがぶるぶる震えて札束を差し出していた。

 それを鈴子の隣で眺めながら、きりん様は心底おかしそうに笑っていた。

「鈴子。お前といると、飽きねえな」

「きりん様。あたしもきりん様がいて楽しい」

 いつのまにか鈴子は有名になり、雑誌やテレビの取材まで押しかけるようになった。霊感少女、霊媒の神の子と呼ばれ、鈴子は御簾の中できりん様と座っていただけなのに世間は大騒ぎとなった。

「お、お義父さん。鈴子は、普通の子として育てたいと、ほ、保育園にも行かせなければ……」

 消え入りそうな声でおじいちゃんに抗議するが、事業での借金のことを持ち出され怒鳴られると青い顔で黙ってしまうパパ。

「す、鈴子。嫌なら嫌と言うのよ。おじいちゃん、ちょっと欲に目が眩んで……あなたに、こ、こんなことを」

 ただ気弱にオロオロと、おじいちゃんを横目で窺うだけのママ。

「よし、鈴子をご神体にして宗教法人の申請をするぞ」

 夜毎、札束を数えるおじいちゃん。

 そのどれもこれもが鈴子にとってはどうでもよく、興味すら湧かない。

 鈴子はただ、きりん様がいればそれでよかった。

「いい子だな、鈴子」

 からかう口調でそっと、ささやかれるだけで幸せだった。


 ある日のことだ。

 鈴子の耳の奥で、「ぱりっ」と何かが割れる音がした。

 自分のへその下辺りを見てみる。何も見えない。そして耳元で、雑音の混じった声がした。

「とうとうヘビが割れて剥がれ落ちたぜ。もう見えなくなる」

 え、といつものように隣を見上げるが、やはり何も見えなくなっていた。きりん様の長い首も、茶色の斑点もどこにもない。

「終わりだな、鈴子。あばよ」

 一瞬で消えたきりん様の気配に、鈴子は動揺した。

 御簾の内で立ち上がり、怖い顔をしたおじいちゃんに言った。

「……見えないの。あたし、もう何も見えない」


 そこからのことはよく覚えていない。

 人々が詰まった室内は騒然となり、鬼よりも真っ赤になったおじいちゃんに引きずられて景色がぐるりと反転した。

 禊だ、神力を高めなければと、狂ったように喚くおじいちゃんの声、いきなり水風呂に沈む自分の体。冷たさに肌が悲鳴を上げて、鈴子は水を思い切り飲んだ。肺ががぶがぶと音を立てた。息苦しくて意識が飛ぶ寸前、両の手が鈴子を引き上げる。真っ青な顔のパパが鈴子を抱き締め、色の失せたママがおじいちゃんを羽交い絞めにしていた。

「鈴子、鈴子!もういいからな、もう大丈夫だからな!」

 揺さぶられて何度も擦られるが、鈴子は白む頭で別のことを考えていた。


 きりん様。

 ――お願い、戻って来て。

「……大好きな」 

 恋しい恋しい、あたしのきりん様。



毎朝7時頃の更新です。

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