55.沙貴と
開かないはずの功成の部屋のドアは、力も入れずに開いた。
同時に、もわっとこもる煙が沙貴を取り巻いた。
「コウ」
咳き込むことはない。肺はつぶれてしまったのかと考え、自分は怖がりだから怖いことを考えるのは止めよう、と目を凝らした。
「コウ」
煙の立ち込めた視界を手探りでさまよう。頭に浮かぶ歌が、沙貴の白み始めた意識に活を入れた。
死者は煙、煙は山にかかる雲、つまり死者は山に隠れる。
死者のいるところに煙がかかる。黒い煙が。
……山にもみじを茂み、迷いぬる。妹が求めむ、山道知らずも。
山には草木が生い茂り、苦労して来たのに何も見えない。あなたが隠れたという、山の道が分からない。
「あなたは……山に隠れたから、見えない」
だから、引き返そう。
いや、そうじゃない。
探そう。
「コウ」
その時、沙貴ははっきりと見た。
ベッドに寄りかかる功成のその上。
――功成の首に手をかけ乗りかかる、真っ黒な影を。
「あなたね。探し人は」
凛とした声が出たと思ったが、幻聴にも思える。止まらない鼻血を拭い、沙貴は麻痺した喉を振り絞った。
「あなたね。この家の周りをぐるぐる回って、どこか入るとこはないかと探していた人は」
影は輪郭を震わせ、ゆっくりとこちらを向いた。
この世に桃は溢れている。
……この世には、永遠に分かり合えない者たちがいる。記憶を違え、言葉を忘れ、自身を失くし、ただ悪意の固まりになって理由もなく害を為そうとする者もいる。
それでも。
「あなたの気持ち。私、少しだけ、分かるよ」
体に巻いたヘビが唸り、沙貴の膝が崩れた。
山を下る者がいる。引き返す者がいる。その者たちは、ただ忘れられた黒いテープ、注連縄のせいで下りられなくなっていただけだ。
その中で、この者だけは違った。
「これはね、本当に私の勝手な想像よ。あなたのこと、何にも知らないけど」
引き返さず、探して探して、山を進み頂上まで辿り着いた。
誰かを探して、山にいるはずだと考えて、薄れた記憶でここまで来た。ないはずの記憶の糸だけを頼りにした。
愛しい誰か……死者を、どこかにいるはずだと記憶している相手を探す。自分もとうに生を終えたのに。
「あなたの大事な『隠れた人』を探して山に来たのね」
山の際に雲がかかっている。あの雲は、火葬されたあの人の煙だろうか。
ならばあの人は、山にいるはずだ。
ここにいるはずだ。見えない会いたい見えない。
見えない。
会いたい。
ここにいる、はずなのに。
「ここに……いる……はず、だから……」
床を波立たせる地底の声が湧く。
影の声は、深く恐ろしく、そして悲しみに満ちていた。
「そうね。……でも、あなたその感情しか覚えてないでしょ。もう意識も失くしているでしょ。それ、あなたの探してる人じゃないのよ」
「でも……この人、自分か、ら、招き入れて……くれて、ここだよ、て、入って来い、て」
ここにいる。僕はここにいるよ。
「うん。ごめん、許して。投げやりになっただけなの。この子、まだガキだから」
功成が呼んでいたのは私だ。引き返そうとする私を、彼はずっと呼んでいた。
それを思うと、
……泣きたくなる。
「許して。ここにあなたの探す人は隠れていない。ここに死者はいない。……それでも、どうしても見つけたい、連れて行きたいって言うなら」
沙貴は痣だらけの腕を広げた。
「私は、どう?」
「……」
影はゆらりと立ち上がる。
首からその手が離れると、功成の体はごとりと床に転がった。
影はただこちらに黒い手を伸ばした。
「……まったく。そうよねえ、引き返せないよねえ」
もがく仕草で影は歩み寄って来た。
意識もとうにないのに、探すという行為だけが影を動かしているのだろう。
ゆらゆらと手が迫る。
「体も記憶も失くしたあなたの探し人が、どんな人かは全然知らないけど。あなたのただひとつ残った気持ち、分かるよ。も、ほんと。自分に呆れて笑うしかないよね」
うめくヘビの男を渾身の力で押さえ付けて沙貴は笑った。
「……馬鹿だよねえ、私たち。見えなくても引き返せない。笑った顔やすねた顔や、見上げて来る顔を思い出すとさ。抱き付いて泣いたり、ご飯粒を頬にくっつけて騒いだり。無邪気に自分の名を呼ぶ声を、思い出すたびにさ。……引き返すなんて、できやしない」
五本の黒い指が顔前を覆う。
「例え死んだとしても。できるわけないよね」
「これでいい」
地を這う声が、ほんの少し笑ったように揺らいで届いた。
黒い五本指が透けたヘビを掴み、沙貴から剥がして消えた。
「寝坊よ、コウ。遅刻。起きて」
耳に吹き込むと、白いまぶたが動いた。沙貴は安心して寝転がる。
横抱きに抱き締めたら、いつかどこかで感じたような、まるで春の暖かさに似た、優しいぬくもりが伝わった。
立ち込めていた煙は次第に晴れたようだ。沙貴にはもう見えないが、カーテンの隙間から差し込む遅い朝日が教えてくれた。
「今日は寒い朝になりそう。……ほら。起きろ」
額と額をくっつける。口の端から流れた血が染みを作る。
「学校へ行くのよ、コウ」
「……沙貴ちゃん?」
すっきりとした眉間にしわを寄せ、功成は徐々に目を開けた。
「学校へ行くの」
遊んで、友達作って、色んな人がいるなあって知るのよ。
「さ」
息を呑む気配に、目と目を合わせる。
きらめく黒目は月夜のようで、朝の光は眩し過ぎるに違いないと思った。
それでも、光を浴びて歩いて行かなければならない。
「学校へ」
人と話すの。自分の力の限りでいいから、できる範囲でいいから、人を助けてあげるのよ。ご飯食べて、運動して、それから
「……て」
勉強してね。
旅を続ける力を備えてね。
喉が奇妙な音を上げて血を吐き出した。すでに声は出なくなっていたが、沙貴は語り続ける。
伝えたいことがたくさんあった。
「ひと」
見えない人たちは眩しくて、自分は闇にひとりで、さみしくても仕方ない。世の中には、仕方のないことが溢れている。
それを運命と言うのよ。
そしてそれを迎え撃つ強さを、成長と言うのよ。
「ひとりでも」
床は温かく、腕の中の体はもっと温かい。
「さ、沙貴ちゃ」
目の前の唇がわなないた。突如絶叫が響き渡る。
咆哮とともに激しく体を揺さぶられたが、沙貴には振動すら伝わって来なかった。
ああ、こんな感情の爆発したような泣き声は久し振りだなあと思う。幼さを拭い去った頃から、この子は大声で泣かなくなってしまった。
功成の自分の名を呼ぶ泣き声は、やっぱり心臓に響く。
沙貴はどうしても微笑ませたくて舌に力を込めた。
「あんたは私の……サマなんだから」
おどけた台詞は濁って消えてしまったが、床に踊る光線がきらきらと輝くのが見えた。
朝日は山の端を昇り、天を目指して光を広げる。ひとりのさみしい道を照らしてくれる。
「だか」
だからひとりでも、大丈夫よ。
コウ。




