54.沙貴と老住職
例えば、冷蔵庫に閉じこもった女を探していた男がいた。十ヶ月前にも、赤ん坊を迎えに来ていた女がいた。
探すという行為は、人と人とのつながりを強く示す意思の発露なのだろうか。
思いながら、沙貴は鼻から垂れ落ちる血を拭った。
「……これは、ほんとにすごい数ね」
境内に戻ると、世界は一変していた。
影が、列をなしてうごめいている。その群集は黒い波のようで、ひしめき合った者たちのざわめきは轟音となって耳を襲う。
例えば、イベントが開催されている会場。連休の空港。
見えていない時とはあまりにも違う光景だった。
「影が、笑ったり話したり怒鳴ったりしてる。……まるで、生きている者たちと同じみたいでしょ」
沙貴はささやいて一歩進んだ。
「まあ、あなたはもう生きてる時のことを覚えてすらいないだろうけど。……このまま、おとなしくしてて。静かにしててよ、もう少しだけ」
べろん、と肩に乗った男の顎が傾いだ。
長く伸びた顔のせいで、男の顎は沙貴の肩にあるのに額は腹の辺りだ。胸元にある男の縦長の眼球は、白目を剥いていた。
「あ……お……」
長い男はうめき、沙貴を見上げて来る。その途端、沙貴の全身がぎりぎりと絞め付けられた。
「ごほっ」
巻かれた足首が痛い。いや、それよりも喉が苦しい。
ヘビのように長く伸びた男は、よほど沙貴に巻き付くのが嫌なのか、断末魔の叫びとともに喉を絞め上げた。
「……静かに、してて……ってば」
目眩がする。
下を向いたら耳からもぽたりと滴が落ちた。
男の長い体にかかった血は鮮やかに赤い。透け始めている男の白い体と赤い血が、奇妙なほどはっきりと沙貴の目に映った。
男は長過ぎた。
ヘビのように伸びた体は、沙貴の全身にぐるぐると巻き付いてなお、首から上が余っている。
そしてその首は逆さまになって、沙貴の肩から斜めに垂れていた。
「ああ……お……」
男がうめくたびに絞め具合がきつくなる。それでも沙貴は、前に進んだ。
「どいて」
近寄る影が沙貴の声で退いた。道を空けながら、両手足を揺らしている。
こちらをじっと窺っているらしい影の輪郭は、空気に滲んでいるように見える。細い棒に似た立ち姿はどこか奇妙で、そこかしこに集まって頭を寄せて話している。
「どいて。今、あなたたちの話を聞いてる暇はないの。ううん、私はもう話を聞く旅人じゃないの。だからどいて」
進むごとに、影の人垣が割れた。
目も口もない人型の影だが、こちらを見ているのだけはなぜか分かる。
「……目鼻や。肌や肉までも失くして。人間の輪郭まですべて失くしてもさ。……あなたたちは、どうしてここに留まっているんだろうね」
沙貴は熱を持った鼻を拭い、ただ前を向いて歩いた。
目や口や耳を持ち、衣服を着て生きたままのふりをしながら、人を騙そうとする奴らもいる。記憶通りの姿を保ちながら、自分に生がないことに気付いていない奴らもいる。それらとは旅の途中、会話したり話を聞いたりもした。
しかし、長い年月が経ち過ぎて、意思や記憶や輪郭、姿そのものを失くしてしまう奴らもいるのだ。
それが影でありそういう影たちを初めて見たのは、火葬場だった。そして今いるのは寺の境内。
「本当の、終着点、なのね。影が辿り着く場所ってのは」
ただの記憶か欠片の残留思念か、手を振って来たり話しかけて来たり、近寄ったり逆に顔を背けて遠ざかって行く影たちを眺め、沙貴はひりつく喉を擦る。
影たちには意識そのものがない。永遠に分かり合えない者たちがこの世にはいるのだと、沙貴は黒い残像から目を離した。
時々、黒い手を伸ばして沙貴の腕を掴んで来る者もいたが、ヘビに巻かれた激痛のおかげで針ほどの痛みも感じない。しかし手形の痣は瞬く間に体中を埋め尽くした。
裏庭を通って窓のある洗面所の辺りを過ぎると、隅の方で大声が響く。
「我がやってやったぞ。我が額田王の命を受け、我があの渡り廊下に火をつけてやった」
作務衣を着た長髪の中年の男だ。以前見たときよりも、体に巻き付くヘビがさらに透明になっている。
「くだらないことを」
吐き捨て、沙貴はふと窓に映った自分の姿を見た。
「……私も、だけど」
足首から首まで、ヘビが巻き付いている。透けかかったヘビのような人間が。
そして、喉。
「真っ黒ね」
微笑もうとして足の付け根がきしんだ。
沙貴の喉は絞められて痣になり、痣が重なり過ぎて手形ではなくなり、雨の降る直前の暗雲のような染みとなって喉全体に広がっていた。
骨がきしむのを苦労して渡り廊下の手すりを掴む。よじ登るとようやく、勝手口の扉に手をかけた。
扉を引くと、周囲の影たちが一斉に手を伸ばして来る。しかし沙貴は隙間に体を滑り込ませ、そっと扉を閉じた。
「よし」
ノブに片割れの黒い布を結び、もうひとつの布はわずかに動く指に巻く。振り返ると、廊下には人の気配がなかった。部屋で休んでいるように、誰も出て来ないようにとの栄美子との約束は守られたようだ。
眠れずそれでも布団に入り、不安と戦っているだろう栄美子を思い浮かべ、その強さと優しさに感謝する。
その時、誰もいないはずの廊下に読経が流れた。
「……」
経を読む声は高く低く、朗々と冷たい床を撫でて行く。
「おじい様」
沙貴がささやくと、荘厳な響きは止まった。
「……何もできなんだ」
磨かれた床が反射する。老住職が扉の前にいた。
「今は、はっきり見えます。おじい様」
「……許していただけるとは思っておらぬが、あなたがそのようになってまで……わしは何も、できなんだのに」
明かりのない闇が揺らぎ、久し振りに聞く声音は沙貴の体に染みた。
「功成が……あの子が。自分から鍵を開けるのを。止めることすらできなんだ」
「あの子は、ちょっと自棄になっただけです。おじい様が何を言っても聞かないくらい。誰でも心が弱くなる時はあります。おじい様の愛情が届かない瞬間も」
「見えないと言うのは」
老住職は剃られた頭を床につき、深い懺悔を告げた。
「罪を失くす理由にはならない。見えずと言って、渡り廊下を造ったわしの罪はあまりにも大きい。そのせいで霊道が歪み、この扉ができ、そして功成が自らを陥れるような真似をした」
伏したまま顔を上げない老住職に、沙貴は穏やかに言った。
「それでも、今までこの扉の前でずっと守っておられたんですよね。生を失くしてなお。生に執念など残さないあなたのような高潔な方が、こんな姿になってまで。……あなたの心残りは、渡り廊下ただひとつだから。おじい様」
正座の老住職の法衣は、何者かに踏まれしわだらけになっていた。
侵入者に踏まれても、頑なに扉の前を動かずにいたのだろう。
初めて会った時、優しく会釈をしてくれた。この家の中を静かに見つめ、ずっと守って来たのだ。
「経を唱えることしかできなんだ」
見えざることを悔いても終わらず。
渡り廊下を造ったことに悔恨を残し、守り抜くことを責とした高潔な住職の言葉は、「見えない人」の象徴に思えた。
「はい。私もそう思います。悔いても、終わらない」
「礼の申しようもない」
「礼なんて。家族を見るのと同じように、いつも私を温かい眼差しで見ててくれて」
「……ご加護を。どうか、ご無事で」
「もちろん」
答えて扉に背を向けた沙貴の声は、吐血混じりに掠れていた。




