51.沙貴と鞘子と、そして
頬に温かいものが触れている。沙貴は浅い眠りから急速に覚醒した。
「……っ、……よ」
額に何かが落ちて来た。
「…っぱり、…で…んて。…りだよ」
頬を包んでいた温かいものが離れる。残った温度で、それが手だと知る。
そして額に落ちた何かが流れ、耳に入り込んだ。これはきっと、一滴の涙だ。
「……きだよ」
ふすまの開く気配がする。沙貴はゆっくりと目を開けた。
体は仰向けたまま首だけ動かす。見えたのは、背の高い男性の肩だった。
後ろ手にふすまが閉められ、廊下へと出て行く白いかかとが視線の先から消えた。
「……」
沙貴は天井を見つめたまま、静かに両手で顔を覆った。
「う……っ」
込み上げたのは嗚咽だった。
「うっく」
押し殺した声が漏れる。心臓は貫かれて激痛を生み、喉は絞られたように熱い。
驚きと戸惑い、混乱もあったが、それよりも届けられた言葉が沙貴を打ちのめす。
真新しいシーツに顎を伝った水滴が落ち、首元をしっとりとした冷たさが濡らした。
「ひっく」
隣で眠る鞘子を起こしてはいけない。幼い寝息は穏やかだ。気持ちのまま泣き叫んでしまえば、疲弊し寝静まった家の中が目覚めてしまう。
「く……、うっく」
慟哭という言葉の意味を、初めて知った瞬間だった。
「……」
火葬場で出会ってからもう何年だろうと指折り数え、そうすることで冷静になろうと努める。
折った指が七本になった時に、沙貴は自分の涙の理由を知った。
「あんな悲しい声で」
七年間の中で、あんなに悲しい言葉は聞いたことがなかった。
「楽になった」と喜ぶこともできないほど、七年という月日で誰よりも近くに居過ぎてしまった。
「同じ……ものを見ていたんだもの……」
他の人は見えない。自分たちだけが見えてしまう。
心細くて不安で、隣にある小さな手だけがいつも心の支えだった。
「そんな……気持ちを持ち続けていたんだもの」
だからお互いの存在が近くなり過ぎてしまった。
「……途中で引き返すなんて」
涙が溢れる。
「どうしよう」
でも、見えない自分に何ができる。一体何をすればいい。
沙貴は長い時間をかけて、何度も何度も顔を拭った。滴るほどに濡れた手の平を裏返して、甲で目を冷やす。仰向いた体勢のまま泣くことがこんなに疲れるとは思わなかった。
ようやく涙腺が枯れ、詰まった鼻が痛む頃には、静かな室内に夜明けの冷気が漂っていた。
「……」
胸のつかえを息で吐き出す。考えがまとまらないまま沙貴は、布団の中でそっと横向きになった。
「っ」
体が硬直する。
眠っていたはずの鞘子が、ぱかっと両目を開けていた。
「……鞘子?」
薄闇の中、鞘子は首だけこちらに向けていた。口が半開きになっている。
そして小さな顔には、一切の表情がなかった。
「来るよ」
ぞっとした。
開かれたその両目には目玉がない。
「さや、こ」
まるで捨てられた人形だ。
幼い顔に、黒々とふたつの空洞が開いている。
異様さに目が離せない沙貴の息が止まり、室内の気温が一気に下がった。
すぐ目の前の鞘子の顔は静止している。鼻先がくっつくほどの距離で、口だけが動いた。
「入って来たよ」
いま。
ふと、沙貴は鼻をすすった。微かな異臭が、固まってしまった血流を溶かす。
沙貴は空洞の両目から視線を剥がし、半身を起こした。
「なに」
焦げた匂いがふすまの隙間から忍び込んで来る。と同時に、薄闇に紛れる黒煙に気付いた。
「!」
飛び起きて廊下に転がり出る。闇に静まり返る空間の先に、異質な風が吹いていた。
「と、扉が……っ」
渡り廊下に続く、あの扉が開いている。沙貴は夢中で走った。
一度壊れた厚い扉は、再び頑丈な錠がつけられたはずだった。しかし今、その扉が開き外とつながっている。
「どうしてっ」
沙貴は扉と渡り廊下の境に立つ。咄嗟に視線を走らせ、扉のノブを覆う外付け錠に鍵が刺さっているのを確認する。
そして前方に伸びる渡り廊下のその真ん中、木で彫られた手すり部分から立ち上る煙を見た刹那、体を翻した。




