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50.沙貴と鞘子


 寺の母屋は、どこもかしこも重い雰囲気に満ちていた。


「沙貴ちゃん。おはなし、おわった?」

 廊下で立ち尽くしていた沙貴の目の前で、ふすまが元気よく開く。


「ビーフシチュー、にこむのももういいよね?キッチンからここまで、いいにおい」

「鞘子」

 氷のように冷えた足先に快活な幼声が心地よかった。

 無意識に手を伸ばす。そんなみっともない沙貴の行動に、幼い少女はふと笑んだ。

「だいじょうぶよ、沙貴ちゃん」

 鞘子が胸に飛び込んで来る。沙貴は、知らずに詰めていた息を吐いた。

「だいじょうぶよ。……ったく。お兄ちゃま、ししゅんきなのよ。これだからオトコってやっかいなのよね。だいいちじカンコーヒーなんだから」

「反抗期ね」

「だから、すぐまたもとどおりになるよ。今はトウコウキョヒってるけどやっぱガキよね」

「そうね」

 沙貴はようやく、心から微笑むことができた。


 毎日呆れるほどしつこく鳴っていた沙貴の携帯は、あの雷の日以来静かになった。代わりに、鞘子からの電話が定期的に入るようになった。

 栄美子とも連絡は取っていたし、何度かこの寺にも足を運んだ。功成の様子をそれとなく聞いたり、功成を交えてお茶を飲んだりもしていた。

 しかし年が明けてから、そのどちらもぱったりなくなった。

 何が起こったのか知ったのは、やはり幼い鞘子が背伸びをして家の電話からかけてくる、助けてコールのおかげだった。


「ママはね、沙貴ちゃんにしんぱいかけるからってでんわしなかったのよ」

 一緒に廊下を歩きながら、鞘子が腕組みをした。ませた態度がどこか板についている。

「ばっかばかしい。みんなびくびくしちゃって、あたしもううんざり」

 わざと大声を出すけなげさに沙貴は笑った。


 年明け、寺の離れに住む先代の妻、つまり栄美子の義母が病に倒れた。彼女を入院させた帰り道で現住職、栄美子の夫であり功成兄妹の父が交通事故に遭った。母屋で療養する夫を支え、寺の雑務をひとりでこなして来た栄美子は突然に原因不明の高熱を出し、今も寝込んでいる。子供だけじゃ不安だろうと常日頃は通いで寺務所に勤める職員が泊まり込みをしてくれた途端、次々に熱を出した。


 お山に人の手が入ったからだと檀家たちが心配している。それとは別に、心ない噂を立てる人も出始めた。保育園で鞘子と遊ぶのを断る園児が言ったらしい。「近寄ると、何か変な病気を移されるから」と。


「ね、沙貴ちゃんのビーフシチュー、あたしだあいすき。早くたべよう。あの、お肉のかみきれないかたさが何ともいえずヤバイのよね」

「それ褒めてないけど」

「そんであした、あたしほいくえんやすむ。一日、いっしょにあそぼう。おうちでえいがみよう」

「またプリティウーマン?もう飽きるほど観させられたよ?」

「あれさいこう。オトコのカードつかってかいものするとこ、さいこう」

「鞘子。将来が怖いわよ」

 寺に来て栄美子に挨拶をした時、布団に臥せった彼女は、「鞘子ちゃんにはいつも心配ばかりさせられるけど、こういう時にはあの子の太陽のような明るさに救われるわ」と笑いながら言っていた。

 鞘子は太陽だ。本当にそう思う。

 暗く澱んだ空気に押しつぶされそうになっているこの家で、彼女の屈託ない笑顔だけが拠り所のように輝いている。

 そして鞘子自身も、幼いながらもそれをしっかりと自覚しているようだった。

「こんやはいっしょのへやでねようねえ。沙貴ちゃん」

「もちろん」

 廊下の冷たさは足先から喉元まで這い登ってくる。沙貴はジーンズのポケットに手を突っ込み、二本の布をまとめて握った。

 角を曲がりキッチンの方角へ歩く。母屋勝手口の、あの扉の前を通り過ぎた。

「……」


 何も見えない。功成の祖父の姿も、扉を激しく叩く外からの怒号も、見えないし聞こえなかった。


「沙貴ちゃん。みんな、ほんとガキよね。お兄ちゃまはすねてるし、パパもママもくらい顔しちゃってさ。ただ、うんのわるいことがいっぱいおきただけなのに」

 何かに対抗するかのように鞘子が呟く。

 沙貴は頷いて、頷いた直後に驚いた。


 運の悪い出来事が、ただ重なっただけだ。不幸の続く偶然だ。

 そう自然に思えるようになったのは、聞こえなくなった日常を送っている証だった。功成と出会う前の自分に、少しずつ戻り始めているのだ。

 何らかの異常を見えざる者のせいだと思わなくなる。当然過ぎるこの感覚が、沙貴に戻った。

 それがどうしてこんなにも全身を冷やすのか自分に問う。しかしあの雷の日からずっと麻痺したままの自分の心臓は、何も答えてくれなかった。


「……」

 洗面所を通り過ぎる時、壁にかかった鏡に何かが映った。

 薄明かりの中、鏡の右から左へと、影のような滲んだ塊がすっと横切る。

「沙貴ちゃん?」

 沙貴は立ち止まり、視界の隅に捉えたそれに全神経を集中させた。

 未だに時折、こういうことは起こる。

 ラジオのチューナーがふいに合うように、パズルのひとかけらが一瞬かちりと嵌まるように、視界の端に映ったり耳に声が飛び込んで来たりする。


 消える直前の、功成の「おこぼれ」である力の、最後のくすぶりのようだった。


 しかし一瞬見えたとしてもそれは幻のように儚く、いくら追い求めても輪郭すら掴めない。もう一度見直すと見えたはずのものは跡形もなく消えているのだ。

 見間違い、聞き間違いだと感じる頻度が増えた。いや、そう思うようにする無意識の防衛本能が働き始めた。


「だって」

 どれだけ頑張っても結局見えず聞こえず、そのたびにあのきらめく切れ長の黒目が浮かんで、苦しくて泣きたくなる。


「……いこう、沙貴ちゃん。ごはん、たべよう」

 鞘子が不思議なほど優しく沙貴を促した。泣きそうな顔をしていたからかもしれない。


 鏡に映った影は二度とは見えず、限界まで開いていた沙貴の両目には涙の膜が張っていた。

 歩き出した廊下窓のカーテンの向こうで、ゆっくりと動く影がいる。ふっと鼓膜が震えて、地の底からの声が一瞬だけ聞こえる。それはほんの一瞬なのに。


 それを目で追い続けたり、耳を澄まし続けたりする自分が、苦しくて仕方なかった。







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