48.お山信仰の果て
沙貴は澱みなく語りながらも、別のことを考えていた。
目の奥に焼き付いている光景がある。
それを何度も再生しては巻き戻し、様々な角度から見直してみる。
しかしどれだけ繰り返してみても、その場面の結末は同じ道筋を辿ってしまうのだ。
「私がいるから」
人知の及ぶところではない途方もなく恐ろしい者に向かって、沙貴は告げた。
そしてその者は尻尾をたなびかせて森に消え、残されたふたりは手をつないだ。
見上げたのは白い月だった。息が白かった。彼の指は細く華奢で、白い頬は溶けた餅のようだった。
沙貴は考えていた。
この子はひとりだ。
だから私が、この子とこちらの世界を結ぶ橋になろう。
そして最後に、こう考えた。
それはこの子が成長するまでの間だ。それはあともう少し、だけれども。と。
何度も記憶を辿ってみても、必ずあの時の場面はこうして終結する。
この子が成長するまでの間、私は橋になろう。
成長するまで、時間はあともう少しだ。
と。
そして子供は、成長してしまった。
「……へえ。お山信仰」
功成が机に片肘をついたまま言った。
「そう。古代から、ずっと根付いている独特な考え方でね」
沙貴は頷き、腰を下ろしている本棚の固い感触を確かめた。
低い本棚は木製の二段式で、下の段には辞書や図鑑、家族が買い与えた子供用の参考書が整然と並べられている。開かれた形跡がほとんどないので、まるで本屋の一角を見ているようだ。
そして上の段には何も入っていなかった。
「椅子、持って来ようか?」
「大丈夫。椅子代わりにちょうどいい高さだし」
回転椅子に座る功成は、「ならいいけど」と独り言のように呟く。背もたれがきしんで微かに音を立てた。
広い部屋だ。
勉強机と本棚、ベッドしかないから異様に広く感じる。
ベッドは確か、沙貴の叔母、つまり功成の祖母がつい最近プレゼントしたものだ。伸びた背に合わせて、またこれからもっと伸びるであろうと期待を込めて、随分大きく重厚な作りになっている。沙貴の部屋のベッドより立派かもしれない。
シンプルな勉強机の上にはライトスタンド以外何も置かれておらず、そこに肘をつき半身だけこちらに見せている姿は、無機質な部屋によく似合っていた。色味のない空間が、子供という感覚に違和感を覚える子供にこんなに合うとは思わなかった。
入り口近くの壁際にいる沙貴は、彼も含めてその全体を眺め、完成されたひとつの景色みたいだと感じた。
「それで?」
「あ、うん。それで、お山信仰は」
頷き返して空咳をする。喉がひどく渇いていた。
年明け間もない染みるような寒さは、床暖房の効いた室内には伝わって来ない。
静かな夜だった。
境内の裏に面した窓にも厚いカーテンがかかっている。水を含んだ柔らかい雪は、きっと積もりはしないだろう。両足を擦り合わせる自分の動作は無意味だ。
「……お山信仰は、古代から続く、自然や死者に対する考えの根本と言うか」
功成は、春が来れば小学六年生になる。話はその年齢にふさわしい内容ではなかったが、彼は理解するだろうと確信していた。
「山っていうのは、どんな規模のものでも神聖な場所として扱われていたのね。昔々はそうそう立ち入れない場所だったってのもあるし、空に近いとか、噴火という大災害を引き起こすとか、まあその起因は色々あると思うけど」
「うん」
相槌を打つ功成の顔半分は、ライトで逆光になって見えない。
「でね、昔からお山と呼ばれる場所には、死者が集まるとされていて」
古代の信仰は奇異にも見えて、その実理にかなっている部分もある。
死者はいなくなる、山の奥は入れない、だから死者はそこにいる。と、考えれば生きているものは納得ができる。……という筋道が成り立つ。
「火葬すると、煙が出る。その煙のたゆたう姿は雲に似ている。そして雲は山の際にかかる。つまり、死者は山に集う」
これを古代の人々は、「山に隠れる」と言った。
「万葉集のさらに以前から、山に隠れた死者を探しに行く話はそれこそたくさんあるの。探しに行って、引き返す話もね」
山の中は世界が違う。
おののいて引き返す。
沙貴は語りながらうつむいた。
「……例えば、万葉集にもたくさんあるんだけど。有名どころで言えば、柿本人麻呂が妻の死に際して詠んだ歌ね」
秋山のもみじを茂み、迷いぬる、妹が求めむ山道知らずも。
「山に紅葉した草木が茂ってしまい、そこに迷い込んだ愛しい妻を捜す山道すら分からないから、引き返すしかない。……と」
あなたの死んだ愛しい人はあの山にいますよ、と誰かが言った。だから苦労してここまで来たが、そのかいもなくあの人の姿はどこにもない。
「ふうん。山に探しに行っても、結局見つからなくて、引き返すって歌だね」
「そうね」
沙貴は足先をじっと見つめる。
隠れているものは見つからない。だって、見えないから。
死者は本来、決して見えない者だ。
だから見付からなくて引き返すのは、悪いことではないはずだ。
「じゃあさ、沙貴ちゃん」
変わらない口調の功成の声に、沙貴は顔を上げた。
「ここみたいなお寺が山に建っているのが多いのも、そういう考え方が根っこにあるからかもしれないね」
「そうね。そうかも。死者の鎮魂。私は古代のことしか学んでないから、それ以降のことは確証がないけど」
「沙貴ちゃんはたくさん勉強してるから、色々考え付くんだね」
「人より多く勉強してるからね。やたら長い期間」
普段通りの軽口がやけにそらぞらしかった。何て中身のない言い合いだろうかと思う。先ほどから何度も視線は合うが、すぐに外れてしまう。
あの雷の日から数えて十ヶ月近くも経っていた。
そしてふたりきりで話すのも、十ヶ月ぶりだった。




