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43.終わりの日

本編です。


34話「言霊6(そして)」の最後から

続いています。


 手首を伝い落ちる水を、沙貴は目で追った。


 先ほどから、何か小さな事柄が心に引っかかっているのだがどうしても思い出せない。隣の居間から響く笑い声のせいもあるし、久し振りの休日で疲労の抜けない頭のせいもあった。


「汚れたなーこれ」

 コーヒーをこぼしてしまった布には、琥珀色の染みが広がっている。洗剤をつけて軽く撫でると、擦り切れた端からほつれた糸が出て来た。

 長い間手首に巻き付けていたため、かつて光沢のある黒いネクタイだったものはもはやくすんだぼろきれだ。

「母さんが急に背中を叩くから。もう」

 乱暴な母親への文句を漏らし、沙貴は布を外して両手で泡立てた。

「……最初から外していれば良かったのに」

 すぐ後ろからの呆れた声には、顔も上げずに答える。

「あんたの家に来る時は巻いてなきゃ。失礼にもおじい様にご挨拶できないじゃない」

「おじいちゃまへの気配りは忘れなくても、僕への気配りは忘れてたんだね。しかもずっと」


 思い出した。

 会話の中から心に引っかかっていた小さな骨を見付け出し、沙貴はシンクの蛇口を閉めた。

 そうだ、おじい様のことだ。

 ここへ来た時、沙貴は母屋の玄関を上がり、廊下を進んで、勝手口の扉前に座っていた黒法衣の老住職に会釈をした。そこでふと感じた疑問だ。

 でも改めて思い返すと、そんな小骨のような気がかりはどうでもいいことに思えた。

 まあいいかと肩を竦め、洗った黒い布を張る。ぱん、と小気味良い音がして、浮かんだ疑問は霧散した。


「……コウ。あんた、今日はどうにも嫌味ね。久し振りなのに」

 ため息を吐いて振り向くと、行儀悪く椅子にぶら下がっていた足が跳ねる。

「久し振りだからだよ!」

 立ち上がった頭は、イライラと横に振れた。

「卒論だとか院の入試だとかバイトだとか。沙貴ちゃんがまともに休んで僕と会うなんて、もう半年ぶりくらいじゃないか」

「そうね。這ってでも出したい卒論に無職か一応学生かの瀬戸際となる入試、学費捻出のための命より大事なお金稼ぎ。で忙しくてまともに休みもなかった頑張り屋の私への文句はそれだけかしら」

「沙貴ちゃんに会いたくてもさ。こっちは何度押しかけようとして我慢したか」

「三回に一回だけ成功する我慢ね」

 近い、と額を指で押すと、切れ長の目がむっと険悪になった。

「それにコウ。忙しくて会えなくてもあんた、メールや電話はしてるじゃない。それも毎日。365日。飽きるほどしつこく。……だから近いって」

 伸びた前髪を引っ張り、鼻を弾いてやった。

 少年は不機嫌な顔のまま前髪をかき上げた。

 狭い額が一瞬だけあらわになる。

 そしてため息をこれ見よがしに吐くと、彼は再びダイニングの椅子に腰かけた。

「ああ、うん。メールね。僕が送る五回のうち、一回しか返って来ないメールだよね」

 膝を抱えて椅子を傾け、急激に伸びた足と腕でバランスを取っている。背もたれに少しでも力を加えればそのまま引っくり返りそうな体勢だが、浮いた椅子の前脚はぴたりと止まった。

「その、私の五倍もメールする根性をね、コウさん。学校へ行くとかに使ったらどうでしょうか」

「時々は行くよ。それに家で勉強してるからいい。沙貴ちゃんが学校へ迎えに来てくれるなら毎日喜んで行くけど」

「高学年にもなって家の関係者が迎えってどうよ」

「関係者じゃないよ。婚約、」

「ああ寝不足。幻聴もひどいわ。休まなきゃ」


 中庭に面したダイニングには、春の日差しがさんさんと降り注いでいる。柔らかなクリーム色の壁に庭の花々の影が映って、鳥の囀りも濡れた黒い布の感触も、何もかもが心地よい。


 いつもと変わらない日常だった。

 ここ数ヶ月は忙殺されていたが、落ち着かない日々も終わってみれば何のことはない、変わらない周囲と変わらない毎日がまた始まりを告げていた。


 変化したと言えば、沙貴の立場くらいなものだ。

 大学六年目にして、「そんなに学校が好きなら、院に進んでみなさい」と教授に勧められたのが昨年の夏。好きなわけでなくいかんともしがたい理由で残っていただけだが、散々悩んだ末、沙貴は進学を決めた。

 そこからは院入試の準備に学費の準備、卒論準備などで寝る間も惜しんで動いていたのだ。

 唯一の救いは沙貴の暴君、つまり母親が反対しなかったこと。「卒業」にやたらとこだわる母は、卒業ならば学部卒でもいいらしく、「ずいぶん長くかかった卒業だこと。院だとかはどうでもいいけど」と興味なさそうに言っただけだった。


 その母は今、隣の居間で栄美子とテレビを見ながら盛り上がっている。栄美子の「ドロドロ恋愛ドラマコレクション」に最近はまりつつあるらしい。

 栄美子とその実母である沙貴の叔母、ふたりからの卒業・入学祝いは腰が引けるような高価な物ばかりだった。沙貴は母の茶飲み会に便乗してお礼にとこの寺を訪れたわけだが、いつのまにやら意気投合した母と栄美子の迫力に押されっぱなしだ。

 コーヒーをこぼしてダイニングを借りる、とは口実で、避難の色が濃い。すぐに後を追って来た寺の後継ぎも、口には出さないがきっと同じ理由だろうと知れた。


「もうすぐ叔母さん……あんたのおばあちゃんも来るんでしょ」

「うん。仲良いよね、あの三人。ママなんか、どっちかと言えば沙貴ちゃんに近い年齢なのにね」

 大人びた口調で呟いた後継ぎと、不意に目が合う。

「……ええと。そう、あれ。あれだ、コウ、この前メールで言ってたあれ。どうなった?」

 わずかに息を呑んでしまった自分を忌々しく思い、続けて出た言葉の不自然さに自分を呪いたくなる。

 沙貴は、小さく舌打ちしてシンクにもたれかかった。


 功成も変わった。

 しかしそれは劇的な変化や立場の推移などではなく、ごく自然の、当然の変わり様だ。

 が、大人にとって変わり行く成長のきざはしは、胸を突く突然さを持って目の前に現れる。


 そう。胸が痛いのだ。

 なぜだか分からないが、こうして時々、不意に視線が絡んだりすると、沙貴の鼓動は一瞬だけ乱れる。

 その要因を考えるのは恐ろしい気がして、沙貴はすべてを自分の疲れのせいにしようと密かに誓った。

 功成の背は、ぐんと近くなっている。立ち上がれば白い額が沙貴の顎と並び、伸び過ぎた手足を支える肩と腰は、かつてよりまた一段とたくましくなった。

 細さと華奢さは未だに抜け切れてはいないが、額にかかる髪の硬さはすでに大人に近く、幼い雰囲気も薄れて来ている。

 細かった目は成長とともに目尻が切れ、黒目が落ち着いたきらめきを放つ。


 小学五年生にしては異様なほどに、この子供は急いで育ってしまった。


「ほら、あれ。ここの山の開拓調査」

 くだらない思考を吹き飛ばそうと、沙貴は強く繰り返した。思い当たったらしく、功成の浮いた椅子脚が床に着く。

「ああ、お山のやつ。……うん、まだ決定してないらしいけど、下調べはちょっとずつ進んでるみたい。普通にあの坂道を歩いただけじゃ、見えないけどね」

「ふうん」

 頬杖をつく功成を眺めて、沙貴も腕を組んだ。



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