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4.影2(火葬場にて)


「……ほら、ね。……何もないでしょう」

 

 大きく息を吐いて、静かに言う。

 我ながらおかしな声だな、と思いながら、沙貴は熱の移った手を握り直した。

 

 息遣いが眼前両側の壁に当たって、やたらと大きく返って来る。 

 人の気配がちり程も無い二階の廊下は寒々しく、一階の穏やかさが嘘のような硬質な空気が詰まっていた。

 

 そうか、と冷静に頷く。

 絨毯は階段で途切れているのだ。ここは白壁白床、一階は朱の絨毯。雰囲気が違って当然だ。

 

 自分は、どうかしてた。一瞬でも、空想の世界に飲まれようとしていた。

 

 直前までの、言い表せない圧迫感と自分の焦りを恥じ、沙貴は一人前に小さなスーツを着こなした功成

に言い聞かせる。

「見て。この白壁の長い廊下。この突き当りを右に折れると、よそのおうちの控え室。左に行くとたぶん、働いてる人のお部屋や仕事用のとこだよ。ね、もう下に戻ろう」

 つないだ手を軽く振り、もう片方の腕を伸ばす。

「ほら何も……」


 その腕が、凍りついた。


「沙貴ちゃん」

「……コウ」


 あれは何。言葉は、喉の奥で止まった。

 

 突き当たりの壁。

 

 右から左へ、黒い影がゆっくりと移動して行った。

 それはまさに影だ。ゆらゆらと揺れ、実体が無い。それでも頭部は丸く両腕は伸び、交互に動く足元から人間の形だと分かった。

  

 人間の、形。


「沙貴ちゃん、動かないで」

 固い声に叩かれ、わずかに身じろぐ。強く握られた指の感触に瞬きをした瞬間、沙貴の視界は突然開けた。


「ひ」

 

 目の前に溢れた、無数の黒い影、影、影――

 

 瞬きの間に、世界が変わっていた。

 廊下のあちこちに、影たちがいる。歩いていたり、座っていたり、壁にもたれてうずくまっている者もいる。肩を叩き合っている者、背伸びをしている者、ただ立っているだけの影。それら全てが、ゆらゆらと揺れる影であり、人間の形であり、そして黒い霧の塊だった。


「一体、これ」


 喉にひりついた声が唇を出た途端、いきなり掴まれたかのように背筋がぞっとした。

 沙貴の耳に、微かに声のようなものが飛び込んできたのだ。


「……」


 それは次第に、はっきりと聞こえるようになった。機器のボリュームを徐々に上げるように、たくさんの話し声がそこら中に満ちて来る。

 何を話しているのかは分からない。

 ただ、さわさわと、衣擦れに近い微かな話し声が、駅の雑踏を遠くから眺めているような音量で、廊下中に溢れている。

 微かな話し声は沙貴の耳を占領し、しかしそれを突き破ったのは高音の囀りだった。

「こんなたくさんの、初めて見た」

 そして子供は、凍ったままの沙貴の腕を掴んで鋭くささやいた。

「沙貴ちゃん行こう。よくないよ」


「!」


 弾かれたように身を翻し、沙貴は功成を抱えた。

 急激に戻ってきた血のめぐりが膝のあたりで逆流し、震えて踏み外しそうになるのを叱咤しながら階段を下りる。

「あれは……あれは何……影……なにあれ…」

 ぶつぶつと呟き腕の中の功成を抱き締めると、う、と小さなうめきが漏れる。米袋ほどの体重を抱え階段を駆け下りる現状に、涙が出るほど焦った。

 

 途中の踊り場に足をつき、走り出しながらどうしても上を振り仰いでしまう。

 その無意識の行動を、沙貴は我がことながら心底呪った。

 

 影たちは立っていた。

 様々に動いていたはずの影たちは、階段の上に集まって立っている。目も鼻もないはずのその表情が何故か分かる。

 

 全員、こっちを見ている。


「……っ!」

 

 残りの階段を滑り下り、最後はジャンプした。

その高さを跳んで子供ひとりを抱え込み、無事着地できたことが奇跡だった。

「苦しいよう」

とぐずる功成を無視して膝を着く。スーツスカートなのも周囲のことも、何も気にならなかった。


「コウ、あれは一体、何」

 肩で息をして細い首を離すと、やっと解放された功成はぐったりと絨毯に寝転んだ。

「たくさんいたねえ。大声で話してたね」

「だからあれは何」

 大声?ささやき声ではなく?

 疑問に思ったが、頭が混乱して働かない。


「あれは焼かれちゃった人たち。お肉無かったでしょ。ゆらゆら黒かったねえ」

 細い目で見上げられ、やめて、と喉を鳴らした。

「焼かれた?…火葬されたってこと?じゃあ」


「下で焼かれたから、二階で休憩してるって話してたよ。みんな」

 

 聞こえなかったの?と無邪気に聞かれ、沙貴はその場に腰を降ろした。

 全身から力が抜けている。

 自分にはさわさわとしか聞こえなかった音は、この子の耳には会話として届いていたのか。

「でも何で、二階なんかに……」

「もういっこ上に行くために、休憩してるんだって。話してたよ。だってあそこ」

 そう言って功成は沙貴を見つめた。

「しんぞくひかえしつ。ひかえしつ、なんでしょ」

「……」

 もういっこ上、とは。控え室、だから。濁流のような思考が頭を満たし、細い目の中の自分に何も言えなくなる。

 

 下、つまり一階にあるのは火葬場。

 そこから上って、二階の控え室で休憩する“影”たち。

 なぜ休んでいるのかと言えば、さらに上へ上がるためで、二階を中間地点だとすればもう、その上には、空、しか……。

 

 その時、目の前の子供が急に後ろを見遣り、慌てたようにささやいた。


「沙貴ちゃん、だめだよ。気付かれちゃった」


 え、と思わず階段を仰ぐが、何も見えない。嫌々目を凝らして階段上部を見つめてみても、何の姿も無かった。


「下りてきてるよ。みんな、一列に、階段下りてきてる」


 そんな沙貴を横目に、功成は焦った動作で襟元を探っている。

 再び冷たくなった背中を意識して、沙貴は頭に浮かんだ光景をかき消した。

 中間地点の二階から、階段を伝い下りてくる影の列。それを想像するのは、あまりにも恐ろしかった。


「下りてくるとよくない、気がする。一階は二階とは別のとこだもん」

 お飾りのごとく首に巻かれていた黒いネクタイ。小さなそれを引き抜くと、功成はバネのように跳ね起きて走り出す。

 呆然と目で追う沙貴の前で、階段の一番下の手すりに飛びつく。

 手すり部分にネクタイを巻きつけ格闘していた彼は、しかし数秒後に沙貴に叫んだ。


「沙貴ちゃん、僕結べない!やって、早く!」

 怒鳴られ、腰を浮かす。

 

 混乱が極限に達し、それでも幼い表情が焦燥に飲まれているのが分かった。


「早く、早くしないと!あの人たちここに、下りてきちゃうよ!」

 思考が一瞬で飛ぶ。気付いたら手すりに抱きついていた。

「貸して!」


 ネクタイをもぎ取り、手すりに巻いて両端を握る。

 必死に指を交差させ結び目を作り、きゅ、と端を引いた。

 



「ちっ」




 「出来た」と叫ぶ直前に聞こえたのは、舌打ちだった。

 聞いたこともない、地の底から湧くような深い声だった。












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