39.もうひとつの言霊2(いつかの日)
もうひとつの言霊2
協議離婚とは概して婚姻関係にある当事者同士が行うものであるが、真咲の場合は違った。
話し合いは、真咲と相手の「周囲」で交わされた後、非常にあっさりと終わった。
「どうしてこんなことになったの。娘さん、まだ二歳になったばかりでしょう」
離婚と言うよりはまさに籍を取り上げられた格好の真咲に、義妹は電話で訴える。
唯一の味方であった彼女の涙混じりの抗議は、今も昨日のことのように思い出せた。
「私から言い出したの。今まで過分なほどの援助もしてもらったし、もう充分」
「そんなの当然でしょう!」
義妹は激しく泣いた。手切れ金、非道な仕打ちという単語が電話口から切れ切れに漏れて来る。
「ひど過ぎる、こんなの。父さんも父さんだし、兄さんも兄さんだわ」
義妹の、自分の実家をなじる声は怒りと悲しみで震えていた。父親と次兄のことだ。
この離婚について、特に熱心だったのは真咲にとっての義弟、つまり次兄だ。驚くほどの手回しの良さで事は運んだ。
父親の跡を継いだ次男は、枝葉の先々まで身綺麗にしておきたかったらしい。市長選、事業拡大という言葉を漏らしていたが、それこそ真咲には関係のない事柄だった。
「わ、わたしがその場にいればこんなこと、絶対にさせなかったわ」
義妹のすすり泣きが嬉しい。
早くに見合い結婚をした彼女は、例えるなら臣下に嫁いだ姫である。夫のことを考えれば実家に反旗を翻すなど出来るはずもない。
それでも真咲への償いを口にする彼女が、とても愛おしかった。
だからこそ、自分は思いやりを返さなければならない。
真咲は背筋を伸ばし、あえて冷たい言葉を受話器に投げた。
「じゃあ、本音を言うわね。私みたいな女には、あなた達のような金持ちの一族はお堅くてうんざりなの。もう、心底うんざりなのよ」
「……真咲さん」
ぐす、と鼻をすする音がする。
彼女の背後で、女の子の可愛らしい声がした。いくつだと尋ねると、真咲の娘より少し上の年を答える。
従姉妹かと思ったら、何故か目の奥が痛んだ。
「……あなたも、もう私のことなんか忘れて。子どもと旦那さんと、幸せに暮らすのよ」
わずかに声を緩めて言うと、義妹は逆に強い口調になった。
「真咲さん。わたしは、娘を好きな人と結婚させるわ。どんなに結婚が早くてもいい、家の縛りのない、好きな人の元へ行かせる。そして、子どもを産み、育て、何があっても子どもを愛で守り慈しむ。その子どもにとっての、最高の防壁となるような家庭を築かせるわ」
……兄さんが、したくても出来なかったことを。
言葉にならない続きの言葉が、真咲の胸を突いた。
次兄を呼ぶ時とは違う「兄さん」の響きに、浮かぶ優しい笑顔がある。
鮮やかに甦る影を心で反芻すると、真咲の体内に力が湧いて来る。
これが母親の力というものかと考えたら、ほんの少し笑ってしまった。
「……真咲さん」
義妹は静かに言った。
「兄さんは、意識が無くなる直前に確かに離婚届を書いたわ。でも同時に、伝言も残したのよ。これは十年後に必要になるだろう、って。今はもう植物状態で眠っているけど、あの伝言は守るべきものよ。まだ二年じゃない。眠り続けているけど兄さんもきっと怒り狂うわ。約束は十年よ、十年」
聞きたくない話を流すには笑うのが一番だ。
真咲は息を吐いて笑った。
「ねえ。言霊って知ってる?」
「……コトダマ?」
急な話の変化に、義妹は戸惑ったようだった。その隙を突いて、真咲は話を続けた。
「何かね、口に出した言葉通りに物事が成ることらしいわ。良い言葉を言えば良い事が起き、悪い言葉を口にすればそれは呪いとなる。……だ、そうよ。よく分からないけど」
「それは……おまじないみたいなもの?」
「そうかも」
そう、おまじないだ。
呪術だとか古代信仰、神事とかわけの分からないことを言っていたが、要はおなじないでしょと憎まれ口を叩いたのだ。あの日々で。
そうしたら、目尻を下げて笑っていた。
「……でもね。私、分からないなりに思うのよ。言葉で物事が成るには、とにかくきっぱりはっきり、芯を込めて言わなきゃ、てね」
現実味の薄い人だった。
地に足がついていないような、ふわりと生きている人だった。
語られる不可思議な話は、真咲にとってはすべておとぎ話に近いものだった。
鏡をのぞくと自分の首にある黒い痣が見えてしまうと嘯いて、鏡をわざと曇らせていた。それもおまじないでしょと鼻で笑うと、「そうそう。魂が抜かれるから、なんてね。真咲さんは賢いなあ」などとへらへら軽口を言う人だった。
「だからね。……これは十年後に必要になるだろう、なんて弱々しい言い方じゃあ駄目なのよきっと。失敗だったのね、言霊。必要になる!ってくらい、断固とした気持ちを込めるべきだったわね。ほら、あなたがさっき言ったみたいに。娘は、好きな人と結婚して、その子どもは愛で守られるわ、って。あのくらい腹の底からじゃなきゃ。十年後っていう言霊は、失敗したのよ」
シメナワだとかシメを結うだとか意味不明なことを呟き、自分の横たわるベッドの足に黒い色のハンカチを巻いていた。お守りみたいね、男のくせに軟弱なことするのねと馬鹿にしたら、「そうなんだ、僕は弱い人間なんだ」とまた笑っていた。「こうすれば怖いものが入って来ないしね。怖がりなんだ僕は」と言って真咲を抱き締めた。
その、薄い肩の温かさ。
「……だから、私もあなたに強く言うわ。言霊じゃないけど、きちんと念を押すためにね。もう二度と、会いに来ないで。連絡もしないで。私とは一切、関わらないで。私は娘と二人で、しっかりと生きて行くから」
笑いを止め言い放つ。その耳元で、義妹の小さなため息がこもった。
「……真咲さん」
回線の向こうから顔を拭っている様子が伝わる。陽気な女の子の笑い声にかぶせて、義妹は言った。
「じゃあ、わたしも言う。……わたしは絶対、いつか真咲さんに会いに行く。あなたとあなたの娘に、わたしの大切な姪に、必ず会いに行くわ。過去が時間に消えて辛い記憶が思い出に変わった頃、必ずもう一度会う。そして」
義妹は最後に、きっぱりと告げた。
「わたしの娘と真咲さんの娘は、とても仲の良い従姉妹同士になるのよ」
それは真咲の言葉を上回る、とても強固な言葉だった。




