38.もうひとつの言霊(いつかの日)
もうひとつの言霊
近付き過ぎた。軽率だったかもしれない。
真咲は目の前の青年に気付かれぬよう、じりっと後退さった。
人通りの無い寂しい帰路だ。春の薄暮に霞む街灯は、徐々に茜色に染まっている。
真咲の家の塀にもたれて泣きじゃくっていた青年に、「どこか怪我でもしているの?うちで手当てしましょうか」と声をかけた直後、その違和感に気付いた。
「……知らない人のうちについていっちゃだめだって」
「……誰が」
「ママが」
「……」
舌足らずで拙い口調。十七、八歳の外見に対し、あまりにも幼い仕草。
青年は切れ長の片目を押さえ、涙と鼻水で光る唇を歪めて言った。長い前髪が揺れて、白い喉がえづく。
「ぼ、ぼく、おばさんのことし、知らないもん」
「……そうね」
心を病んでしまった子だろうか。
そういう特性を持つ子だろうか。
真咲はもう一歩下がり、背後の道の先を探った。
「ええと。……どこから来たの」
「とおく。お、おやまの上のとこ」
「おやま?何て名前?」
「……う、うるさい」
嗚咽の合間に、確かに青年はそう呟いた。一瞬詰まった真咲に向かい、揺れる声が続く。
「ち、ちがう……おばさんじゃない……うるさい、そう、おまえうるさいよう……み、みみが、いたいよう……こ、こんど、のどをつかまえたりしたら、僕、か、かみついてやるからな」
あられもなく泣きじゃくる彼の、シャツの胸ポケットからのぞく青色のもの。
あれはハサミの持ち手部分だ。真咲は自分のうかつさを悔いた。
仕事帰りで気が緩んでいたせいもある。また、ついさっき携帯に思わぬ人から思わぬ連絡を受け、思考が多少飛んでいたせいもある。
女二人暮らしには常日頃の警戒心が必要だが、自分の家の前で泣いている彼を見た瞬間、また娘が何かやらかしたのかととっさに思い込んでしまった。
そして気軽に声をかけてしまった。
その直後に気づいたハサミ。の持ち手。
「……ごめんなさいね。私てっきり、あなたを娘の同級生か何かかと思ってしまって」
見上げる家の窓に、明かりは灯っていない。娘はまだ帰宅していない。
「以前、うちのバカ娘が、家の前でしつこく交際を求めてきた男の子に回し蹴りしてね。その子泣き出しちゃって。明らかに過剰防衛だって、慌てちゃって私」
矢継ぎ早に話しながら、真咲はハサミの刃が隠れる彼の胸元を凝視した。
真咲の今来た道は、娘の帰り道でもある。夕暮れの中、いつ娘が「ただいま」と来るか知れない。
ひょろりとした体型、弱々しい腕、憔悴しきった肩。……この青年にあの娘が負けるとは思えない。そして青年が、凶行に走ると決め付けるわけでは決して無い。
しかし手ぶらでハサミだけを所持している姿は、真咲でなくとも、多くの女性をひるませるに充分な迫力を醸し出していた。
泣きじゃくってはいるが、真咲よりも高い身長。長い手足。そして裸の大きな足。
「ね、私には噛み付かないでね。何もしないから」
「ちがうよう……おばちゃんじゃない……もうむこうに走って行っちゃったけど、口の大きな……さしてやるって」
「刺す?」
「だからおばちゃんじゃないよう」
どう手を差し伸べればいいのか。
自分の無力さに歯噛みしながら真咲は焦った。娘の危機回避を願う母親としての本能と、目の前の青年を何とか助けたいとする気持ちの両側に、振り子が揺れる。
「じゃあ、あなた。ね、おうちに帰りなさい。ママもきっと、待ってるから」
しかし青年は、ふちを赤くした目で真咲を見た。
「まだ帰れないよう」
「どうして」
白い頬が上気している。目のくまは彼の健康的でない日常の証だった。赤い鼻をすすり、震える声がか細く落ちた。
「だって、おひるね、まだ終わらないもん。きのうの夜もこわくてねむれなかったんだもん。ねむいから、まだ起きられないよう」
言葉の途中から、再び号泣になってしまった。
青年は立ち尽くして襟を濡らし、顔を覆って泣いている。しゃくり上げる合間に、「こわいよう、いたいよう」と哀れな叫びが混じった。
「……意味が分からないわ。何が怖いの」
途方に暮れてスーツの胸を押さえた。
青年は顎を手で拭い、充血した目を瞬かせる。
真正面から見つめ合った時、真咲の心臓がかすかに疼いた。
心の奥にしまい込んだ厚い蓋の箱が、わずかな振動を起こす。蓋が開けば、記憶という名の血が滲んで来る。
「何が怖いの」
青年の胸元から目を離さない真咲の髪を、春風がかき混ぜる。その生ぬるさに不意に眩暈がした。
声をかけた理由は、娘と同年代に見えたから。
そしてもうひとつ。
あの人に似ているように見えたから。
青年は肩で息を吐き、小さく呟いた。
「ぜんぶ、こわい」
このあと19時くらいにもう1話更新します。




