37.無償の人3
「……コウ」
気だるげな口調で頬杖をついたまま呼ぶと、横から「何」と呆れ半分の返事がする。
「私はもう大人だからさ、五歳より前のことなんて覚えてないわけ。あんたはどう」
「うーん……」
細い目の、白い額の顔は見えない。いや、沙貴が自分の顔を見せたくないだけだ。
それが分かっているのかどうなのか、幼くも生意気な声はそのままで答えてくれた。
「僕、自分でも不思議なんだけど。本当のところ、四歳くらいかなあ……そのくらいより前のこと、ほとんど覚えてないんだよね」
「あんた……」
つい数年前のことじゃない、と突っ込もうとしたら「あっ」と素っ頓狂な声が上がった。
「違う。間違えた。こういう時はこう言いなさいってママに教えてもらったんだ」
ぶつぶつと呟き、そして言った。
「えっと。……僕は、沙貴ちゃんと出会う以前のことはキオクしてないんだ。だから僕のジンセイは、沙貴ちゃんと出会ってからが始まりなんだよ」
「……すごい棒読みなんだけど」
朗らかな丸顔の女性を思い浮かべて脱力する。
が、馬鹿馬鹿しいが気持ちが少し、軽くなったような気がした。
「ま、いいや。……愛ちゃん」
目の前の少女は、テーブルに大きな水溜りを作って泣きじゃくっている。沙貴はその小さな頭をゆっくり撫でた。
「愛ちゃん、もう忘れるのよ。全部、夢の中のことだったと思うのよ。すぐに何もかもが消えて無くなるし、あなた達はあっという間に変わって行くんだから。ちょっと大きくなれば、もう笑い話よ。あれはそうか、幼い想像力が見せた、少しばかり長い夢だったのねって」
きっと忘れる。
ほんのわずかな年月、旅をしただけなのだから。
「大丈夫。忘れられる」
……親という名でないもの達が、心の底から愛してくれたことも。
「……うん」
柔らかい体温が手の平の下で頷いた。
同時に最後の、嗚咽混じりのささやきが届く。感受性のまま生まれた少女の言葉が、沙貴の心を撫で返した。
「……ごめんなさい」
ふたりをのこして、さきにかえること。
錆びたカウベルが鳴る。
「……二人分の子守りさせちゃって、ごめんなさいねえ沙貴ちゃん。いくらわたしの知り合いだって……あら?」
穏やかな笑みで入って来た栄美子が、テーブルを見て首を傾げる。
「……どうしたの、愛ちゃん」
「いや、これは」
言いかけた沙貴の言葉を、悲鳴が遮った。
「愛っ!」
見ると、扉の前で若い男女が目を見張っている。
憔悴した様子の男が泣き腫らした目の女を支え、そしてお互いに信じられないものを見るように口を開けていた。
「……パパ、ママぁっ」
少女は跳ね起きて走り出す。
弾丸のごとく飛び込んだ幼い体を支えられず、三人はひと塊になって床に転げた。
「愛、愛っ。お前、今大きな声で叫んだよな、走ったよな!」
「ああ、愛!もうずっと泣きも笑いもしなかったのに、あなた、こんなに涙を……もっとママに顔を見せて、愛!」
三人は互いを抱き締め、すぐに丸くなって号泣し始めた。
「何か、一体……まあ、娘さんの具合が良くなったならいいけど……」
驚いたような口振りで、栄美子はそれを眺めている。が、すぐさま気を取り直したらしい。
くるりと沙貴を振り返り、何故だかにっこりと笑った。
「……じゃあ、もう娘さんの相談の件はいいみたい。お待たせしたわね、沙貴ちゃん」
そして手に持っていた物を差し出す。
「ありがとうね。これ、確かコウちゃんのネクタイだったわよねえ。でも、沙貴ちゃんは『超』よく効くお守りだって言ってたけど、駄目だったみたいだわ。彼女、愛ちゃんのママ。言われた通り手首に巻いてみたけど、全然どうともないって」
「あ、やっぱり」
私だけか、と苦い言葉を飲み込んでそれを受け取る。
少し端の擦り切れた黒い布は、しっくりと手の中に納まった。
栄美子はひどくのんびりと、
「それでね、すがりたい一心でこれ巻いたけど何も変わらないし、店の前でママ、泣き出しちゃって。お守りも効かない、やっぱり自分の至らないせいで愛ちゃんが病んで心を閉ざしてしまったって、もう。なかなか泣き止まなくて」
「それより栄美子さん。最近、何かの恋愛ドラマにはまってるでしょう」
「あらあ、何で分かるのかしら。うふふ、そうなのよ、ドロドロの悲恋もの。記憶喪失の主人公がヒロインに愛を叫ぶんだけどね……」
功成が、呆れたように小さく笑って伸びをした。
静かな店内は幸福な泣き声と秋の日差しに埋もれ、ガラス窓の反射でオレンジ色に染まる。
「……でもさ、いくら感動的なセリフでも、やっぱり演技力がないと」
沙貴は笑いながら、注がれる深い愛情のようなその光に目を細めた。




