36.無償の人2
少女のあまりにも疲弊しきった姿に、沙貴の舌がもつれた。
「……愛ちゃんは、とても優しくて賢くて、色んな人や物事に対していっぱい考えちゃう、とてもいい子なのね。繊細なのね」
「……もう」
見守る沙貴の前で、少女はぽつりと呟いた。
「もう、あたし、ごめんなさいしなくていいの」
感受性が刃よりも鋭い少女。
功成とも違う。哲也とも違う。彼女は彼女独自の、特異な苦しみを味わって来たのだろう。
沙貴は強く頷いた。
「いいのよ。もうすぐに終わるから。今までの、たくさんの怖いものはすべて無くなるから」
ごめんなさいごめんなさい。
何もできなくてごめんなさい。
不意に訪れる見えざる者達は、こちらの常識では測れない、自分だけの理屈で動いている。聞いてくれ、耳を貸してくれ、何故助けてくれない、そうやって語り続けて来る。
そして少女は幼く純粋な感受性のまま謝り続けた。
ごめんなさいごめんなさい、助けることができなくてごめんなさい。
理屈の通らない罪悪感は、無知な少女ゆえの途方も無い悲劇だった。
ごめんなさい。
そんなに怒ってるのに、泣いているのに、何もしてあげられなくてごめんなさい。
あなたが謝る必要は無いと教える人はいなかった。それは仕方のないことだけれど。
「もう、全部終わるのよ」
静かに断言すると、少女の青白い唇が震えた。
「ほんとに?」
そして少女はたどたどしく話し出した。
今まで誰にも言えなかった罪を、残らず吐き出そうとしているようだった。
「ほんとに、おねえちゃん、ほんとにおわる?ゆうがた、おうちのドアが開くのも?」
共働きの親の帰りを待ち留守番をしていると、必ず決まった時刻に玄関のドアが開く。
入って来るのは大柄の男だ。どすどすと音を立てて廊下を歩き、居間へと侵入する。
背後からそっと見ると、男の体の後ろ半分は何も無い。背中も尻も肉が削がれ、骨だけが綺麗に残っている。
そんな自分の状態にはまったく気付かず、男はいつも大声で話しかけて来た。
「うしろから見るとね、お、お魚のね、ひらいたやつ、みたいなの。いつもあたしにいろいろ言ってくるの。ソファにすわってね、パパのカップをかってに取ってね、ずっとそこにいるの」
少女が怯えた声で必死に語る途中、右側から愕然とした叫びが上がる。
「まさか!わたしのカップを?いや、それよりも愛、可哀相に……そんな気味悪い奴が我が物顔で居間に居座って……」
信じられないとテーブルを叩き、幼い顔を覗き込む。しかし少女は、頑なに沙貴だけを見つめていた。
「よるになると、だれもいないのに、でんわがなるとだれかが出るの。キッチンにだれかがずっといるの」
親の帰りが遅くなると、電話を留守番機能にしたまま少女は寝室へこもる。
しかし耳を澄ませば、何かが常にドア越しに動いていて、電話が鳴ればそれを取り、キッチンで水を流し、うろうろと彷徨っているのが伝わって来る。
そして時々、寝室のドアがそっと開くのだ。
隙間から、こちらを覗く二つの目。
「じっと、のぞいてるの。あたし、こ、こわくて、でもねむれなくて、どうしても見ちゃうの。そしたら、すきまから、何か女のひと、ながい、ながいながい足で、にょろにょろして、タコみたいなうまく立てないみたいで足を引きずってて、でもずっとのぞいてるの」
「そんな!」
今度は左側で悲鳴が上がる。
「愛、ママは出来る限り夜も愛と一緒にいるって……それなのにママのいない隙にそんな恐ろしい者が……一体いつ……どうしてそれを早く……」
「……ごめんなさい」
少女は再び縮こまって、涙を一粒手の甲に落とした。
沙貴は見ていられず、思わず口走る。
「愛ちゃん泣かないで。うん、そうだよね、あと数日で無くなるって言っても、もうそんなの我慢できないよね。よし、お姉ちゃんがどうにかしてあげる」
「……放っておけば、あと何日かで終わるのに」
オヒトヨシ、と膝上から抗議された。
「うるさいコウ。あんたと違って女の子は繊細なのよ、繊細。ちょっと、あんた背伸びたんだから頭が邪魔なの。見えないから、さっきみたいに頭下げて」
「オヒトヨシなんだよ沙貴ちゃんは。自分も意外にセンサイなくせに」
余計な一言を添えて抵抗する功成の頭に、無理やり顎を乗せる。
その様子に少女の口の端が緩み、ほんの少し歯が見えた。
掠めた子どもらしい表情が、沙貴の声に力をくれる。
少しずつ、少しずつ心に疲労の澱みが溜まっていたが、少女のためにと深呼吸した。
よし、と気合を入れる。それから、未だ不安げに少女を覗き込んでいる男に言った。
「お父さん。あなた、お父さんじゃないでしょ」
「……は?」
男は首をもたげた。その騒々しく大柄な体が反応する前にと早口で言い放つ。
「最初に教えたでしょう。長い話だったけど、ちゃんと聞いて欲しかった。こちらに長くいると、記憶がこんがらがっちゃうって。記憶違えしてしまうのよ」
「何を、いや……違う、わたしは父親で、わたしはいつも、この愛する子の待つ家に帰って」
言いながら、男の宙に浮いた視線が揺れた。
「居間で、お茶を……」
「お茶を?」
喉に圧迫感があった。しかし、沙貴ははっきりと口にした。
「そんな半分の体で。お茶が飲めるわけないでしょう」
「……」
男は首をゆっくりと巡らせる。そして自分の肩越しに背中を確認し、戻った両目は焦点がずれていた。
「いい?コウを今離すから。この子に触れていると見えちゃうから」
沙貴は功成の体を抱える。
「離したら、私には見えない。ちゃんと分かって、自分のこと」
よいしょ、と掛け声と共に功成を隣の席へ移した。功成が不満そうに鼻を鳴らし、男は消えた。
「わたしが、見えないか」
「見えない」
耳の奥に、地の底を這うような深い声がする。きっぱり首を振ると、
「……そうか」
虚ろな返事がした。
と、突然、テーブルに何かが落ちた。バンッと衝撃が走り、コーヒーが飛び散り、沙貴と少女の体が跳ねる。
「愛」
悪かった。
太い声を残した後は、無音だけが続いた。
「……ごめん、なさい」
少女が下を向いて呟く。
「いいの。愛ちゃんは悪くない。……ああ、騒がしい人だった」
沙貴はだらりと腕を伸ばし、テーブルに突っ伏した。
「また拳でテーブル叩いていったよ。大きな音出さないと動けない人だね。開きと言うより、理科室の人体模型みたいだったね」
ささやく功成は、不満顔のまま呆れたように背もたれに沈んだ。
「……」
テーブルに沈黙が降る。
空間は静まり返り、誰も音を立てなかった。
「で」
顔を上げ、沙貴は首を回した。
「お母さん。あなたも、見えなくなりました」
「!」
息を呑む音がする。
沙貴はこめかみを掴み、疲れた目の奥を揉んだ。
「……あなたは、ずっと横にいたお父さんが見えてなかった。知らなかったでしょ?この子を挟んで、あなたと反対側にずっといたのよ。男が。それはお父さん、いや、どこの誰か分からないけどあの男が、見えざる者である証拠。そして今、私はあなたも見えない。それはあなたも見えざる者である証拠。見えざる者同士は、お互い見えないのよ。……ねえ、お母さん」
見えない空間に向かって放った声は、無意識の内に、何かを堪えるかのように震えてしまった。
「あなたさ、最初に言ったよね。こちらは別に、あなた方に話したいことなんてございません、とか」
語ることの無い者がいる。
語りたいことも、信念も無い。上にも地の底にも行けない者の末路は、ただの悪意の固まりになって人々に……
「あなた、特別だとか何だとか言って愛ちゃんばっかり気にかけて。本当に、愛ちゃんだけを気にかけて」
沙貴は目を閉じた。
――それを親としないなら、何と呼べばいい。
その、無償のものを。
「……この子のことばっかりで。自分のことはほったらかしで。自分のこと、気付いてないのね」
功成が横から指を差し出して来る。それに要らないと手を振って、頬杖をついた。
「もう、かなり変化してます。……タコのようだったのが、もう今は下半身がそれ以上に長く長く伸びてヘビのようになって、何メートルにもなって、このテーブルと椅子。……動かないの。あなたのそれがぐるぐるに巻き付いているから」
気付かなければ、もうすぐマフラーのような、ヘビになってしまう。
「ヘビなったら、あなたも巻き付くの?……こんなに苦しんでいる子に。ようやくヘビが透けて剥がれたこの子に、また巻き付くの?」
少女を指すと、何かがいたはずのその左側から、ささやきだけがこぼれた。
「……愛」
こんなに愛していたのに。
「知ってる。だから私、疲れてるんです」
切なくて、でもどうしようも無くて、鈍い疲労で心が痺れる。
短く答えた沙貴の耳に、涙に濡れたため息が聞こえた。
そしてやがて、無音になった。
「ごめんな……さい……」
長く堪えていた堰がやっと切れたらしい。
少女は一瞬だけ詰まり、やがて大声で泣き出した。




