31.言霊3(いつかの日)
言霊3
助教授は、なぜ死者が語るのかと言った。
でも死者は語るのだ。
「お前は死ぬよ。もってあと十年だ」
後ろをついて来ていた影が突然宣言した。
影の全長から考えてもやけに大きな足音だとは思っていたのだが、振り返って目にしたものは想像を遥かに超えていた。
立っているのは巨大な素足だ。
有之介の腕ほどもある足の甲に、剛毛がびっしり生え揃っていた。
感心して観察してみると、大き過ぎる足の上には赤ん坊よりも小さな体がついていた。頭から腰までは二十センチもない。
ただ顔は明らかに大人のようだが、歩くたびに足の甲が全身を隠してしまうので中年なのか老人なのかすら分からなかった。
「これは言霊だ。言った通りになる。怖いか?怖いだろう」
巨大な足男は歩きながら話しかけてくるが、体に対して足があまりに重いのか息が掠れていた。
有之介は冷たく言い返す。
「別に怖くない。言霊と言うのは、口から出た言葉に従って先の物事が成ってしまうことだろう?」
深く地の底から響くような声は、子守唄よりも聞き慣れていた。
「僕の命が長くないのは、僕が一番知っている。もうすでに決まっていることだ。今さら言霊にしてみたところで、知っていることを繰り返して言っているだけだ。何も怖くない」
「生意気なことを」
男は立ち止まり、地団駄を踏んだ。どすんどすんと地面が揺れ、辺り一面に砂埃が広がる。
「うるさいわねっ」
すぐ横の電信柱から女の甲高い声がした。
見上げると、木柱に抱き付いた裸の女が唾を撒き散らしている。
「邪魔よ、落ちる準備をしているんだからそこをどいてよ!」
女の唇から青火に似た火の粉が降る。有之介が避けると、その空いたところに女が逆さまに落ちて来た。
ぐしゃり、と骨のつぶれる音が響いて、女は地面に沈んだ。しばらくそうして沈黙していたが、両腕を曲げると、ぶつぶつ呟きながら女はゆっくり起き上がった。
それから再び電信柱に掴まり、上へと登って行く。
「あの」
初夏の眩しい日差しに目を細めながら、声をかけた。
「うるさいわねっ」
返って来たのは先ほどと寸分違わぬ言葉だった。
「邪魔よ、落ちる準備をしているんだから」
「……」
有之介はため息を吐いて歩き出した。
襟元が少し焦げ臭いのは、女の火の粉を浴びたからだろう。
「待て、俺の話を聞けよ」
巨大な足男はとうとう追って来れなくなったらしく、背後で息を切らして叫んでいる。
有之介は無視して喉に手を当てた。
痛い。焼けるような熱さと鉛のような重さが常にまとわり付いている。
嫌な音の咳が出た。
ひりひりするだけならまだいいが、時々気管が詰まったようになって息を吸うことができなくなる。
手首や足首、背中はよく痛むし、その痛みにも慣れてはいる。が、呼吸も満足にできないとなると、さすがに堪えた。
実のところ、こうやって歩くのもおっくうなのだ。
「でも、確かめたいしなあ」
遠くなる巨大足の地響きを背に、有之介は目的地へと向かった。
その店は、歩いていた通りのすぐ先、住宅街の片隅にある。
洋風な造りの二階建て一軒家を見付けて疲れた膝を伸ばした。
厚い木の扉を押すと、錆びたカウベルが一度だけ鳴った。
「いらっしゃい」
足を踏み入れた途端、真横から声をかけられぎょっとする。
見ると、油染みて汚れたレジ台の向こうで、若い女性が銀盆を差し出していた。
「お客サン、集会でしょ。はい、祈祷料とお布施」
下を向いたまま言われ、戸惑って一歩下がる。
「いや……ここ、喫茶店ですよね」
「……」
そこで初めて、女性が顔を上げた。ぱちぱちと音が聞こえそうなほどまつげを瞬かせている。
その化粧けのない、しかしどこか疲れた色気を滲ませる顔を見た瞬間、「あ、看板娘」と口走ってしまった。
「……お茶、飲みに来たの?」
明らかに胡散臭そうに、おまけにぶっきらぼうに質問をぶつけられる。思わずほころんでしまう口を、有之介は必死で隠した。
大した看板娘だ。
「いけませんか」
「別に。コーヒーでいいでしょ」
勝手に決め付けて、さっさと窓際の席に案内してくれた。
「ちょっと集会してて騒がしいけど。お待ち下さい」
最後だけ接客用の台詞を面倒そうにつけて看板娘は去って行く。
束ねた黒髪が肩の辺りでほつれ、きりりとした横顔に影を落としていた。
「……」
首を傾げてその後ろ姿を眺める。落ち着いた構えと妙な威圧感で年上にも感じられる。が、間近に映った肌は思いのほか張っていた。
その時、店の奥で悲鳴と歓声が上がった。続いてすすり泣く声も漏れて来る。
枯れた観葉植物を盾にして、有之介は背もたれに身を沈めたままそちらを見た。
十人以上の人々が、ひとりを囲んで座っている。
円座した老若男女すべてが一様に真剣な眼差しをしていた。中には拝んでいる者までいる。
その中心に座った人物は、中年男だ。作務衣を着た腹がぽこりと出ている。長髪を撫で付けた、特徴のない顔のただの男だった。
気付けば他に客はいない。この異様な熱気を持つ集団の埋める席以外、店内は静まり返っていた。
「……」
ため息を吐いて喉を擦る。
同時に黄ばんだテーブルにカップを置かれ、有之介は顔を上げて何とか笑った。
「ありがとう。盛況なお店ですね」
目尻が猫のように上がった看板娘は、気の強そうな鼻を大きく鳴らした。
「見れば分かるでしょ」
指が差したのは、埃を被った椅子にガラスの割れたジュークボックス、ガムテープで処置しただけのステンドグラス、そしてふちの欠けたカップ。
「なるほど」
頷いて、有之介はコーヒーをすすった。
「でも、これはうまいです」
「……ネルとドリップポットだけは、磨いているから」
初めて目を逸らされた。
非常に分かりにくいが、照れているようだ。そしてこちらはよく分かったのだが、喫茶店としての最後の防波堤を守っているのは、もう彼女だけなのだろう。
突然ヒステリックな怒鳴り声が上がった。
「何を言うか愚か者!額田王がお怒りであるぞ!何にも先んじて先祖の墓を供養し、額田王の神力を高めるためこの玉を身につけよ!」
作務衣の男が顔を真っ赤にして、みかんほどのガラス玉を老人に押し付けていた。
老人は慌てて妻らしき隣の老婆に指示し、老婆は懐からがま口を出した。
「そ、そうすればこの足の痛みも治りますかいの」
「当然である。本来は高額であるこの玉を、この値で譲ろうと言うのだ。額田王と我の力は絶対であるゆえ」
「……あーあ」
騒ぎを見守っていた看板娘は、微かに息を吐いた。
「夜中にね、足がひどく痛むって。あれ、ここの経営者でマスター」
「……それは大変だ」
温度の低い、諦めを含んだ声音に、有之介はもう一度彼女をじっくりと見た。
「マスター、この店のすぐ近くの家に住んでるの。この通り沿いの。……夜中に電気が点くから、また痛がってるんだっていつも私、眺めてるの。この店の二階に、私住まわせてもらってるから」
奥の人垣がわっとどよめいて広がった。
作務衣の男が、また別の人の痛む場所を言い当てたらしい。
「……少し前まではね。本当にいい店だったのよ。あの男が来て、場所を貸して欲しいとか言い出してから、もう」
有之介の視線を気にしていない様子で、ふっとまつげを伏せる。
「前まではそりゃあ親切な夫婦だったの。今は、お布施から引いた場所代の売上げに、その売上げから夫婦自身の出したお布施の差し引き。毎日苦手な計算ばかりしてんの、私」
有之介は引き締まった頬に目を据えたまま尋ねた。
「君、お給与は」
「もらってない。住まわせてもらってるし。身元引き受け人も」
給与を出さずに住み込みで働かす人間が親切なのか。有之介は眉をしかめた。
「いくつ?」
「じゅうく……」
そこまで言って、彼女ははっと口を噤んだ。すぐにきつい眼差しに戻り、有之介を見下ろしてくる。
「なに。人のこと探って、何が楽しいの」
その爆発寸前のような、警戒感を漲らせる様子に苦笑してしまった。額に力が入って釣り目が切れ上がり、本当に猫のようだ。
これが一目惚れと言うのかなあ、とのんびり考えた。まあ、仮にそうだとしても、一切何もできないし変わることはないけれども。
「他意はないです。聞いてみたかっただけ」
一縷の、ほんのわずかな望みを抱いてここに来た。
もう今まで何度期待は裏切られたか分からない。
そして今日も完全に望みは絶たれたわけだが、しかし今回に限っては少しだけ楽しかった。
「結構美人」な看板娘に出会えただけで。
「じゃあ」
代金をテーブルに置いて、微笑んで立ち上がる。すると常にないいたずら心が疼き、鼻白んだ表情の彼女に耳打ちした。
「……マスターの足、治らないと思います。足が悪いわけじゃない、住居の建つ場所がいけないんです。この前の通り。通りがいけない」
「は?」
彼女は眉を寄せた。
「足の異様に大きな男が、夜中にマスターの足を踏んでるんですよ。ただの意地悪で。巨大な足の男は遠くには行けないから、ちょっと引越しすればすぐに治る。足が大きすぎてね。遠くへは移動できないんです」
もう一言伝えたかったが、それはあまりにも無意味なのでやめた。
あの作務衣の拝み屋には、ヘビが巻き付いているだけですよ。
……いや、ヘビではない。
悪意を持った上にいけない見えざる者が、長く伸びて体を縛っているだけだ。
それらが悪戯で彼に少しばかり「見せて」いるだけで、彼は旅人ではない。
君の苦悩はきっと間もなく終わります。
ヘビの中身はもうかなり透けていて、近いうちに抜け殻になるのだから。
本当に見えている人なんて、出会えたことはないのだから。




