30.言霊2(いつかの日)
言霊2
噂を聞いたのは、大学の研究室だった。
「ですからね、その祈祷者……ええと、拝み屋とでも言うのかな、その人が言うわけですよ。額田王の霊が、自分に憑いていると」
身振り手振りで話す学生に、助教授はため息を吐いた。
「くだらん。君もすぐ否定しなさい」
助教授は、神や霊力信仰を基とする古代文化を究める立場にありながら、ことのほかこういった話は嫌いなようだ。
「よく考えなさい。額田王は天智天皇を恋い慕うごく普通の女性だ。史実はないが現物証拠がある。彼女の残した歌だ。その歌も」
助教授は忙しい合間の解説にかなり不機嫌な様子だ。イライラと続ける。
「その歌も、恋歌が多く、霊的な力がどうのこうのという痕跡は皆無だ。何の因果で彼女がその拝み屋に憑く?一から学び直しなさい」
荒唐無稽にもほどがあると吐き捨て、助教授は本棚を探り万葉集を手に取る。学生は慌てた。
「やはりそうですよね。僕もおかしいと思ったんです」
いつもの長講義が始まるのを避けようと、学生は言い訳しながら席を立つ。
「学究心を持つ者ならば、不確かな情報に惑わされないよう知識を蓄えなさい。なあ、有之介くん」
「そうですね。遠山先生」
急に話を振られ、大げさに頷いた。
立ったままの学生は片目をつぶり、「巻き込んで悪いな」と口だけ動かした。
「まったく。……今でさえこうなんだ。今後時代が過ぎるごとに、有之介くんのような優秀な学生はどんどんいなくなって行くのだろう。嘆かわしい」
目立ち始めた額の後退部分を撫で、遠山助教授は再び本棚を見上げた。
話題は早々に切り上げ、有之介も手伝わされている論文にかかるようだ。
ほっとした様子の学生が、有之介の背後に立った。
「お気に入りの有之介くん。同期のよしみで許してくれ」
「いいよ。すぐ機嫌も直るだろうし」
小声で返すと、学生がにやりと笑った。
「でも本当によく当たるらしい、その拝み屋。喫茶店で定期的に集会を開いているらしい」
その店の場所を言い、さらに声を潜める。
「看板娘が結構美人でね」
それが目当てか、と有之介も笑った。
同期学生は軽く手を振り研究室を出て行く。その靴音をぼんやりと聞いていると、目の前に膨大な量の手書き原稿が置かれた。
「また細くなったね。顔色も良くない」
咳をした有之介に、遠山が聞く。向かいに座った彼は、小脇に抱えた古代史を机に高く積んだ。
「ええ、まあ」
咳がしばらく続く。呼吸を整えつつ万年筆を掲げて見せると、遠山が「しかし」と呟いて天井を仰いだ。
「今の学生はおしゃべりだな。よくまあくだらない話ばかり」
「……きっと、数十年後もおっしゃいますよ。今の学生は、と」
痛む喉を堪えて言うと、遠山は笑った。
「戦争は遥か昔、学生闘争も今は昔。日々古代文献に埋もれて、毎年学生たちの卒業論文に追われているわたしは、すでに時代に乗り遅れているのかもしれないな」
ふたりで笑うと、すぐに原稿に取りかかった。インクの匂いが室内に漂う。
壁中が本に占領されているこの空間が、有之介は結構好きだった。
流れるような筆の音に合わせて遠山が独りごちる。
「中国の、首桃果のようだな。今の学生は」
「自分の心残りを語るという?」
中国の伝記。死者が桃の実となり、旅人に語りかけるという。
教え子の打てば響くような相槌に、遠山は満足げに頷いた。
「そうだ。なぜ死者が語る?古代の信仰は、まったくもって不可解だ」
だから生涯研究できると皮肉めいて笑う。
そうですねと同調し、有之介も笑った。




