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29.言霊(いつかの日)

言霊


「火葬場の夢を見たよ」


 いつのまに目を覚ましたのだろうか。

 真咲まさきの背後で、有之介ありのすけが呟いた。


「吹き抜けの天井からシャンデリアが垂れ下がっていた。ホテルのロビーのようだったな」

「へえ。良かったね、豪華で」

 縁起でもないことを言うなと怒る代わりに意地悪く返してやったら、有之介はへらりと笑った。

「僕の葬式なら、きっとあんな豪勢じゃないなあ。たぶんひっそりと、隠すようにやるよ」


 薄いはめ込み窓を木枯らしが叩く。底冷えする床板に投げ出した素足を擦って、真咲は聞こえるように鼻を鳴らした。

 古ぼけた木製ベッドは、真咲の雇用主である喫茶店主のおさがりだ。そこに伸べられた薄い布団の上で、さらに薄い体を揺らして有之介は笑い続ける。

 時代から取り残されたような部屋の片隅で、斜めに傾いだだるまストーブでヤカンが心地よい音を立てている。注ぎ口から上がる蒸気に、真咲はほどいたばかりの毛糸を当てた。

 何かを編もうと伸ばしているわけではない。こんなことでもしていないと、約束の時間をただ待つのは到底無理だった。


「真咲さん。こっちへおいでよ」

 有之介が低い天窓を眺めたまま言う。本当は、真咲よりも細いその手首で手招きしたかったのだろう。もうその力すらないようだ。

「……毛糸玉作ってるのに」

 膝立ちでにじり寄って、真咲は青白い顔を見下ろした。

 有之介の心臓、肺、胃も血液もすべて、悲鳴を上げている。医学の知識など露ほども持ち合わせていない真咲でも、衰弱の進行度は手に取るように分かった。

 頬骨の浮いた表情は、ともすればそのまま停止しそうに見えた。数秒息を止めれば、きっと心臓は止まってしまうだろう。

 これだけ骨と皮だけになっても、紳士的な口調が育ちの良さをかいま見せる。

 それが不気味であり、不思議でもあった。


「言霊を知っているかい?」

「コトダマ?知らない。私、無学だから」

 素っ気なく首を振ると有之介は目尻を下げた。そうすると、いつもはどこを見ているのか分からない目が急に現実味を帯びて、真咲にとっては好ましかった。


「言霊というのはね。話した言葉に力が宿って、その通りに物事が成ることを言うんだ。昔の人々はそれを信じていて、だから言葉をとても大事に扱っていた。悪いことを言うと悪いことが起きるし、祝いを述べると縁起がいいとされたんだ」

「ふうん。それもあなたの、あの汚い本の研究から?」

 有之介はか細い笑い声を立てた。

「真咲さんにかかったら、古代の貴重な文献もただのゴミだなあ。きっと助教授辺りが聞いたら泣いてしまうよ」

「ああ、あの髪の毛が力尽きそうな助教授?」

「そう。遠山助教授」

 いつだったか忍び込んだ講義堂で、熱弁をふるっていた学者を思い起こす。内心で吐くため息は、理解不能の気分からだ。

 真剣に学問に傾倒し、時も金も費やす人間は、はっきり言えば別人種だと思う。あの助教授も、有之介も。

 有之介がよく語る遥か昔の文化や思想は、少しも真咲の興味をひかなかった。どこか異世界の御伽噺の感覚に近い。


「それで?」

 でも今は、いつものように混ぜっ返すのはやめようと思う。こうやって穏やかに有之介が語り続けていれば、時間などすぐに過ぎる。

 そんな真咲の心持ちを見透かすように、有之介は柔らかく目線を合わせて来た。

「いや、古代の話ではないよ。そうだな……少し前の話をしよう。僕と真咲さんが出会った頃の、話を」

「コトダマは?」

「それもね」

 この人は、何もかも分かっているのではないだろうか。

 蒸気で曇った壁時計を見ながら真咲は思った。


 いや、きっとそうだ。今までも、何かにつけて真咲が言っていないことを当てたり、「だって何となく分かるんだ」と意味不明な説明で物事を先読みしていた。

 

 でも、と思い直し、真咲は有之介の耳に染みるような語りに目を閉じる。

 でも、例え分かっていたとしても、もうどうしようもない。内緒で決めてしまったが、決めてしまった現実はもう変えようがない。

 

 世の中は仕方のないことで溢れているから、と真咲は微笑んで、動かない皮だけの手首にそっと額を当てた。



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