28.お山信仰4
見たのは月のない夜空で、感じたのは荒れ狂う風だ。
右腕が燃えている。
あまりの痛みに神経が逆立った。扉の外へ放り出された体は自由がきかない。沙貴はそのまま渡り廊下に転がり、もんどりうって倒れた。
喪服女の足音が遠ざかる。
ようやく出られて嬉しいのか、その結い髪と足袋が弾んで見えた。
「……お前も確かに偽者だが、我が見たものとは違う。我の言う偽物とは違う!我を信じぬ者は愚か者なり!」
憤怒の声が頭上から落ちて来て、沙貴は必死に首だけ上げた。
男は、どうという印象もないただの中年男だった。
裾の擦り切れた作務衣を着て、腹部がぽこりと出ている。撫で付けられた長髪から下駄の先までヘビの抜け殻に巻かれていた。
そしてヘビ、いや人間が長く伸びて幾重にも巻きついている抜け殻と同じように、男の全身もまた透けていた。
「……」
声帯まで激痛に負けたようだ。目が霞み声も出ない沙貴を見下ろして、男は勝ち誇ったように吠えた。
「愚か者!」
「……あ」
ああ、と沙貴は目を閉じた。
ゆっくりと喉元に込み上げてくるのは、感じたこともないような激痛だ。
腕の痛みとは異質の、自分の甘さや軽率さ、すべてを叩きのめす激烈な痛みだった。
渡り廊下に転がった自分の体が溶けたように重い。
本当に、愚か者だ。
……近寄るなと言ったのは自分なのに。
奥歯を噛んだ沙貴の耳に、ざわめきが溢れてくる。
周囲の空気は忙しなく揺れていた。
首をゆっくり巡らせて見渡す。
渡り廊下はたくさんの人影で囲まれていて、隙間なく埋め尽くした真っ黒な人垣からは異様な数の視線を感じた。
影たちがこちらを見ている。
他にも走っている足音や喧騒、拍手や遠くの叫びなどが聞こえた。ここはまさに、駅の雑踏の中だった。
「……くっ」
右腕の激痛に加え、下半身が異様に重い。無数の細くて黒い手が両足や腰を押さえているのだ。
暗闇に浮かぶ果てしない数の人の目にさらされながら、沙貴は必死に廊下を這った。
地の底から響くたくさんの声が、一斉に嘲笑する。
そんなにおかしいか、と沙貴は唇を噛んだ。痛みと情けなさに塗れて、それでも壊れた扉に戻ろうとする耳に、それは届いた。
「どけよ、お前ら」
闇を裂く凛とした声。沙貴はきゅっと指を握る。
「沙貴ちゃん」
聞き慣れた親愛に満ちた呼び名。
「……」
額に冷たい手の平を感じ、沙貴の心根に渦巻いていた何かが崩れた。
怒りとか、やるせなさとか、悲しみとか。
そういった感情の渦がいっせいに流れ落ちて行く。
「コ、ウ」
桃の実の叫びに、見えざる者の悪戯に慣れ始めていたのは自分だ。
扉を開けてしまったのは、自分の慢心だ。
そして、
「コウ」
全身に浮かぶ真っ黒な痣が減ったと言う。沙貴に出会った頃から。
「……成長したのね」
言った途端、自分の愚かさに嗚咽が漏れた。
泣く人間がおかしいのか、渡り廊下を囲む者たちから笑いさざめく声がこだまする。支える手に助けられてよろりと立ち上がり、沙貴はその頭を抱いた。
功成は、沙貴が祖父と会っていた廊下で、扉の方を見向きもしなかった。
なんでもかんでも話を聞くな。近寄るな、無視しろ。
怖い、と思え。
全部自分が、長い時間をかけて教えたことだ。
それを飲み込み少しづつ成長した子供は、体につく痣を徐々に減らして行った。
ただ、それだけのこと。
「依り代だなんて……」
身代わりだなんて、自分は、何を勘違いしていたのだろう。
自分は確かに功成の「依り代」なのかもしれない。が、それは十分に機能していない。功成の努力だ。功成は、自分の力で痣を減らしている。
「……本来だったら、こんなもんじゃなかったよね。きっと」
ギプスの砕けた右腕を見遣る。真っ黒な痣がついた腕だ。
本来なら、もっと、それこそ全身が痣まみれになっていたのかもしれない。
功成は痣を増やさないよう、近付かないように努力した。結果、彼が受けるはずだった痣を代わりに受ける沙貴も、この程度で済んでいる。
こんなに痣が少ないのは、身代わりの
代わりの?
沙貴は歩き出す功成に寄り掛かり、ノブが壊れて半開きになっている目の前の扉を見た。
目眩がひどく、鋭い痛みで頭が空白だ。ふっと風が凪いで無音の時間が訪れる。
鈍る意識が、最後の一線で留まっていた。
「……」
何かが音を立てて動いている。何かが噛み合わない音だ。正体はわからないが、確かに何かが漠然と引っかかっている。
沙貴はどこか遠くで、思考の歯車がきしんでいることに気付いた。自分が発した言葉の中で、どこかおかしなところがなかっただろうか。
考えろ。考えることを止めてはいけない。
「何か違う。私は」
どこか、おかしな……そう。
作務衣の男に、扉越しに言った。私は見える人じゃないし、「私は、本来は、違う」と。
依り代は、環境、血縁その他、「近き」ものがなると言う。
「近き、もの」
私は偽者だ。
私は近い?いや遠い。血も遠い。
祖父の顔も知らず、栄美子と会ったのは火葬場が初めてだった。
私は、依り代じゃ「なかった」はずだ。ならば。
ならば?
………ほんものは、誰「だった」はず?
「見つけたぞ、偽者だ!」
男が絶叫した。
三年前の雪が降った夜の、茶色の残像が見えた。
幾千の歯車のうちのひとつだけがカチッと合った、
音を聞いた気がした。
自分は、何を勘違いしていたのだろう。
依り代は依り巫。依り巫は身代わり。身代わりは、功成の、
「違う」
私は、誰の、身代わりだ
「サヤコ」
停止した時が動いた。
半開きの扉から覗く幼い額を確認した瞬間、沙貴は腕の中の功成とともに跳躍した。作務衣の男が伸ばした腕よりもわずかに早く、無邪気に笑う幼子の体を左手で突き飛ばす。
扉の内側に転がったのを確認する直前に、落ちたノブを扉に突き刺しそれを閉めた。
「鞘子!」
扉の閉まる音と同時に泣き出す子供に飛びつく。功成に支えられた体はそのまま崩れ落ち、三人で団子状態になって廊下に沈んだ。
「コウ、お願い……」
震える右腕を差し出すと、功成は頷いて沙貴の手首を掴んだ。そこから黒い布を外し、素早い動作で壊れたノブに巻きつける。
扉の外の狂乱は、ふいに沈黙した。
「……私の後はどこでもついてくるんだから」
鞘子を抱き締めて頬擦りする。背中に功成の手が添えられ、温かいなとぼんやり思った。
三年前の雪の残像が霞んで行く。
「鞘子」
あの日、母親が破水して倒れたあの時、赤ん坊はいなくなったのだ。母の腹から。
哀れな愛しき赤ん坊は、本当の依り代は、いなくなってしまった。功成の依り代は消えたのだ。
そしていなくなった赤ん坊が持っていた「役目」は、振り替えられた。自分に。
……それを、運命と言うのだろうか?
「鞘子、愛してるよ」
私に依り代という役目を託して消えた、あなたを愛しているよ。
会えなかったあなたを愛してる。
「突き飛ばしてごめんね。鞘子」
哀れな母親には哀れな新しい子。こげ茶色の小さな塊。
消えてしまった赤ん坊を悼み、そして、鞘子を愛しいと思う。
「今度ビーフシチュー作ってあげるね」
これを偽者と言う奴がいたら。
消えてしまえばいい。
「……こんな小さな子。可愛がるしかないじゃない」
廊下の先に明かりが灯る。心から愛する子供達のために、母親が毛布を抱えて走って来たらしい。残りの風が扉を一度だけ叩き、遅い月光が雲間から明かり取りに降った。
沙貴の意識の最後の言葉は、自分にしか聞こえなかったようだった。
ああ、よかった。だって。
頼るものがいなかったら功成は?どうなる。
私が依り代でよかった。身代わりになれて、よかった。
と。
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