27.お山信仰3
見るだろうなと思っていたがやはり夢を見た。
山の頂から、何か嫌なものが下りてくる夢だ。
それはものすごい数で、ひたひたと足音を立てながら山を駆け下り、街に放たれていく。
自分の叫び声に驚いて目が覚めた。
が、その刹那もっと驚いた。
「……」
自分を覗き込んでいる男と目が合ったのだ。
しかし男も相当驚いたらしく、整った眉と通った鼻筋を限界まで寄せた。
「あ、びっくりした」
それはこっちのセリフだろうと思った直後、男は驚いた顔のまま消えて行った。
「……ええぇ」
高い天井の組み木をぼんやり眺めながら、沙貴は生唾を飲んだ。
喉が乾いている。ついで強烈な恥ずかしさに襲われた。
「お、王子様……」
今見たのは、この寺の王子様扱いの子どもなどではなく、かつて自分を助けてくれた、本物の沙貴の王子様だ。
が、助けてくれたとは言え、生身でない者を慕い、さらには夢にうなされて、
「……寝惚けて王子様の幻まで見るとは」
恥ずかしい。目の前で見たのはまさに、沙貴の知っている通りのあの素敵な姿だった。自分の呆れた願望に馬鹿馬鹿しさが募る。
暗闇の中、顔を赤らめて携帯を探った。
そこには深夜を示す時刻とともに、メール受信のサインが光っていた。
『沙貴ちゃんへ。うでが痛くなったり、こわい夢を見たりしてねむれなかったら、ぼくをよんでね』
「……バカなの?」
こんな夜更けに小学生を呼び出す大人がどこにいる。
自分の失態も加え脱力したせいか、はっきりと覚醒してしまった頭を振り、沙貴は布団から這い出た。
すぐ隣の小さな布団からは鞘子の可愛い寝顔が覗いている。
しゃきちゃんとねんねと大暴れしたお姫様に便乗し、どこぞの兄まで一緒に寝ると騒いでいた。
鬼の形相で兄の方は追い出したが、邪心のない鞘子については結局こちらが折れたのだ。
「……」
半開きの小さな口を眺める。
唐突に湧いたのは、切なさに似た気持ちだった。
「……三年か」
鞘子は三歳になった。
三年前の雪が降った夜、栄美子は破水し昏倒した。
沙貴はか弱く震える、小さく哀れなこげ茶色の塊に会った。
あれからもう三年。
「……」
この胸のどこか奥を叩く、寂寥感は一体、何だろうか。
「……喉。カラカラだ」
自然に出た自分の声に救われる。
考えても仕方のないことを無意味に思うのは止めようと、頬を軽く叩いた。
「キッチンどこだっけ。行けるかな」
細心の注意を払って部屋を出て、借りたパジャマの上にコートを羽織る。
干上がった喉をとにかく潤したかった。
歩き出した廊下は、素足を麻痺させるほど冷たい。壁の明かり取りには風が吹きつけ、月光が隠れることで雲の速度がかなりのものだとわかる。
「さむ」
吊った右腕が冷気で痛む。ギプスを擦りながら壁を伝って行くが、すぐに方向を見失った。
「あ、と」
視界の隅に黒法衣らしきものを捉える。功成の祖父だと安堵してそれを追いかけ、角を曲がった瞬間に、……しかし、間違いだったと悟った。
「……騙された……」
廊下の端で正座をしていたのは、喪服の女だった。
こちらに背を向け結い髪を前後に揺らしている。合掌して何かをしきりに唱えている姿が、沙貴の寒さを増幅させた。
不気味なことに女の膝元には血の染みのようなものも見える。震え上がった沙貴は、何も考えずに横の廊下へと飛び込んだ。
「……」
はあ、と吐いた息が白い。
そこは、あの突き当たりだった。
「開けぬか、ここを早く開けろ」
そして、夕刻と変わらない声。扉のしなる音。
左側の施錠された勝手口扉からは、外にいる者の声が変わらずに続いていた。
「……しつこい」
思わず漏らした呟きが聞こえたのか、ノブが激しく回された。
「この家に偽者が憑いている凶事、我が祓うぞ。霊能力者の我が、偽物を」
「……」
拳で滅茶苦茶に叩いているらしく、こもった響きがキッチンへ向かう足を止めた。
純粋な恐怖心よりも、扉が壊れるのではないかという不安で沙貴は震えた。
「……入って来られないのよね?」
扉に近付いたのは、功成の祖父の言葉に後押しされたからだった。
ノブに鍵がかかり、その上にしっかりとプラスチックのカバーまである。よし、と頷いた。
「さあ開けよ!我の守護者、ヌカタノオオキミのお告げだ。この家の厄災を我の力で!」
「額田王?」
呆れて、思わず問い返しが口をついた。万葉集にも選出されている恋歌の女流歌人の名に、残った恐怖心の欠片が霧散する。
何なんだこの見えざる者は、と鼻を鳴らして扉に手を当てた。
陳腐な言い様に続きが聞きたくなったのは、ほんの出来心だ。
「……で?」
「そう、そうだ!額田王が救いの手を差し伸べんとしている」
やっと聴衆の反応を受けた男は、歓喜の声になった。重々しく威圧感のある言い方に、演技慣れした軽薄さが滲んでいる。
地の底からの声のはずなのに、どこか滑稽だった。
「この家には、偽者がおるぞ。紛い物だ。開ければ我がそれを祓ってやろう」
「あのね。それ、私のことじゃない?」
投げやりに言ったのは、腹立たしさを覚えたからだ。扉の向こうはすぐに沈黙したが、構わず沙貴は続けた。
「私、本当は見える人じゃないし。手首に布を巻いてるから見えるだけであって、本来は違うし」
そう、ただの「依り代」だ。前触れもなく脳裏に一文が甦る。
血縁、環境、その他近き者がなると言う……依り代は、身代わり。
身代わり。
誰の。
「夜中までご苦労なことだけど、あなたうるさいのよ」
やつ当たり気味の怒りが、沙貴に何かを忘れさせた。
「私を祓うってこと?無理でしょ、あなたさあ。まさか、体中にヘビのような抜け殻がぐるぐると……」
その時、すべてが停止した。
短く息を飲む。
「……」
扉に当てた自分の手に、後ろから重なった青白い手。
「……え」
ネジの切れた人形のようにゆっくりと振り向く。
背後に立っていた喪服の女は、しなやかな動きで沙貴のギプスを掴んだ。
「……こちらの廊下は、本当に迷路のよう。長い間すっかり迷っておりました」
女は半分溶けて落ちた唇で笑った。
「案内ありがとう。わたくしも、出していただけます?」
ギプスごと振り下ろされた先に、プラスチックのノブカバーを見た。
ギプスとそれが衝突して砕け、ノブごともぎ取られたのは、同時だった。
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