26.お山信仰2
夕飯を食べて行けと、子供を使って半ば強制的に決められた。
さらにはもう遅いからと宿泊まで勧められ、限界まで固辞しながらも結局のところ帰れなかったのは、ひとえに頼み事をした沙貴の立場の弱さだ。
「とうとうここに初めてのお泊まりか……」
沙貴の行くところ、必ず鞘子がよちよちとついてくる。その幼い手をつなぎ、沙貴は長い廊下を歩いていた。
増築に増築を重ねた和風の平屋は、浴室に行くだけで軽い迷路だ。説明を聞いて居間を出たにも関わらず、部屋数の多さと多岐にわたる廊下のせいで遭難者のようになってしまった。
「しゃきちゃん、おゆあねえ」
残念ながら案内人に適さない道連れが、楽しそうにはしゃいでいる。立ち止まったそこは突き当たりで、さらに両側に伸びる廊下に途方に暮れた。
何気なく左側を覗くと、先は扉になっている。
壁と壁に挟まれた扉は重厚な木造りで、鍵穴のついたノブだけが闇に光る鉄製だった。
勝手口だ。
「……」
そのノブに、プラスチックカバーが外付けされているのを目視した時、手前の部屋の障子が開いた。
中から出て来たのは法衣を着た老いた僧侶だった。
こちらを見て会釈するので、沙貴もつられてお辞儀する。
「あの、お風呂はどちらですか」
遠慮がちに尋ねると、僧侶は目尻にしわを寄せて足袋の音もなく近付いて来た。
「この突き当たりを右へ、ひとつ目を折れなさい。この左側の扉には近寄らぬように。……おや」
えも言われぬ穏やかな声音で告げた僧侶は、そこで言葉を切った。
しわに埋もれた目を眇め、そして礼を言おうとした沙貴の足元に膝を折った。
「えっ、え、ちょ」
慌てる沙貴に構わずに、僧侶は黒法衣の裾をさばく。
「……ご挨拶遅れまして。功成はじめ家人が大変お世話になっておるとか」
そして、背筋を伸ばし美しく礼をした。
「あ、あの」
咄嗟に沙貴も正座する。何が何だかわからないままに、床に頭を擦りつけた。
こんな年上の、しかも崇高な雰囲気の僧侶に頭を下げられる覚えはない。
「……」
脇に汗をかきながらそろそろと顔を上げる。と、
「……あ」
思わず口が開いてしまった。何を勘違いしたのか、鞘子が歓声を上げて背中に飛びついて来る。その小さな体を首にぶら下げたまま、沙貴は吊った右手首をわずかに揺らした。
黒い布の衣擦れがした。
「功成の、おじい、さま」
僧侶は、静かに微笑んだ。
いつだったか功成から聞かされたことがある。「いつも招き猫のようににこにこと笑うおじいちゃま」のことを。
「……招き猫」
思い出した途端、つい声に出してしまった。
笑うと口の端がきゅっと上がり、しわが濃くなる。目もとのしわとそれが重なって、まるで頬に猫のヒゲのような線ができる。
確かにと呟いて、すぐに口を押さえた。僧侶はそんな沙貴を、慈愛に満ちた表情で眺めている。
京都総本山より派遣されここの寺院を築いた初代住職。高位の証である紫帯黒法衣に包まれた功成の祖父は、すでに故人となっていた。
「どうか、これからもくれぐれ」
老住職は再び深く一礼する。
そして動揺する沙貴の背で小猿のように暴れる鞘子に、溢れる笑みを浮かべた。
「なんと愛らしい」
「ええ、まあ。おじい……様のお孫さんはみな元気で……」
敬語に迷った沙貴は、言葉尻を濁した。一瞬、老住職の顔が寂しげに曇ったのは、気のせいだったのだろうか。静謐な居住いを崩さない彼の指差す先を、沙貴は見遣った。
「……もう一度お教えします。あの突き当たり左手の扉には近付かぬように。施錠してある扉です」
「は、い」
思わず背筋を張ると、指したまま老住職は穏やかに続けた。
「あれは勝手口の扉。本堂とこの母屋をつなぐ渡り廊下、それに続く出入り口です。渡り廊下には出られるようにしてありますが、用心怠らぬように」
「……あの渡り廊下というのは?」
何気なく聞き返しながら、誰も使用していないことを思い出した。
「あれは、功成が閉じさせたものです。ごく幼い頃」
そこまで言うと、老住職は小さく息を吐いた。
大往生で亡くなったと聞いたことがあるが、恐らくその最期まで美しい背筋だったのだろうと想像がつく。青々と剃り上がった頭が高潔さの象徴だった。
「わしがここへ遣わされた時分は、お山の頂上に本堂、その隣に住居である母屋、それしかなかったのです。いや、そうでなければならなかった。わしの至らなさでつい、雑務が楽になればと堂と住居の間に渡り廊下を通してしまった」
「はあ」
それの何がいけないのか。眉を寄せた沙貴に、老住職は自嘲気味に目を細めた。
「霊道というものをご存知か」
「レイドウ?霊の道、ですか」
答えた沙貴に、ゆったりと頷く。
「仏さんが通る道です。お山を貫く坂道、それはあそこに続く」
老住職は、扉の向こう側を指しているようだった。
「お山を下りる人々、上る人々。みな、あの山道を通ります。本堂と母屋の間の地点が、その起点であり終着点であった。いや、だからこそ本堂と母屋の間が大きく空けられていた。霊道が通っているから」
霊道のためのスペース。
沙貴は古来続く霊的思想を思った。
死者が通る道は山にあると言う。
目に見えない何かが通る道が。
その霊道を塞いではいけない、通行を妨害してはいけない。だから、
「ああ……」
頷いた沙貴に、老住職は微笑んだ。
「そう。わしの軽率で安易な考えのせいで、霊道の真上に廊下を渡してしまった。渡り廊下をかけてしまったのです。ちょうど直角に交わるように」
道の上に、横断する柵ができたようなものだ。
霊道というもの自体には半信半疑だが、語り手の深い悔恨は伝わってきた。
お山に霊道がある。
それは、頂上の本堂と母屋の間の地点から、杉の大木のある坂道、山のふもとまで続く。
その霊道の上に渡り廊下を通してしまった。何十年も前のことだ。
「……それで功成が、幼い頃泣き喚きまして。ここは嫌だ駄目だとそれはすごい騒ぎで」
しかし一転思い出し笑いに変わる声に、沙貴もつられて笑う。
「で、彼に甘い家族は、ならば渡り廊下を無いものとし、扉に錠をかけてその上カバーも付けてしまえ、としたわけですね」
そして扉を使うのを禁じた。
ふたりで顔を見合わせて笑う。ひとしきり笑った後、老住職は改めて思慮深げな目を向けた。
「ですから、ほら。耳を澄ましてごらんなさい」
「……」
唇に指を立てて見つめて来る。
沙貴が視線をさまよわせて黙ると、それはすぐに聞こえて来た。
……ざわざわと人の集まる雰囲気。ばらばらの足音。砂利を激しく蹴る音、手を叩いて何かを呼ぶ声。
時折、境内で人の話す声を聞くことがある。しかしちょうどその裏側、この勝手口である扉の向こうから漏れて来るものは、それを大幅に上回る大音量に思えた。
「……すごい、ですね……これは」
首筋を氷で撫でられた気分で、沙貴は鞘子を抱き直した。
ガン、と扉を叩く音がする。
誰かが雑音に紛れて扉のノブを激しく回している。
扉全体をガタガタと揺さぶるような音もして、沙貴は視線で老住職にすがった。
「大丈夫ですよ。扉を閉じている限り、誰も入っては来られない」
経を唱えるように優しく言う声に被せて、扉の向こうから太い男の声がした。
「誰かおらぬか。我はさる高貴なお方の霊を宿す霊能力者であるが。ここの家人に伝えたいことがある、誰か開けぬか」
「……時々、ああいうわけのわからぬことを叫び害そうとする者もおりますよ」
穏やかに言われ、沙貴は慌てて頷いた。
「霊能力者」という言葉、しかも見えざる者の無意味な言葉に一瞬でも気が移った自分を、やんわりと諌められた気がした。
「開けぬか、開けぬか。早くせんとこの家に災いが降りかかるぞ」
「……」
地の底からの声に無言になる。そこへ、廊下の向こうから軽い足音が迫って来た。
「沙貴ちゃん、お風呂わかった?」
「コウ」
薄明かりの中から現れた功成は、歩きながらこちらへ小さく手を振った。
「あ、おじいちゃま。沙貴ちゃん、お風呂こっち」
そして廊下に座り込んだ沙貴と老住職の間をひょいと飛び越える。
廊下突き当たりで手招きをするその姿に、沙貴は呆れ老住職は笑みをこぼした。
扉から漏れる声に反応すらしないのは、さすがと言うべきだった。
「では。これにて失礼を」
老住職は法衣をたぐり、立ち上がった。鞘子をぶら下げたまま沙貴も立ち、丁寧に礼をする。
功成の来た方向へと歩く背を見送りながら、沙貴はふと言葉を投げた。
「あの、失礼ですが」
法衣が立ち止まる。
「おじい様は、見えていなかったのですよね?」
振り向きざまに微笑まれ、沙貴は本当に失礼だったと後悔した。
「ええ。……わしには、渡り廊下を作った時も、何も見えなんだ。そしてわしの息子も」
今でも檀家の間で慕われている、徳高い初代。
二代目の現住職は才気溢れ経営に強く、若者向けの説法会などに尽力する先進派だ。
そう。功成の、祖父と父。
「……三代目にして仏の加護が降りたと皆は申しておるが」
老住職はわずかに間を開けた。
「わし自身が、それを信じられないのです。……本当か、と」
「……」
ちり、と沙貴の脳裏を何かが掠めた。
口には出さない言葉がどこかで疼いている。
寺に生まれついたから。……本当に?
「本当に」
なぜ、功成だけが、こうなったのか、と。
「……何か」
ナニカモット、ベツノオオキナヒミツヲミノガシテイナイカ……
「沙貴ちゃん、お風呂!」
急かすように呼ばれ、沙貴は頭を振った。
老住職は目礼し、今度こそ廊下を去って行く。
「ちょっと待ってよ。コウ、おじい様に対してさ、挨拶くらいきちんと……」
鞘子を下ろして柔らかな手を引く。功成に文句を言いながら、すっかり冷えてしまった足に力を入れた。
そう言えば功成にはおじい様の面影もないな、とその時ふいに思った。
「この家には偽者が、偽者が取り憑いておるぞ。祓ってやるぞ!」
開かない扉の向こうからは、まだ喚き声が響いていた。
「バカなことを」
吐き捨てて背を向けると、ノブがガチャガチャと悲鳴を上げた。




