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25.お山信仰


 

 暖冬と予想された冬は、存外厳しいものだった。

 

 三月に入った今も空は薄曇り、山の坂道の地面に近いところを冷たい風が吹いている。

 無意識に右腕を擦ったが、触れたのはギプスとそれを吊る包帯で、そして手首には布を巻いたままだった。

 沙貴が通う病院は名医の集う有名院で、従姉妹の栄美子が手配し紹介状まで入手してくれた。しかも送り迎え付きだ。遠慮した沙貴に、栄美子は「絶対やらせて」と珍しくも押し切った。何も言っていないし何もわかっていないはずだが、母は強しと思うのはこういう時だ。

「でも……なかなか治らないし」

 腕には真っ黒く大きな痣がついている。

 逆さまの女が握り潰していった腕だ。

 しかもその痣は手形で、普通の骨折とは到底言えない。

 若く素敵な医者には、「これだけ骨がくっつかないなんて、粗雑に過ごしているからとしか思えない。いい加減にしないと一生右腕を吊ったままですよ」と呆れ半分に注意された。

 多少泣きたくなってもいいはずだ。

 

 ため息を吐きながら、沙貴は坂道を上り切った。

 山道の途切れる先はすでに寺院の敷地だ。

 

 荘厳な本堂と、住居である平屋建ての母屋。そのふたつをつなぐ一本の渡り廊下があり、坂道の終着点はちょうどその渡り廊下の真ん中、本堂と母屋の中間に位置する。

 渡り廊下は木柱に瓦屋根付きで立派な造りだが、瓦の色味からして後から増築されたものだとわかる。

 その渡り廊下は母屋の勝手口に繋がっているが、客人である沙貴はもちろん素通りした。砂利の庭園をぐるりと迂回して社務所を過ぎ、母屋の正面玄関へ入る。

 

 が、最近気付いたのだが、寺の関係者だけでなく栄美子を始めとする家人までもが、勝手口から続く渡り廊下を使用していない。そもそも、勝手口が開いているところを見たことがない。

 本堂と母屋を行き来する際も、もっとも便利な渡り廊下を使っている様子はないのだ。靴を履き、いったん玄関を出て、境内をわざわざ横切り移動している栄美子に、しかしその理由を尋ねたことはなかった。

 いや、尋ねる余裕がない、というのが正解だ。人が集まる場所でさらに寺という場所で、境内を歩くだけでさわさわと話し声がする状況で、つまり余裕のない沙貴には正直なところ興味がない。

 ましてや今日に限っては、何を置いても大切な用事が頭を占めていた。


「……と、いうわけで。ほんと情けないけど、お願いできますか」

 頭を下げた沙貴に、栄美子は大きく手を振った。

「そんな。お安いご用よ」

 そして真剣な面持ちで沙貴の肩を掴む。

「いえ、そろそろこちらから頭下げに行こうと思ってたのよ。そんな機会に便乗するなんて、申し訳ないわ」

「……何で栄美子さんが頭を下げるの?」

 戸惑った沙貴を強引に玄関へ上げ、栄美子はひとりで頷いている。

「そうね、こちらからきちんと出向いてご挨拶しなければ。主人にも伝えておきましょう」

 そして居間に促して微笑んだ。

「じゃあ、母にも連絡入れておくわね。久し振りだからきっと喜んで来るわ」

「あ、はい」

 助っ人はひとりでも多い方がいい。栄美子の母、沙貴の叔母の参加にほっと心が軽くなった。

 とりあえず一週間後に沙貴の部屋で、と日時を約束する。

 一番心を悩ませていた問題が少しだけ解決した気になって、沙貴はソファでため息を吐いた。

「沙貴ちゃん」

 待ってましたと言わんばかりにキッチンの扉が開いた。盆を両手で捧げ持ち、功成が早足でやって来る。

「ケーキ、僕が食べさせるから。コーヒーは冷ました方がいいかな」

 わずかに声変わりした低音でテーブルに盆を置き、そして吊った右腕側にぴたりと座った。

「……左手でもフォークは持てるし、コーヒーは熱いのが好みです。お構いなく」

 ため息混じりに答えると、功成はすっきりとした顎のラインを反らす。

「じゃあ皿を支える。ほら、クッションにもたれて。さあ」

 二ヶ月前の、上階のベランダでの一件以来、尋常でなく世話焼きになり唖然とするほど心配性になった彼は、かいがいしく沙貴の背にクッションを挟んだ。

 そして落ち着きなく目線を配り、こちらを見上げてくる。

 まるで命令を待つ飼い犬のようだ。

「……じゃあ、フォークもうひとつ」

 呆れ果てて言った途端、目を輝かせてぱっと立ち上がる。

 駆けて行く後ろ姿に尻尾が見える気がして、沙貴は目眩を堪えた。

「あい」

 ふと足元を見ると、妹の鞘子がいた。にっこりと差し出すそれはコーヒーシュガーだ。

「ああ、どうもありがとね」

 ブラックでしか飲まない沙貴が受け取ると、鞘子は嬉しそうに膝をよじ登ってきた。

「うちの子達はみんな沙貴ちゃんが好きねえ」

 向かいに座った栄美子がのん気に笑う。

 苦笑いして左腕で鞘子を抱き締めると、甘く柔らかな匂いがした。

 幼児独特の真っ直ぐな目に見入る。間近で弾けるような笑顔を投げられ、沙貴の顔半分がだらしなく崩れた。

「鞘子」

 人懐こく、特に自分には惜しみなく笑顔を向けてくる三歳児。これが可愛くないわけがない。

 さらに鞘子は、二重のくっきりとした目につんと上向きの鼻、広い額にふわふわの綿毛のような髪で、身内びいきでなく可愛いと思う。まるで天使だと恥ずかしげもなく絶賛してしまうのだ。

 母親譲りの切れ長の細い目を持つ功成とは、男女の違いは別として種類の異なる愛らしさを醸し出していた。

「しゃきちゃん」

 舌足らずに呼ばれて頬擦りする。子供服ではトップクラスのブランドに包まれた幼い体が、伸び上がって密着してきた。

 父親にも母親にも似ていないこの女児は、文字通りまさにお姫様扱いだ。両親にも兄にも祖母にも、甘く甘く育てられている。

「沙貴ちゃん、フォーク。それからはい、僕のスマホ。アド交換しよう」

 そしてもうひとりこの家の王子様が隣に滑り込んできて、沙貴のものと同機種の……沙貴にとっては高い買い物であったスマートフォンを、無造作に寄越してきた。

「教育上どうなの……」

 記憶の限り、沙貴は子供時代にこのような扱いは一切されたことがない。

 ちらりと正面を見遣ると、ハチミツより甘い母親は朗らかに笑っていた。

 二本目のフォークで鞘子の口にケーキを放り込み、ついでスマホを素早くいじる。

 左手だけを忙しく動かしながら、沙貴は心からのため息を吐いた。



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