24.依り代4
「あ…ああ…」
神経が悲鳴を上げ、奥歯がきしんでいる。白濁して行く意識の中、かろうじて扉を開ける音が聞き分けられた。
「沙貴ちゃん!」
雄叫びに近い悲鳴とともに、功成が走って来る。
泣き喚くスーツの男の背を飛び、駆け寄ってすがりついてきた。
「さ、沙貴ちゃ、沙貴ちゃん何……こんな……っ」
あまりの衝撃に我を失っているようだ。
色のない顔で揺さぶられた沙貴は、しかしその痛みのおかげで意識をつなぎ止めた。
「何、なんで、沙貴ちゃんが……さき、僕、僕が、さき、さ」
それは初めて見る、極限の混乱状態だった。
功成の赤い唇は激しく震え、生え変わった大人の歯はガチガチと異様な摩擦を繰り返している。微笑むことができたのは、沙貴自身の努力の結晶だった。
「ぼ、ぼくのせい!?僕、僕が、ほんとは、痛いおもいしなきゃ、ならないのに……っ、さきちゃ」
「落ち、着いて」
「なん、なんでこんな、ぼ、僕がなんで、さき」
「病院、は、明日、病院、に行くのは、気合、がいるから。部屋から、アスピリン、持ってきて。救急、箱の」
「僕は……沙貴ちゃ、は……」
功成の細い目が虚ろになっている。落ち着いて、落ち着いて、コウ、と何度も繰り返してその頬に触れる。
「コウ。コウ」
誰かが言ってた。
黒い布を巻くことによって、巫女の役割をした、と。つまり、巫女は沙貴だ。
「ふざ、けんな」
巫女は依り巫。依り巫は依り代。依り代は身代わる。
誰の。
「コウ」
沙貴は名を呼び、ふざけんな、と今度こそ本当に笑った。
「……身代わりって……ったく、そうじゃなくて、もう……」
パニックで過呼吸になりかかっている功成の頭を、そっと左手で抱えた。
身代わりという言葉に反応したのか、功成の背が小刻みに震える。それを撫でて掠れ声で呟いた。
「身代わりじゃない。私は身代わりじゃないよ、コウ」
「さ、さき、さきちゃ、僕の怪我、小さい頃と比べて、少なく、少なくなってきたねってママが、ママが……」
「違う」
きっぱりと遮る。
「依り代の『依り』はね、頼るとか、依存するとか、そういう意味もあるのよ。身代わりなんて、言葉が悪いよね」
今日は勝手な想像でよくしゃべる日だ。
でも、気休めでもいいと心の底から思った。
「身代わりじゃなくて、分かつ。苦も楽も分かつ。ひとりよりふたりの方が苦も少ないからね。分けよう」
気休め以外の何ものでもないと、脳が叫んでいた。
しかし発作のような震えが止まらない功成の頭を抱き込む。
ふざけんな、と思う。
こんな幼い功成をここまで追い詰める何かに、濁流のような怒りでふざけんなと思う。
「だから、コウ。……怖くないなんて思ってはいけない。慣れては駄目なの、きっと。近付き過ぎてはいけない」
怖くない、とこの子供は言う。沙貴はどこかでずっとそれを恐れていたような気がする。
山に潜む途方もなく恐ろしい者が、密かに告げていたはずだ。
「あんたはこっちの人間だ」「こっちに来れば、楽だろうに」と。
生まれつき見える、見え続けている、そして無視する術も身についた。それは転じて、慣れてしまうことになるのではないか?
「境界線を失う。きっと、近付きすぎては駄目なのよ。わかり合えないから」
慣れてはいけない。
怖がらなくてはいけない。
近付きすぎてはいけないのだ。
沙貴が傷つくと、この子は自分が傷つくよりも衝撃を受ける。
きっと自分には、まだこの子に教えられることが、ある。その意志が沙貴の血を温める。
沙貴は力を振り絞っておどけた。
「……コウがあいつらに近付き過ぎると、私まで影響受けるのよ。私のために、ね。わかった?」
皮膚を突き刺す冷気がベランダから温度を奪う。腕の中の頭が微かに頷いたことで、沙貴の右腕がきりりと痺れた。
きっと、この右腕には手形がくっきりと浮かんでいる。
真っ黒にうっ血し、蛭のような痣になる。
旅は長く、そして険しい。
夜空に白い息を吐き、沙貴は胸いっぱいに空気を入れた。
今まであえて考えて来なかったたくさんのことが、涌き水のように一気に噴出した瞬間があった。
テキストの注釈だ。『依り代は身代わりの意』。
きっかけは、確かに「依り代」だった。しかしそのことは、本当はどうでも良かったのだ。
依り代だろうが身代わりだろうが、そのことに関しては実際どうでも良かった。
幼い体にまとわりつく、黒い痣が少なくなるならば。
依り代がどうのこうのなんて、本当にあまり気にならない。
ずっと沙貴が考えていたことは、それとは違う。
「……『本当に?』、よ」
なぜ功成なのか。功成だけなのか、なぜ沙貴なのか、なぜ沙貴だったのか。なぜこうなったのか、なぜこういうことが起きるのか?
寺に生まれついたから。周囲にそう教えられた。黒い布を巻いたから。以前誰かがそう推論を立ててくれた。
本当に?
ワタシハ、モットベツノ、ナニカオオキナヒミツヲ、ミノガシテイナイカ?
「……わかる時は、来ないかもしれないけど」
一体、どこまでが本当のことなのだろうか。
考えろ。考えることを止めてはいけない。
幼さの欠片をまとう指を頬に添えられて、鼻を鳴らす。
どこからかトラックのタイヤ音が澄んだ空気を裂いて反響した。
冬の暗闇は明かりのない夜道の先に似ている。
すべて闇に溶け靄がかかり、何もかも不確定で見えないことだらけだ。それでも、ふざけんなと言い切る力が残されている限り。
まだ旅は続けられる、と沙貴は静かに思った。




