23.依り代3
扉から転がり出た沙貴に、功成は心底驚いた顔をする。
「上の部屋見て来るから!ここにいてよ!」
言い捨てて廊下を走り、階段を二段飛ばしで駆け上がる。
背後で功成が何か叫んでいたが、今はそれどころではなかった。
勘や予感と言った不確かなものが沙貴のこめかみを焼いている。
悪い方によく当たるそれは、息せき切って掴んだドアノブが回ったことで、現実に変わった。
「すいません、お邪魔します!」
自部屋の真上に位置する他人の部屋に土足で駆け込む。
風の吹き荒ぶ室内に見たのは、開け放たれた窓の向こう、ベランダに足をかけ背を向けるスーツ姿の男だった。
「ちょ、ちょ、ちょっと!何してるのちょっと!」
考えもなく床を蹴り、窓を越える。
ベランダのこちら側に残された足に抱きつくと、男の体が大きく傾いだ。
「邪魔しないでくれえっ」
「それ、決まり文句!飛び降りようとしてる人のあるある言葉だから!」
自分でも何を言っているのかわからない。ただ渾身の力を込めて足にすがりつき、無我夢中で喚き散らした。
「何があったか知らないけど、いや、だいたい想像つくけど、でもあくまで私の勝手な推理だけど、でもねえ!人生これからいいことあるって!そりゃあなたも悲しいかもしれないけど、悲しいことは世の中たくさんあるのよ!私なんかもう、今日大学の試験でしかも追試で、途中で放棄して講義室から逃げ出しちゃって、もう単位落としは決定で……」
爪が食い込むまで握る男のスラックスが、引き合いでしわくちゃになる。
どうにか沙貴を放したいのか、男は胸に抱いたスケッチブックを投げつけて来た。それでも怯むまいと沙貴は一層声を上げる。この場を収めるためなら、何を怒鳴ってもいいような気がした。
「留年よ、しかも二度目!わかる!?大学に行きたくても行けない日も数え切れないし、でも根性で卒論も準備万端、邪魔されても妨害されても勉強して、試験だって楽勝だったのよ!だけど、だけど……っ」
講義室の長机に座った刹那、黒い布を巻いていたことに泣くほど後悔した。
沙貴の座る椅子のすぐ足元に、老人が正座していたのだ。
机の下に潜り込んだ老人は、全身がほぼ骸骨に近い状態で、掬い上げるように沙貴を見ていた。
そして、「おい聞きなさい」「聞かんか、おいい」と段々声が大きくなり、ペン先の集中力が完全に失せた頃。
無視するか、貴様ああああ。
深く地の底から響く叫びとともに、いきなり足首を掴まれた。
……それがもう、限界だった。
「見えてて聞こえるか、見えずに聞こえるか、どっちもどっちで究極の選択だと思わない!?試験も最後の設問に答えている最中だったのよ、最後よ!?『古代における依り代・依り巫の役割を述べよ』、わかるこれ!?依り代ってねえ、神霊が依り憑く対象物のことでっ」
それは万葉集作成時のさらに以前より、脈々と続く思想だ。
依り代は人であることもあり、これを依り巫とも言う。
神と通じ声を聞き、人々に伝え下ろすことを責務とする者の呼び名。依り代、依り巫は、環境、血縁その他など神霊物にもっとも近き者がなると言う。
それが、巫女の始まりだという説もある。
いつかのあの日、黒い布を巻いたから、沙貴は巫女の役割を果たしてしまった。
その巫女だ。依り代だ。
「ふざけんな、よね!私から言わせれば、ふざけんな、よ!」
老人に掴まれた足首には、くっきりと黒い痣が残った。
試験のために徹夜で詰め込んだテキストの、ページの隅に小さく載っていた注釈。たった一行のそれが、沙貴の心を揺さぶっている。
依り代。
「ふざけんなって!思うの私!」
依り代。
注。上記は別に、『身代わり』の意も含む。
誰の?
身代わりって、誰の?
「うるさい!!」
男の怒鳴り声で、沙貴は短く息を吸った。はっと喉が開く。
自分を叱咤するつもりで頭を強く振った。
「ああもう!いいのそんなことはっ。とにかくあなた、待ちなさいって」
「お前に何がわかる……」
ネクタイを乱して叫ぶ男に、突風が吹きつける。それに抵抗するように沙貴を引きずり、男はさらに身を乗り出した。
「もう俺は……あいつが死んでから俺は……」
風が風を呼び、落ちたスケッチブックがめくれ上がった。そこには隙間なく文字が書き連ねられていて、「わたしをあいしてる?」「もちろん」という二種類の筆跡が沙貴の胸を打つ。
そして男の頭よりもさらに上、ベランダのひさしへと視線を向けた。
「あいつは、口がきけなかった!車ごと崖に落ちても、助けすら呼べなかった!俺がそばに、そばにいさえすればこんなこと……」
「ねえ!」
沙貴は、唸る自分の鼓動に任せた。勇気の要る一言が自然と口をついた。
「ねえ、私見えるのだけどっ」
逆さま女は、ひさしから半身で垂れ下がっていた。
「信じてくれなくてもいいし、気休めだと思ってくれて充分。でも、あなたのその彼女、あなたをじっと見てるよ」
垂れた髪が舞う。女は男だけを見つめていた。
「ねえ、失礼だけど彼女。……逆さまの状態で亡くなられた?」
「……は?」
男の足からわずかに力が抜けた。
それを見計らって、沙貴は矢継ぎ早に訴える。
まったくの想像で自分なりの解釈だったが、考えている暇はなかった。
「きっと!あなたがこんなことしているのを嘆いて、止めに来たのよ。いや、絶対そう。あなたをすごく愛していたんでしょう。だって」
ふいに、玄関先での功成とのやり取りが浮かぶ。
「だって、下の部屋に住むのが女かどうか、見に来るほど心配性なのよ?」
彼の下に住む女がどんな人間なのか確かめにくるほど。
大好きな彼。
シートベルトが外れ、逆さまで車外に放り出された哀れな女の姿を想像した。
やり切れない思いを舌に乗せて、沙貴は女の外見の特徴を挙げる。次々と告げるたびに、男の足から力が失せていった。
「話せないから、彼女。でもきっと訴えてる。こんなこと止めてって」
突如、男がうめいた。完全に足先の強張りが解ける。
ほっと沙貴の肩が下りたその時、轟音とともに風が舞った。勢い男の背が風圧でしなる。
男の体が斜めに傾いたその瞬間、女が動いた。
「!」
垂れ下がった両腕が男の頭に乗る。
沙貴は咄嗟に叫んだ。
「ほら彼女、落ちないように、あなたを支えようとしてる!……頑張れ!」
最後の力で男を引っ張り下ろした。
男はスーツをしわだらけにして、ベランダに腰から落ちる。
「……ううっ」
数秒の空白の後、漏れて来たのは男の嗚咽だった。両手で顔を覆った男は這って部屋に入り、そしてとうとう、肢体を投げ出して赤ん坊のように泣いた。
「……」
その様を眺めて息を吐く。沙貴の座るベランダに、汗を冷やす木枯らしが下りた。
「……良かった」
漏らした言葉は風鳴りに紛れる。
そして女の姿を求め、顔を上げた沙貴は、
「っ」
息が止まった。
目が合う。女は、鼻と鼻が触れ合う距離にぶら下がっていた。
暗い夜空を背景に、室内の灯りが血走る白目を照らす。
獣のような細い黒目が、異様な光を放った。
生温かい鼻息が直接かかって、瞬きもできなかった。
無風の中スケッチブックのめくれる音がして、沙貴は凍った全身で目だけ動かしてそちらを見遣った。
白い紙の上に、ゆっくりと、ゆっくりと、文字が並べられて行く。黒ずんで滲んだ蛭のような文字が、短い文をじわりと浮かべる。
そして言葉を失った。
なんでじゃまするのよ。
「……コ」
喉がひりついて助けを呼べない。
逆さまの女が後ろに反り返った。
腕をもたげ、振り子のようにブンッと風を裂く。
速度をつけた女の顔が再度目の前に来る。
逃げる隙もない。女は沙貴の右腕を掴んだ。
「あ」
ぎゅっとしなった筋肉は、味わったことのない力で骨ごとつぶされた。
「……ああああああっ」
灼熱の痛みに絶叫したはずが、音にならなかった。
声にならない憤怒の声を聞いた気がした。
風によろめいた男の頭を、支えたのではなく押そうとしていた二本の腕は、沙貴の右腕を粉々に砕いた直後に闇に消えた。
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お話はまだ続きます。
どうぞゆっくりお楽しみください。




