21.依り代
近頃、考え込むことが多くなった。
考えても答えは出ないだろうが、考えずにはいられない。
今までは前に進むしかなくて無意識に足を動かしていたのが、立ち止まってくるりと来た道を振り返る。
そんな感じだ。
「沙貴ちゃん、元気出しなよ」
それをまったく別のことで落ち込んでいると思ったのか、慰めの言葉が耳に届いた。
大人びた口調で言われ、沙貴は肘にかかった手を振り払う。払われた功成は困ったような上目遣いになった。
そうすると、下がり気味の眉がますます下がり、黒々とした細い目が切れ上がる。
急速に伸びた背丈に見合ってきた、丸みの消えた頬。糸のようだった髪は徐々に硬さを帯び、両目にかかるほど伸びている。
「……その慈愛に満ちた眼差しはやめて」
戸惑うほど急いで成長して行く功成に、沙貴はやつ当たりに似たため息を吐いた。
違う考えは横に置き、会話の流れに乗ることにする。
「春にやっと四年生になる小学生に、私の苦労がわかる?」
「沙貴ちゃんは春に大学何年生になるんだっけ?」
「……」
思わず拳が震えてしまった。冬の寒さのせいではない、重苦しい悲哀が肩に圧し掛かった。
「あ、ごめん。でも大丈夫だよ」
フォローとはほど遠い嬉しそうな声で功成が笑う。赤くなった鼻を擦り一気に幼い表情を甦らせ、功成は胸を張った。
「いざとなったら僕が面倒みるからね」
「何年待てばいいのよ。と言うか、前々からはっきりお断りさせて頂いてるはずですが。遠慮します」
「ママが言ってた。昔、百一回もプロポーズした偉人がいたって」
「ああ。知ってる?当時にはあまり知られていなかった言葉があるのよ。ストーカーっていうの」
何が楽しいのか功成は声を上げて笑った。
沙貴の従姉妹であり功成の母親である栄美子は、「最近は自分が生徒のような気分になってきたわ。日参だもの。毎日登校してるの」と言いつつ、頻繁に学校へ足を運んでいる。それこそ、息子本人よりも。
呼び出し常連の超問題児である功成は、教師に対しても級友に対してもほとんど口を開かないらしい。 一切笑顔を見せないのだと言う。
沙貴にしてみれば鼻で笑ってしまう話だ。
由緒正しき寺の三代目跡取り、寡黙で学校も休みがち、しかし身内と沙貴にだけはぺらぺらとしゃべる生意気で憎たらしい子供は、寒風に前髪を翻して笑っている。
「……今回はズル休みじゃないんでしょ」
見えてしまった狭い額から、目を逸らして聞いた。
「そう。インフルエンザで学級閉鎖」
白い額には、黒い痣。
まるで蛭がくっついて血を吸っているかのような、くっきりとした痕だ。
「鞘子もさ、保育所で移されてきてさ。苦しそうだった」
三歳になった妹を思いやって、小さな肩が落ちる。沙貴はわざとらしく息を吐いた。
「だからって避難先がうち?叔母さんのとこは?あんたの激甘おばあちゃん」
「おばあちゃんも風邪なんだよ」
堂々と外泊許可を勝ち取ったらしい功成は、歩きながら沙貴のショルダーバッグを覗き込んだ。
伸び上がらなくても覗ける背丈に、沙貴の荒んだ気持ちが少し和らいだ。
「何よ」
でも、襟元から見える白い首。
「別に。沙貴ちゃんのスマホの機種を確認してるだけ。同じものにしようかなあって」
そしてまだほっそりした手首。
「は?どうして小学生にスマホが要るの」
見えないけど、背中。
「頼んだらおばあちゃんが買ってくれるって。ママは最初反対したけど」
そして脇腹に尻。
「当然でしょ」
体のあちこちだ。
「沙貴ちゃんとメールしたいって言ったら、あらじゃあ反対したら、私は馬に蹴られるわねって許してくれた」
「……あんたの身内は、ハチミツより甘いわね」
功成の体のいたるところに、黒い痣がある。蛭が全身にたかっている。
学校に行く、外を出歩く、そのたびにたくさんの声に話しかけられる。無視してやり過ごす術はそろそろ身についているはずなのに、それでも「向こう」が許さない場合もある。
怒り逆上し、身勝手に理由もなく、危害を加えてくるのだ。
「……」
近くなった功成のつむじを見つめ、いつだったか栄美子がぽつりと漏らした話を思い出した。
功成が赤ん坊の頃、突然火がついたように泣き出した。
慌てて抱き起こすと、小さな背中いっぱいに、巨大な手形がついていた。
(まるで、思い切り背中を平手打ちしたみたいに。そしてだんだん黒ずんで、真っ黒くうっ血した痕になったのよ。お医者様に診てもらったら、何故か私に疑いの目を向けて来てねえ)
あれはさすがに参ったわと、舌を巻くほど強い母親は笑っていた。
「……本当に、平手打ちしたのよ。きっと」
理由はなく、そして見境もない。永遠にわかり合えない者たちがこの世にはいる。
思い出とともに毒づき、星のない夜空を見上げる。同じ歩調で進みながら、功成が手袋を重ねてきた。
柔らかさの消えかかった指の感触を確かめ、コートのポケットに入れてやる。
ふと、さらに続いた栄美子の言葉まで思い出した。
(でもねえ、大きくなるにつれ……そうねえ、沙貴ちゃんと出会った頃くらい……いや違うわね。鞘子が生まれたくらい?かしら。減ってきてるのよ、これでも。黒い痣は)
鼻の奥を突き刺す空気が、白い息となって辺りを包む。
「……さ。さっさと帰ってご飯にしよう」
数年前に不法投棄場で砕いた沙貴の足首がほんの少し痛んだ。
いや、古傷ではない。足首には、多分新しい痕がついている。
沙貴の体にも、黒い痣。蛭は全身にたかっている。
「またビーフシチュー?」
「文句ある?」
今日の昼、大学の講義室で起こった事件が頭を過ったが、あえて心の内にしまった。
「依り代か」
凍る唇で形作った言葉は、幸いにも真冬の木枯らしに溶けて姿を消した。




