20.合間の話(喫茶店にて)
窓から顔を離して沙貴はコーヒーをすすった。
「……だから、何が言いたいんですか。沙貴さんの話はよくわからない。もう聞かなくてもいいですよね、あなたの話は」
とうとう我慢ならなくなったらしい。哲也は沙貴の返答を待たず、功成のイヤホンを掴んだ。
「ねえ、功成くん。どんな感じ?僕は君くらいの頃、とても高揚した気分だった。君はどうかな?見えるだけじゃ分からないか、僕のあの気分は」
雨が降り出した。
長女を抱いた栄美子は、片手で傘を差しながら学校からここへ向かっているのだろうか。
耳も痛いし、そろそろ切り上げようと沙貴は思った。
「ねえ、聞いてるかな?」
宿題を邪魔されて不機嫌な功成に、大きな身振りで話しかけている。その哲也の痩せた頬には焦燥と興奮が入り混じっていた。
「沙貴ちゃん、足。もう痛くない?」
功成は徹底的に無視するらしい。
「え?あ、うん。すぐくっついたしね」
「大丈夫、今度何かあっても僕がずっと責任持つからね」
「今度があるのが嫌だし、馬鹿げたことを真顔で言うあんたも嫌」
頭痛を堪えた沙貴の前で、哲也の苛立ちは限界を迎えているようだ。
仕方なく、沙貴は声を改めた。
「哲也くん」
「……はい」
有無を言わせない雰囲気に、渋々答えている。
イヤホンを奪い返した功成が、哲也をちらりと見た。
「哲也くん。……人ってさ、都合いいよね。忘れたいこと全部忘れて、大切な現実からは目を逸らして。自分が見たいものだけを見る、言いたいことだけ言う」
「は?」
「あの冷蔵庫の女の人も、長い時間の中で記憶違えしてしまった。……首桃果を探して旅立った男もね、現実から目を背けて都合のいい世界を求めた。自分の手で壊して失ったものを、もう一度取り戻そうとした。見たくない現実から、逃げたんだよ」
哲也は大げさに肩を竦めた。
「意味不明です。それより僕は、功成くんともっと有意義な話を……」
「哲也くん」
沙貴はポケットから黒い布を取り出した。功成の手を握った方が早いのだが、あえて避ける。
ぷっと膨れる功成を無視して手首に巻くと、一瞬にして世界が変わる。
「哲也くん。あなた、何も見えてないでしょう」
雨に煙る世界が変わった。
「わ、わわ」
窓を見て沙貴は仰け反った。
「な、何を……沙貴さん、何を……」
能面の目を見開く哲也の体には、綺麗なマフラーが巻かれている。
いや違う、らせん状にヘビが巻きついていた。
「いや、それも違う、か。……ヘビでもない」
マフラーでなく、ヘビでもない。
よくよく見れば、それは人間だ。
人間の全身が細く長く、まるで包帯のように際限なく伸びて、哲也の体に幾重にも巻きついていた。
「沙貴ちゃん。でもあれ、すけてる。ぬけがらだ」
「そうね、コウ。ヘビの抜け殻みたい。もうとっくに中身がないんだ」
沙貴たちの会話が聞こえたのだろうか。
哲也の体にくっついた透明ならせん状の人間の殻は、その途端にパラパラと崩れ落ちた。
ガラスがひび割れて端から剥がれて行くかのようだ。床に落ちた破片は音も立てずに消えてしまう。
動けない哲也に首を振って見せた。
「もう何もないよ。巻きついていた人は、すでに抜け殻だった。その殻も今、粉々になって砕けて消えた。……あの霊能力者にも巻きついている。時々街の中とかで見るんだよね、ヘビみたいなものを巻きつけている人。……ごく少数だけど」
沙貴が指したテレビ画面を、哲也は空虚な目で追った。
白装束の霊能力者は、額に汗を浮かべて祈祷のような動作をしていた。
「『本当に』見えている人には、まだ……会えてないの」
沙貴の独り言に、哲也はゆっくりと肘をつき頭を抱えた。
「見える。……見えていたんだ、本当に。僕は、少し前まで、小さい頃は、本当に」
「うん分かってる。……ひどいね。こんなの、意志のない、ただの悪意の固まりだよね。生きている人に巻きついて、見えたり聞こえたりできるようにするなんてね」
上にも地の底にも行けない者がいる。
語りたいこともなく、ただ空虚に存在している。人の姿も持たず桃の実にもならない者たちは、時々悪戯をする。悪意の固まりで、人生を変えかねない悪戯を。
生きている人間に巻きついて、その間だけ、見えるように……聞こえるように。
なんて残酷な悪戯だろう。
「い、いや……嘘だ……僕は、見えてる……」
「見えていない」
哀れさに舌が痺れた。
が、堪えて強く遮った。
「あのね。……私も今初めて見て驚いたんだけど。最初からずっと、窓に貼り付いてこっちを見てるよ。全身から芝生の生えた、緑色の女の子」
「……そんな」
哲也の強張った額がテーブルに落ちた。
窓全面に芝生がびっしりと生えている。
草の塊の真ん中には、新緑の色をした女の子の顔があった。
「……退治なんて、できないよね。見えざる者たちは、元は生きている人間だもん。人を退治したり、従わせるなんてできるはずがない。できるのは、ただ話を聞くだけ」
体に巻きついてきた奴らの力で、一時的に見えるようになってしまった。
ただ、それだけ。
「奴らの悪意のある悪戯は、とっくに終わってる。ヘビの抜け殻は枯れて風化していたよ」
突然、哲也は絶叫した。
「違う、僕は!僕は、選ばれた人間なんだ!」
見ていられず目を閉じようとすると、そっと手首に温かなものが触れた。功成の指だ。
「……外へ出よう、哲也くん。人と話そう」
ほんの短い時間だったけど、確かに彼は旅人だった。
旅が終わって良かったね、と沙貴は思う。
君が声のみ聞きたしや。
聞きたいのに聞こえない。なぜならもう、旅は終わったのだ。
「芝生の女の子、最初からずっとうるさくてうるさくて。耳がじんじん痛くなるほど、がなり立ててるの。本当に耳が痛いの。叫んでいるのよ……何て言ってるか、教えるね」
……自分の手首に触れる幼い指の持ち主にも、ヘビが巻きついているのだったら。
もしそうだったなら、どんなによかっただろう。
そう思って、ふいに涙がこぼれそうになった。
「見えてない!そいつは何も見えてないぞ!ここにいるわたしのこと、何も見えていないだろ!!ざまあみろ!!ざまあみろォォ!!」
ざまあみろ。結局、お前らふたりだけなんだよ。
地の底から湧き出る声は、いつまでも胸を突き刺し離れなかった。
唸り声を上げて泣いた哲也は、雨の中をふらりと帰って行く。
その霞む背中を追って、沙貴はため息を吐いた。切ない気持ちを隠すためにわざと茶化す。
「……惜しいな。もっと健康的になったら、結構イイ男なのに」
まあ、私の王子様には遠く及ばないけど、と内心で呟く。
生身ではない者を慕うむなしさには目を瞑ろう。
「あ、来た。ほらママ来たよ」
近付いてきた栄美子に窓を叩いて笑い返し、沙貴は功成を急かした。針のような雨はいつのまにかまばらになっている。
「……何だよ」
バッグを手に立ち上がると、隣で膨れっ面の功成がランドセルを背負った。
「カクベツニカッコイイって言ってくれたくせに」
「は?何わけの分かんないこと言ってんの、あんた」
栄美子と腕に眠る赤ん坊に手を振って、店を出る。
これは一体、どこまで続く寂しい旅路だろうと、一瞬だけ思った。
ひと雨ごとに、きっと春は近付いてくる。




