2.昨夜のこと(通夜にて)
それは昨晩。
通夜会場から離れた控え室での一夜だった。
栄美子と沙貴の二人きり、そして会場に飾りきれなかった花輪が壁を占領して、畳敷きの室内の薄い明かりに影を落としていた。
「功成くん……に、不思議な力?があるの?それは、どういう?」
沙貴の疑問への栄美子の答えは曖昧だった。
「例えば、そうねえ。いつもは元気に走り回っている功成が、お盆の繁忙期になぜかおとなしい。どうしたのって聞くと、『あのね、おじいちゃまと、そのまたおじいちゃまが、みんな忙しいからいい子で静かにしてなさいって』って言うの。しかも後ろを振り向いて、『ね?』って首を傾げて。あ、もちろん、おじいちゃまって夫の父で先代住職のことね。既に鬼籍に入られてる方でね」
「色々わからないけど、ひとつだけよくわかった。栄美子さんて怪談がすごく下手だね」
「あら、うふふ」
顔を見合わせて笑う。
何とも朗らかな語り部だった。
おっとりとした仕草で茶器を寄せて、温かいお茶を入れてくれる。それをふたりで飲んでほっと息を吐いた。
本来の通夜は身内が故人に夜通し付き添うものであるが、現代では徹夜はほぼない。この祖父の通夜も引っ切りなしだった弔問客は絶え、親族達も明日の葬儀に向けて各自帰宅した。
栄美子と沙貴も故人のそばにいるわけでなく、控え室を借りて休んでいるだけだ。
話題の主である子供、功成も、沙貴と初対面を果たしてすぐの時間に、叔母に連れられ近くのホテルに帰って行った。明日は朝早く来るから遊ぼうね、と言い残して。
ごく普通の、柔らかそうな白い頬の子供だった。
「まだ幼いから、説明も下手でね。何が見えていて聞こえているのか不明なことも多いのよ」
いわく、功成が「あっちに行ったらダメ」「向こうはダメ」と言い募る方向へ行くと、必ず何か起こる。それはとても小さいことで、例えば転んで擦り傷を作ったり、車が踏んだ砂利が飛んできたり、突風で耳鳴りがしたり。
ただそれが毎回で、日常で、当たり前のように起こることだから、たまたまだ、偶然だとはだんだん思えなくなってきた。
「勘がいいのね、て褒めると、あの子、悲しそうにするの。違うよ、おまえに意地悪するぞって怖いのが言うの、だからだよって」
お前を害してやるぞ。
痛い目に合わせてやるぞ。
いわく、功成は時々、玄関に向かって真っ赤に顔を歪めて「べーっだ」と舌を出している。尋ねると、「悪いのが入ってこようとしたから追い返したからね」と胸を張るという。そうすると決まって栄美子は確かめに行くそうだ、玄関に整然と並べられているはずの靴があちこちに散らばっているのを。
「まるで、誰かが慌てて玄関から飛び出して行ったみたいなの。焦って靴や草履を蹴り散らしたようにね」
栄美子は場違いに明るい声を出す。
「あの子は、人よりよく見える、聞こえる、よく感じ取るみたいね」
見える。聞こえる。
感じ取る。
「……何を?」
「何かしら。何とも言いがたいわ」
沙貴の様子を見て栄美子はふふと笑った。
「疑うのもわかるわ。でも物心つく前からこんな感じだし、お寺の子でしょう。だから周囲も、何だかすんなり受け入れちゃってるの。三代目にして仏の加護がおりた、なんて」
栄美子の夫は京都に総本山を置く由緒正しき寺院の二代目だ。
「可愛がられてるんだね」
「甘やかされてるわ。家でもお寺でも、わたしの実家でもね」
功成にデレデレしていた叔母を思い出して沙貴は吹いた。
愚痴でもなく悩み相談でもない。我が子のことをただ語る優しい母親にますます好感を持った。
ただ、沙貴は信じていない。
信じられる要素が少なすぎた。
叔母と交流したのは数えるほど。
栄美子とは母親の代理で通夜と葬儀に参列すると連絡を入れたときに電話口で少し話しただけ。今夜が初対面だ。
そして彼女の息子、功成も。
幼児特有の空想世界に寺院の子供という脚色がついた、集団心理の一種にも思えた。
でも、子供の彼が見ていると思い込んでいる「見えないもの」とは、一体何だろう?
栄美子は語り続け、気付けば長い時間がたっていた。
窓の外から夏の早い朝の気配がする。
薄い色の雲が灰の空に飛んで行く。
「そうだ、沙貴ちゃん。スマホ見てみて」
栄美子は、ふと思い出したように言った。
「通夜会場の外で功成と写真撮ったでしょう」
「あ、うん」
来なかった母親に送ろうと思って撮った一枚だ。
「あの子は生まれたときから、まともに写真が撮れないの。……さあ、長くなっちゃってごめんなさいねえ。ホテルに戻ってシャワーでも浴びましょう、葬儀は朝一番ではないから仮眠も少しなら大丈夫そうよ」
立ち上がる栄美子に慌てて、沙貴も続いた。足と肩の凝りを伸びでほぐす。
固まった首を回しながら、茶器を片付ける彼女に礼を言って、手にしたスマートフォンの写真記録を開いた。
はっきりと写っていたのはしゃがむ沙貴だけだった。
その隣に立っているはずの功成は、まるで水滴を垂らしたように滲んでぼやけていた。
目鼻立ちの消えた子供の輪郭は、それでも笑っているように見えた。




