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17.君が声のみ聞きたしや


 苦しい。

 肺は破裂寸前だ。沙貴は必死に坂を駆け上った。

 暦の上では春も近いのに、尖った風は耳たぶを切り裂く。

 住宅地と山道、ふたつに分かれる坂道の分岐点に立つ杉の大木が夜の闇に浮かんだ。

 その根元に座る老婆の横を、右側へと走り抜ける。老婆がにやにやとこちらを見送っているのが分かる。

 手首に巻いた黒い布が汗を吸い、濡れて重くなる頃には玄関へと飛び込んでいた。


「コウっ」


 本堂裏手の平屋建てに叫び声が響き渡る。

 間もなく二歳になる長女を抱いた栄美子が走り出て、すぐに子供部屋に通された。

「学校から帰った途端に倒れて。病院より先かと思って沙貴ちゃんを呼んだの」

 普段からはかけ離れた緊迫さで栄美子が言う。促され、布団に寝かされた功成に近付いた。

「だんだん呼吸が薄れてきているの」

 

 功成の胸にナイフが刺さっている。四肢がバラバラになっている。

「……どこに寄り道したの」


 いや、黒い布だ。手首の布のせいで、そう見えるだけだ。


「分からないわ。誰も知らないって」

 功成は集団下校をしていない。皆が嫌がるから、いつもひとりだ。

 は、と息を吐き出してうるさい心臓を抑える。功成の首へと屈んだ。

「こら。何やってんのあんた」

「さ」

 首と胴が離れているからか、功成はうまくしゃべることができないらしい。

 小さな口が吐いた息が細く伸び、段々と静かになって行く。

「どこで誰に話しかけられたの。何を聞いたの。……どうして体をすり替えられてるの!」

 

 マニキュアの剥がれた爪がぴくりと動く。ふっくらとした胸の谷間に彫られたタトゥーが一度だけ大きく膨らんだ。

 体ごと別人で首だけの功成は、幼い唇を歪めた。


「お願いだから。お願いだから、奴らの言うこと、なんでもかんでも聞かないで。お願いだから……そろそろきちんと区別がつけられるようになってよ!」

 苦痛に満ちた表情を見ていられず怒鳴った。

 自分にもできないことを小学生の子供に要求し、沙貴はすっくと立ち上がる。

 咄嗟の判断で、栄美子に頼んで台所から油揚げをもらった。


「明け方までに容態が回復しなかったら、病院行って。栄美子さん」

「ええ。自分で運ぶわ。救急車を呼んでもきっと」

「来ないから」

 恐らく誰かに邪魔される。救急車は来られない。姑息で悪意に満ちた奴らはたくさんいるのだ。

「じゃ、待ってて」

「はい」

 栄美子が思いの外強く頷いた。

 この人は、分かっているようで分かっていない。そして分かっていないようで分かっているのだと思った。


「……私をひとりにしたら承知しない。コウのせいで私こうなってんのよ」

 歯を食い縛って幼い顔をにらむ。

 バラバラになった大人の女性の体。そしてコウの首。

 油断したら泣いてしまいそうだった。

「コウに万一があったら、その後相当うるさそうだから絶対に嫌。黒い布越しにあんたとケンカするなんて、考えただけでもぞっとする」

 細い目が一瞬笑んだようだった。

 意識を失う寸前の唇が動く。

「僕も」

 手伝う、と言った気がして、「寝てなさいよバカ!」と吐き捨て沙貴は身を翻した。

 

 こんなことは初めてだった。鼓動がガンガンと沙貴の胸を殴り続けている。

 あの子の体を。体を返してもらおう。決意して、一度だけ目を拭う。

 言わなかった言葉を胸で反復した。

 ……あんただけが楽になるなんて、絶対に許さない。

 それは、本当の恐怖だった。



 借りた自転車は急ブレーキに耐え切れず、沙貴の体を投げ飛ばす。

 坂道をふたつに分かつ分岐点、その大木の根元に、いたはずの老婆の姿はなかった。

「おばあさんっ」

 左側の山道の闇へと叫ぶ。重なる枝葉が擦れて、夜の不気味さを醸し出していた。

「おばあさん、出て来て!さっきもこちらを見て笑ってたでしょう!」

 沙貴は喉を嗄らした。

 聞こえるのは枝擦れだけだ。

「あなたなら何か知ってるでしょう!今日もこの坂道を上って学校から帰って来たコウを見てるはず。あいつがどこに寄ったのかだけでも……どこで、こんなことになっちゃったのか……お願い、場所だけでも……」

 冷気が髪を弄ぶ。ふいに、功成の顔が浮かんだ。

 苦しそうに歪んだ、顔。


「……っ!出て来いキツネ婆あ!!」

 沙貴は仁王立ちで天空へと絶叫した。

「余計な時ばっか出て来やがって!出て来ないとお前の尻尾、引きちぎってやる!!」


「……誰に物言うか」

 ざっと木立がざわめいた。

 どこからか線香の匂いがする。一瞬巨大な鳥居が現れた気がしたが、黒い布の見せる幻影だったかもしれない。

「ばば……お、ばあさんっ」

「さきほどの暴言忘れんぞ」

 膝ににじり寄った沙貴を、白髪の老婆は一蹴した。

「たくさんの腐臭がした。あの坊やから」

 老婆の姿ははっきりとは確認できない。霞の中にいるような、深く揺れる声だった。

「腐臭?」

「ゴミのような。それも多くの」

「……」

 沙貴の脳裏に閃くものがあった。通学路圏内で、多くのゴミがあるところ。

 あの場所、かもしれない。

「……サンキュ!」

「ところでこの恩恵の代替はお前の首かの」

 周りに毛をたなびかせている口元をにらみつける。

「くれてやるわよ。あんたと同じくらいしわしわになったら、いつでも」

 そしてカバンに手を突っ込み、取り出した油揚げを力一杯投げつけた。

「一応感謝しとく。でももし、救急車を迷わせたりでもしたら……」

 自転車にまたがり、沙貴は吐き捨てた。

「左側の山道の木を切り倒して、……きっと、たぶん一番奥にある稲荷の祠、そんなもんもすべてぎったぎたに破壊してやるから!」


「……まったく」

 ペダルを漕ぎ出す足に、渦巻く風が届いた。

 マフラーのような不可思議な長いものがひらりと舞った。


「身の程知らずにも限度があるわ。……永年のいい暇つぶしぞ」



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