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159.空蝉16 あなたに夢中



「眠れない理由は、ある日突然、眠ると体から抜け出してしまうようになった、と」

 ゆいなの言葉に誰かが息を飲んだ気配がする。

 哲也だった。それから、沙貴の首の後ろに鼻を当てて頑として動かない功成も、ちらりと目だけでこちらを見る。

「あ、知ってるの?この能力。あたしはそこで初めて知ったの、聞いたことなかったから代々の一族のヘビの中でも珍しいのかなあって思ってたけど、そうでもないの?」

「あ、いや……お、オレは、眠ると体を抜け出して街を自由に動き回る……と、思い込んでいただけで、あ、あれが幻想だったのかどうか、は、判断がつかなくて……判断が、つけられない精神状態だったから」

 哲也は言いながら徐々に下を向くが、横の鈴子が励ますようにその背を撫でた。

 沙貴が、首を捻って背後の男に聞く。

「コウは?あんた昔、姿を変えて夜に街を闊歩するみたいなこと言ってなかったっけ?老人とか犬の姿とか」

「……それ言ったの沙貴ちゃんだろ」

「よく覚えてるわね」

「僕は忘れない、一言一句」

「私まったく覚えてないわ」

「だろうね」

 小さく息を吐いてから、功成はさらに潜めた声を出す。

「……たまに、ある。昔は大きくなった姿だったけど最近は色々。……猫とか」


 え、猫。


 それってもしかして黒猫?と聞こうとしたら、沙貴が弾んだ様子で乗り出した。

「ネコちゃん?子猫?ハチ割れか三毛猫だったらいいな、シャム猫もいい」

「……」

「そういう時はミルク飲むの?一回来てよ病院、窓開けておく!」

「……絶対行かない」

 ケチ、と歯噛みする沙貴に笑ってしまった。


「いいわねえ、ここはいいわねえ。蔑みも偏見も追ってこないどころか、ごく普通の生活の一部として話題になるだけ。あたしの施設もなかなかの心地だったけど、ここも負けずにいいところ!よかったね、みんな」


 長く歩む道がある者たちが、それでも楽しそうにしているのはいいことだ。

 あ、なんか実年齢が出てきちゃった。話、話の続き。


「……眠ると体を抜け出して、自由に動ける。一見するととてもいい能力のように聞こえるけど、実際は困惑と混乱の連続だって。唯奈は徐々に心が弱って行ったと言ってた」


 初めはよかったらしい。

 夜中、体から抜け出すのはそのままの自分の姿。夜の街歩きも楽しくて仕方なかった。

 約束ごとには厳しいお父さんとお母さんに文句を言われることもなく、門限も関係ない。しかも、抜け出した姿のまま、ちゃんと物に触れるし匂いもある。周りにも自分の姿が見えていて、話せて、笑い合えて、なんて楽しい夜の冒険かと思っていた。


 しかし次第に齟齬が出てくる。


 この前、夜の街で会ったよね。昼間、知らない人に声をかけられるようになった。夜に出歩いているのだから、本当はもっと遊んでるでしょ。大人の男に無理やり手を引かれたこともあった。噂が噂を呼び、少しずつ、少しずつ、周囲が温度の低い視線を向けてくる。悪意の薄膜が徐々に形作るように、包囲網が狭まるように、唯奈は息が出来なくなってきた。

 この前、真夜中ぼんやり歩いてたよね?

 一昨日、夜の繁華街のベンチにいたよね?

 昨夜、夜道の端にしゃがみこんでいたよね?ねえ?ねえ!


 抜け出さないようにしたいと思っても、無意識に抜け出してしまう。抜け出しても部屋から出なければいいと考えても、気づくと街中にいる。

 もう、眠らないようにするしかなかった。


「まだ高校生だもの。どうしようもできないのも当然。そして眠れず弱る唯奈に気づいた母親は……あたしの娘は、震えた。あたしの残したたった一通の手紙を握りしめて大きく震えた」

 

 古ぼけた手紙を握りしめて、娘の手を引いて、新幹線に飛び乗った。

 追いかけてくる何かから逃げるように。




「この、眠ると体を抜け出す能力、なんて呼んでるの?てっちゃん」

 ゆいなが尋ねると、哲也は鈴子と顔を見合わせた。


「……れ、例が少なくて、オレと、こ、功成くんと……他に、聞いたことなかったから。古語で『彷徨う』『心が離れる』の意味で、『あくがる』という言葉があるから……それを借りてあくがる、と勝手に」


「あくがる。へえ。あくがる能力か。てっちゃん賢いのね」


「い、いや、オレはほんとに学がなくて。鈴子ちゃんや功成くんに聞いて」


「学がないってのは本も持たず開かずに人生を送ってる輩のことなの。学ぼうとする姿勢がある、それだけでも学がないとは言わないの」

 ゆいなはつい説教してしまう。いけないいけない、時々どうしても出ちゃう。婆要素。


 哲也はわずかに顔を赤らめた。

「み、身近に老人いないから嬉しいかも」


「ろうじ……てっちゃんあたしぶち切れ寸前」


「すみません」

 哲也をぎろりと睨んで、ゆいなは宙を見た。


「なるほど、あくがるか。あたしよくわかんなくて、勝手に『空蝉』って呼んでた」


「うつ、せみ?」


「え、空蝉?」

 割り込んだのは沙貴だった。


「空蝉ってあの空蝉?」


「そう、施設に古文が好きな子がいてね。たくさん本があって、あたしもすっかり読み込んじゃって」


「おい俺にもわかるように説明しろ」


「えっとね」

 恒彦に応えたのはゆいなではなく沙貴だ。後ろで功成がため息を吐いている。よほど好きな分野なのだろう、沙貴は歌うように語った。


「空蝉は古語で、源氏物語とか……その他有名な古文や歌にも出てくるんだけど。空っぽの蝉、つまり蝉の抜け殻のこと。さらに蝉の抜け殻は中身のない、儚いものだという見解に掛けて、『うつしおみ』を変化させてうつせみ。つまり儚い現世、儚いこの世、この世に生きる人間のこと。変わらないものなどない、常に移ろうもののこと。と、いう観念で使われていたのだけど、その意味も後々変わってきて」


 空蝉は現しうつしみ、この世に生きる生身の人間。

 転じて、

「後に、空せうつせみ。むなしいこの体、この世。魂の抜け殻を指す言葉にもなった」


 空蝉は現し身、生身の人間。

 転じて空せ身、魂の抜け殻。


「そう。説明上手」

 沙貴の頭を軽く撫でて、ゆいなは周囲を見渡した。


「抜け殻だもん。体から抜け出して外の世界を自由に気ままに闊歩してもね、現実の体は、自分は、横たわってこの世に縛り付けられているでしょ。中身はふらふらとどこかを彷徨い、空っぽの皮だけがこの世に存在する。だから空蝉の力って勝手に名付けたの」


 どうして思うままの姿になれるのか、触覚も痛覚も嗅覚も味覚もすべてあるままになるのか、なぜこんな能力が存在するのか。


「わからないことだらけだけど、これだけは思ったの。うつせみの、世は常なしとしるものを。……人間もこの世も変わらないものなどない、常に変わって行くむなしいもので、確かなものなどひとつもない。人は魂の抜け殻で、儚くただ変わって行く運命に流されるだけ。それなのに」


 空蝉の力は、常に自分を変わらない姿にしてくれる。変わる生身を抜け殻に、変わらない中身だけ抜け出して外へ飛び出すのだ。


「生が辛い。変わるのが悲しい。外皮が病み、老い、穢れ、弱って動けなくなる。この世は苦しいことばかり。それでも、中身だけは美しく健やかに、せめて自由に動き回りたい。……という、誰かの強い願いから生まれた力なんじゃないかなあとか。あたしは思ったの」

「……」


 衰弱して動かないこの体を抜け出して、自由に動いてみたい。

 願いは積み重なり、いつか希望の峰を越えて望外の谷を渡る。


「だからね、剥奪の力だって、願いが積み重なったものじゃないかと思うの。空蝉と同じように。誰かの、代々の誰か達の願い」

「……」


 どうか。どうか、

 …………ますように。



「まあ、ただの想像だけど。ほら、おしゃべりだからあたし。頭の中も自分自身におしゃべりしてるの」

 ひらりと手を振る先には、それぞれ何を考えているのか沈黙した顔たち。

 ゆいなは笑った。


「ほらほら、聞きたがってたあたしの話はもうすぐ終わる。若者たちよ、あなたたちにはまだ時間がいっぱいあるのだからね。あらやだ、どんどん出て来ちゃうじゃない、あたしの婆成分。やだー。もう終わるからかなあ。まあいいのいいの、ほらみんな。時間はたくさんある、考え悩みまた考えるのは話を聞いた後でも遅くはないのよ」






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