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11.白い月


 バイトを辞めた。

 ファストフード店で掃除していたら、片隅のダストボックスの中に不気味な何かが潜んでいるのに気付いた。

 腰の高さほどもある大きなダストボックスの、そのゴミ入れ口から充血したふたつの目が覗いている。

 沙貴と目が合った途端、ずるりとそれは這い出して来た。そしてダストボックスを派手に倒して、それは去った。

 残ったのは大量の紙くずと散ったトレイ、尻餅をついて硬直したままの沙貴と、沙貴が蹴って倒したという不名誉な噂。


「……どんだけ乱暴な女なのよ、私」

 ため息を吐いてバスの車窓から外を眺める。木枯らしの吹き荒ぶ町に、薄い日差しがあった。

 冬は気持ちも懐も寒い。


「とぞみてし、あちのつつよはてらせども」


 突然耳に飛び込んできた声に、沙貴は再度ため息を吐いた。


 相見し妹は、いや年さかる、か。


 心の中で独りごつ。

 イヤホンを耳に押し込み、ボリュームを最大にする。軽快な音楽が大音量で流れてきて、座席から腰が浮いた。

 無意識に、コートの内ポケットを指が探る。しかしそこにある、かつて子供のネクタイだった黒い布に触れた途端、思い直して唇を噛んだ。


 巻いていないと、突然声だけが聞こえてきて驚く。恐ろしい。

 が、巻いていたらいたで、バイトの時のようになる。やはり恐ろしい。


「いや、どっちにしろキツい」

 停留所を確認して席を立つ。その拍子に片耳のイヤホンが外れ、背後の席から何かが立ち上がった音が聞こえた。

 舌打ちしたい気分でバスを降りた沙貴を、小さな両腕が迎えた。

「……どうしてひとりで来てるの」

 今度は堂々と舌打ちをしてその腕を振り払う。振り払われた功成は気にする様子もなく、

「だってもう僕お兄ちゃんだもん。ひとりでむかえに来られるもん」

 と胸を張った。


「あんたひとりで来るなって意味」

 ふたりきりになりたくないと口の中で吐き捨てると、分かっているのかいないのか、功成は細い目をたわませて楽しそうに笑った。

 

 それからついでのように、沙貴の斜め後ろ、沙貴の顔よりずいぶん高い位置を見上げ、日差しに眩しそうに目を瞬かせる。

「こんちは」

「行くよ」

 沙貴はイヤホンをしっかりと両耳に入れ、目の前の看板に書かれた矢印の方向に歩き出した。


 従姉妹、栄美子の嫁ぎ先は、京都に総本山を置く由緒正しき寺院だ。

 看板にある墨文字の寺号、そこを訪れるのは今日が初である。できればいつまでも初めてが来なければいいなと心底願っていたのだが、母から内祝いを持っていけと命じられれば逆らえない。

 

 栄美子は第二子の出産を控えている。


「……」

 こちらを見上げ、しきりに何かを話しかけて来る功成に、返事代わりに舌を出してやる。

 なぜか小さな手を叩いて喜ぶ赤い唇に、沙貴の肩が落ちた。

 三代目の後継ぎ長男として可愛がられる彼と、火葬場で出会った。その時四歳だった彼は、この冬が終わればもう小学生だ。

「……ち、……ら」

「何よもう」

 懐かれるのは非常に迷惑だ。途切れて聞こえる功成の声に、沙貴は仕方なくイヤホンを外した。

「こっち。近道だから」

 思いがけない力でイヤホンごと指を掴まれ、歩いていた国道を逸れて横道に踏み込む。

 そこは緩やかな坂道だった。

 ところどころ舗装されていない道は両側をうっそうと生い茂る木々に挟まれ、冷たい北風も届かなかった。

 

 背後から、追いかけてくる小さな軽い足音がする。

 

 沙貴はすぐさま手を振り解こうとしたが、足場の悪さに功成がよろけるのを見てぐっと我慢する。手を握り直すと思いの外冷たく、沙貴はその手ごとコートのポケットに入れた。

「あったかいねえ、沙貴ちゃん」

「どうでもいいけどコウ、あんたこんな狭い道をいつも通ってるの」

 街灯も少なく昼間でも薄暗い。地元の人のみ知るだろうこの近道は、子供には危険だ。

「うん、ママと帰る時。坂上がって、道がふたつに分かれてるの。こっち行けば僕のおうちの裏」

 功成がつないでいない方の右手を掲げた。そしてコートの中の左手を揺らす。


「あっちはお山に続いてるんだって。あっちはおうちも少ないから、行っちゃだめなんだって」

 前方を見遣ればなるほど、重なった枝の間から二股に分かれた道が見える。右側はくねって住宅街に続いており、左側の先は森の中に消えていた。

「ふうん。坂を上がればコウのお寺なのね」

「僕のおうちはねえ、昔お山だったとこのてっぺんにあるし、どんどん下にむかっておうちもたくさんあるんだよ」

 要は、山を切り開いてできた土地なのだろう。

 彼の拙い言葉を要約すればこの坂道が山を二分しており、右手側が造成された住宅地。その頂上に寺院がある。

 左側は手付かずの、山の状態で残っているのだ。

 大きなお腹で功成とともに山道を行く栄美子を想像した。

「バスも山の上まで走ってくれればいいのに。ふもとまでなんて不便だな」

 沙貴の独り言に、功成が見上げてくる。そして再び、沙貴の斜め後ろの高い位置を見つめた。

「バスの中からついてきちゃったね」

「さあね」

「バス乗る時にはいなかったの?」

「聞こえなーい」

 声を張り上げて大股で歩くと、足の浮く形になった功成は何が楽しいのか歓声を上げた。


 その時、わずかな木漏れ日が何かを映し出した。

「……あれ」

 目線の先に、うずくまった黒い影がある。

「沙貴ちゃん早く。行こうよ」

 引っ張る功成に身を任せ近付いてみると、それは木に寄りかかった老婆の姿だった。

「……どうされたんですか」

 足を踏ん張って立ち止まり、老婆の尻でしわになったマフラーを見遣る。マフラーを敷物にしているのか。

 そんな沙貴を見上げ、老婆はにっこりと笑った。

「お気遣いなく。休んでただけですわ」

 目尻に窪みが刻まれ、上品にまとめられた白髪が揺れた。

 

 気付けばそこは、坂道の分岐点だった。

 右側と左側を分かつ目印のように、杉の大木が聳え立っている。


「ええと。どちらへ行かれますか。私たちは右側ですが」

 骨ばった首筋の汗を見過ごせず告げると、老婆は申し訳なさそうに首を振った。

「ご心配をおかけして。しかしわたしは、左手に行くんで。もう休んだで、大丈夫ですわ」

 老体に坂道は、休憩でも挟まないときついのだろう。

「いや、優しいお方に出会えて本当に良かった。神さんに感謝ですわ」

 大げさな謝辞に困る沙貴に向かって、ゆっくりと立ち上がる。そして曲がった腰がさらに折れた。

「ありがとうござんした。いいお方に出会えました」

「いえ、そんな」

 恐縮して頭を下げると、老婆は小さく微笑む。

「また会えますかの」

 さあそれは、と曖昧に濁して笑い返す。それを見て、老婆は尻に敷いていたマフラーを自分の首に巻き直した。

「じゃあ、また会えるのを待っとりますで」

「は?」

 柔らかな老人言葉に聞き返すと、答えずに老婆は立ち上がった。

 足を引きずるようにして左側の道を歩いて行く。

 その丸い背中を見送っていると、傍らから小さな吐息が聞こえた。

「きれいなマフラーだったねえ」

 子供らしく他人に緊張したのか、黙ったままだった功成の第一声に、沙貴は肩を竦めた。

 

 確かに、美しいマフラーだった。

 透明に近いほどの純白で、編み込まれた模様は精緻過ぎて見取ることができないほどだった。上質なものは、あれほど綺麗な毛糸を使うのだろうか。


「……まあね。それよりコウ、老人には親切にしなさいよ」

 大人の威厳を示そうと眉を上げた沙貴の背に、おっとりとした声がかかった。

「沙貴ちゃん。いらっしゃい、ご苦労さま」

 ママ、と叫んで駆け出した手が離れると、急に寒さを感じる。見ると、風船のようなお腹を抱えた栄美子が坂の出口に立っていた。

「迎えに来なくてもよかったのに、外は寒いから」

 体に障ると慌てて走り寄ると、妊娠のためか一段と丸くなった顔がやんわり笑った。

「少しは運動しなくちゃ。それよりも、わざわざ悪かったわねえ。お母さんには電話でご遠慮申し上げたのに」

「母さん、ちゃんと顔見てお祝いしろって。安定期どころか、もういつ産まれるか分からない状態なのにね」

 かえって迷惑だねと口を曲げると、間もなく二児の母となる女性はのんびりと微笑んだ。

 そして腹に張りついたままの長男を揺する。

「そんなわけないじゃない。コウちゃんもあなたが来るから喜んじゃって。……コウちゃん、ほらまた、何してるの」

 同じようにして出っ張った腹の下を覗くと、功成がへその辺りを見つめながら顔をしかめている。狭い額にしわが寄って、餅のような白い頬が歪んでいた。

「……最近、ごくたまにだけど、お腹を見てこんな変な顔をするのよ、この子」

 のん気に語る栄美子の言葉に、沙貴は吹き出した。

「やだ、コウ。赤ちゃんに嫉妬してるの」

 下の子が産まれる時に、上の子が母親の気を引く言動をするのは、よくあることだ。妊娠どころかまだ大学生の沙貴にでも、幼い心境は想像できた。

「やっぱりガキね、コウ。お兄ちゃんになるんでしょ」

 からかい半分で小さな額を押すと、赤く光った唇がむっと膨れた。

「お兄ちゃんになっておっきくなったら、沙貴ちゃん、結婚してね」

「絶対イヤ」

 即座に切り捨てると、栄美子が朗らかに笑う。

「あらあらコウちゃん、早い失恋ねえ」

 息子の手を引いて歩き出した背について、沙貴もコートを手繰った。

 冷気が膝裏をかすめ、枯葉を乗せて行く。

 鼻の奥に透き通った風が走る。

 

 ふと気になって後ろを振り返ると、無事坂を上り切ったのか老婆の姿は見えなくなっていた。ほっとしてふたりの後を追う。

 

 後ろを付いて来ていた小さな足音も、いつのまにか消えていた。



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