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【BL】社畜オメガは傾国す

作者: 海野幻創

 藤堂(とうどう)遼太郎(りょうたろう)は、会社から三日ぶりに帰宅するところだった。

 クライアントから期限ぎりぎりに変更をかけられ、通常であれば突っぱねるところを、点数稼ぎに勤しむ上司──自分の得と部下の苦しみが大好物の嗜虐的な豚が安請け合いをしてしまったせいだった。

 デスクでうたた寝のみという地獄を乗り切り、ようやく帰路につけた遼太郎だが、しかし、その足元はおぼつかず、電車のホームがどこまでなのか、いつ到着するかも判別できず、踏み出した足は(くう)を切り、迫りくる電車のまえに身を投げ出してしまったのである。

 痛みはなかった。ただ、ミスをした自分を一瞬咎め、しかし死を迎えることを知って、ほっと安堵しただけだった。


 そして死んだはずだった遼太郎は、なぜか、まだその意識を保っていた。意識だけでなく、三日もシャワーを浴びず、着替えもしていない身体も、何ら変化はなかった。


「……なんで男なんだ」


 驚愕の声を聞いて、遼太郎は振り返った。

 そこには、コスプレなのかまるで中世ヨーロッパの世界にでもいそうな豪奢な服を着た、銀髪の男と、立っているのもやっとだと言うべき老人が、震えながらこちらに丸い目を向けていた。


「……わしに間違いはありませぬ」

「いや、完全に間違えている。女を召喚しろと命じただろう」

「……へえ」


 へえ。それが老人の最期の言葉だった。

 彼はその言葉を発した直後に崩れ落ち──まさに、その表現に相応しく、ぐしゃっと床にへたり込み、いや横になり、動かなくなってしまった。


「……ん? アルデーヌ?」


 銀髪の美丈夫が、その溶けた干し肉のような老人に駆け寄り、肩なのか腕なのか、どこかを揺さぶり始めた。

 遼太郎は顔をしかめて目をそらし、周りを見渡した。

 西新宿駅のホームにいたはずなのに、ここはいったいどこなのだろう。

 外ではないと思う。草木の揺れる音や人など動物の声も聞こえないし、なにより壁らしきものが、薄ぼんやりとランプの灯りを反射させている。

 ただ、薄暗く見える限り、西新宿駅でないことだけはわかった。

 人も、遼太郎と銀髪の男だけである。

 そう、さっきまでは三人の男がいたのに……それに気がついて、遼太郎はぞっとし、次にここは天国ではなく地獄かもしれないと思って肩を落とした。


 地獄へ堕ちるような真似をした覚えはない。

 学生時代は勉強、そして社会に出たあとは仕事をと、ただがむしゃらに生きていただけだ。いじめに加担したり、人を蹴落とそうともしたことがないし、犯罪に手を染めるなんてことも当然ながらない。

 落ちていた小金をポケットに入れたことはある。しかし、その程度のことなら誰でも一度くらいはあるはずだ。万引きなんてもちろんしたことはないし、上司が受付嬢と勤務時間中に会議室で二人きりになっていたことも、誰に言うこともなくおくびにも出さなかった。

 大荷物を背負ったおばあちゃんを助けなかったのは、遅刻すれすれだったからであって、遅刻していたら大勢の人に迷惑をかけていたのだから、選択は間違っていなかったはずだ。


「おまえは女……ではないよな?」


 閻魔大王か誰かに訴えるべく言い分をひねり出していた遼太郎は、その声ではっとした。スーツ姿で無精髭が生えている人間はどう見ても違うだろう。


「はい……男です、が……」


 答えると、相手も当然そうだよな、とばかりに頷いた。当然そうだろう。

 

「……なんでおまえが召喚されたんだ?」


 召喚。

 銀髪の男の言葉に、遼太郎は首をひねる。召喚だなんてまるでゲームの中に出てくるような単語だ。あいつは厨二病か?と、疑わしげな目で見やった。


「とりあえず、俺は薄情な男ではない。召喚してしまったからには世話をしてやる」

「へ……」


 へえ。と言いかけて、その台詞は不吉だと咄嗟に考え、遼太郎は振り払った。

 紙くずのように倒れている老人を見ないようにしていても、銀髪の男を見ると視界に入ってしまう。自分も死んだはずだが、死の世界でさらに死ぬなんて、二重に死んだ姿はなんともおぞましく、不気味だった。


「ついてこい」


 銀髪の男はランプを手に持ち、歩き出した。

 ついていかない選択肢はない。この場に他の人間の気配がないのだから、彼についていかねば紙くずと取り残されてしまう。

 遼太郎は頷いてみせようとして強張っている筋肉はただ痙攣し、遅れをとらないよう足をもつらせながら彼の後を追った。


「……傾国の美女を召喚しろと頼んだんだ」


 石造りの階段を登りながら、男がぽつりと言う。


「そのはずが、男を召喚して力尽きてしまっただなんて……」


 それが説明のすべてだった。心底参っている様子の男は、「俺はカイル・アルカディーヤだ」と名乗り、「この邸には俺一人だ」とも付け加えて、どこぞの部屋へと遼太郎を押し込んだ。


「俺は眠くて仕方がない。朝になったら食事を用意する。おまえのことはそのときに聞く」


 そう言い残し、大あくびをしながらドアを閉めて、足音は遠ざかっていった。

 カイルと名乗った男の話を考える……つもりだった遼太郎は、三日もの間求め続けていた寝床を目にした途端、そしてその上に腰を下ろした瞬間、眠る以外の思考は働かなかった。



 ◇ ◆ ◇



 遼太郎は目覚めた。

 はっと起きると、目の前には見慣れた自宅の壁でも、見慣れたくもなかった会社のごったな部屋でもなく、まるで牢獄のような石の壁があり、思わず「おあっ」と野太い声を出した。

 寸前まで見ていた夢に、紙くずのように崩れ落ちた老人が、くしゃくしゃの顔でにやけた笑みを向けていた。暗闇のなか、目と歯だけが浮かび上がり、遼太郎に「なぜ男なんだ」と繰り返し責めていた。何度も何度も。


「なぜこっちを選んだんだ?」「なぜミスしたんだ?」「なぜ地元を出て東京の大学へ行ったの?」

 なぜなぜなぜ。責めるときによく使われる言葉である。

 理由を説明させるという陰険な責め句は、毎日聞くというより浴びるというレベルで耳にした。「すみません」「申し訳ありません」それしか言えない、いや返してはいけないのである。説明とはつまり言い訳であり、責める方はそんなものを期待していない。ただ「無能」「死ね」の言い換えとして疑問文にしているだけでしかないのだから。


「名前は?」


 背後から声が聞こえて、はっとした。

 遼太郎はベッドから起き上がり、声のする方を見た。カイルが木製の椅子に座ってじっとこちらを見ている。

 そしてその背後に部屋の全貌がよく見えた。昨夜は真っ暗なうえに、眠気で観察するどころではなかったから、興味津々に見渡した。が、じっくり観察するほどのものは何も見当たらず、ベッドとカイルの座る椅子、そして身長より高いチェストがあるだけだった。


「……名前は?」

「藤堂遼太郎です」

「トードー?」

「三十二歳、HCソフトのシステムエンジニア、独身です」


 質問はされるより、させて欲しい。遼太郎は先手を取って情報を伝えてしまい、自分のペースへ持っていこうとした。

 

「……何を言ってるんだ?」

「聞きたいのはこちらです。ここはどこで、俺はなぜここにいるんです……か」


 しかし、遼太郎の先手はくじかれた。静かな部屋には、声よりも大きくぐうぐうと腹の虫が鳴り響いた。それは恥ずかしいことに、遼太郎の腹から発せられていた。

 

「……説明は、食事をとりながらにしよう」


 カイルは言うと立ち上がり、ダイニングへと案内してくれた。

 テーブルには既に朝食が並べてあり、それは、黒パンとお茶、そして水っ気の欠片もないチーズだった。衣服は貴族のそれなのに、大層貧弱な料理である。


「遠慮せず食べろ」

「……ありがとうございます」


 およそ食欲をそそるとは言えない代物だったが、空腹は生きたネズミでも食いたいほどだったため、遼太郎はがつがつと腹に詰め込んだ。

 量はたっぷりとある。たらふく食えるが、バターもなく、もそもそと堅い黒パンに、飲み込みづらいチーズと味気ない紅茶は、腹をふくらませるより先に舌を飽きさせた。


「もういいのか?」

「ええ」


 遼太郎が答えた瞬間、腹がぐうと鳴った。ぎくりとし、この音は食料が胃に運ばれて、活動を開始したがゆえだと示すべく「あー、お腹いっぱい」と空ごとを言いながら、お茶に口をつけた。

 

「であれば、事情を説明させてもらう」


 口元をナフキンで拭ったカイルが、神妙な顔つきで姿勢を正した。


「トードーを召喚した目的なんだが……弟を誘惑してもらうことだった」

「……誘惑?」


 冗談だろう、そう思った。弟と言うからには男である。それでなぜ同性を召喚するのか意味がわからない。

 昨夜もそのようなことを言っていた覚えはあるが、他に目的があるはずだ。そうに違いないと期待をし、カイルが続けてくれるのを待った。

 

「そうだ。傾国するほど弟を溺れさせる者を、と依頼した……しかし、召喚魔法の使えるアルデーヌは死んでしまった」


 遼太郎の脳裏に、紙くずとなった老人が頭に浮かび、そして死体がどうなったのかがふと気になった。


「この国で召喚魔法を使える者は限られている。俺が依頼できる魔道士は、アルデーヌしかいなかった」


 カイルが一人で処理したのだろうか。処理って言い方はないよな。埋葬と言うんだ。などと、余所事を考えつつ、ぞっとすることを耳に入れないようにした。


「……他に呼び出すことはできない。だから、おまえにその任を負って欲しい」


 いやいや何でだよ。

 召喚だの魔道士だのとまるでファンタジーの世界である。

 中世のような身なりと、欧州的相貌のカイル、そして怪しげな、いや古ぼけた邸を見るに、アニメや漫画でよくある異世界へ召喚されたのではと、否が応にも考えさせられる。

 まさか自分の身にもそんな夢のような出来事が起きるなんてと驚くものの、そんな感慨にふけっている場合ではない。

 異世界へ来たとして、いきなり召喚されたうえに、知らぬ男を誘惑しろと言われて、はあそうですかと納得し、じゃあやりますだなどと承諾するやつがいるか?

 遼太郎は冗談じゃないと憤慨し、「ごちそうさまでした」と言って立ち上がり、「帰ります」とつぶやきながら部屋のドアへと向かった。


「そう、帰りたいなら、俺の要望どおりにするしかない」


 ドアノブに手をかけて、遼太郎は足を止めた。振り向き、窓の光を背にしたカイルの、その冗談ではなさそうな顔を見て、その場にへたり込みそうになった。


「……それは、つまり、……」

「召喚された者が元の世界へ戻るためには、召喚の目的を果たすことが条件となる」


 いや、横暴過ぎるだろ。上司のパワハラなんて幼児のデコピンほどのレベルだと言えるくらいの無理強いだ。


「……めちゃくちゃじゃん」

「ああ。アルデーヌは老衰で死んだようだった。もう意識も魔力も薄れていたのだろう」

「そんやつに召喚させんなよ」

「……それは、確かに俺が悪い。申し訳なかった」


 心からの謝罪を見せるカイルの様子から、無理強いをするつもりはないらしいと見て取り、ほっとした。が、それもつかの間、遼太郎は青ざめた。


「待て。そうなると、もしかして、俺は一生この世界にいなきゃならないとか、そういう……」

「……そうだ。しかも俺は追放された身だから、金はまったくない。しばらくしたのちに収入のあてを探らねばならない」

「収入のあてって、仕事ってこと?」

「……俺一人なら、このおんぼろ邸でこの程度の食事をとるくらいの金はある。しかし、男二人となると、十分ではない」

「え、てことは俺は追い出されるわけ?」

「そんなことはしない。おまえを召喚した責任はとる」

「え……じゃあ働くってカイルも? どんな仕事をするんだ?」

「……農地へ行くか、狩りでもして売るか……追放されているため王都へは入れないし、役所なんかの仕事は不可能だ。それに元王太子を使用人として雇う者もいないだろう」

「え、カイルって王太子なのか?」

「そうだ。弟が謀反を起こし、まったく身に覚えのない咎で有罪判決を受け、そして追放の身となった」

「……まじかよ」


 王太子であったことを聞いて、遼太郎はまじまじとカイルを見た。

 端正な顔立ちは、確かに凛々しくも見えるし、豪奢な衣服を違和感もなく着こなし、カップを手に取る所作も気品に溢れている。

 国を背負う立場だったと知り、なんだか急に無礼な態度を取りづらくなり、遼太郎は居住まいを正した。

 すると、ふっと笑みをこぼしたカイルは「おいおい」と呆れ声をあげた。

 

「元だと言っただろう。つまり今は王太子でもなんでもない」


 元王太子。それでも十分というか、血と育ちが違うのだから、こんなボロ家にいる人間ではないことには変わりない。

 

「その、身に覚えのない咎って何なんだ?」

「ああ。……国庫の横領と私的な役職の人選、並びに弟の命を狙った咎だ」

「それ以上ないってくらい揃ってるな」

「ああ。弟は生まれつき魔術の才があったのだが、魔術は魔道士として身を捧げない限り極めることは難しいものでな。わずかな訓練時間を幻惑という術一点に絞って鍛えあげたらしい」

「幻術……」

「家臣連中は証拠もないのに弟の言い分を頭から信じきり、俺に対してはいっさいの聞く耳を持ってくれなかった」


 幻術って、つまりは詐術と変わらない。そんなことで兄を追い落として満足なのだろうか。そんな人間が国王となるこの国は大丈夫なのか?と、本日何度目かの怖気を走らせながら遼太郎は思った。

 

「それに誘惑とやらがどう関わってくるんだ?」

「精を放出すると魔力は奪われる。幻術をかけ続けているだけでもかなりの無理をしているはずだから、精力を使わせれば解けると考えた」

「……なるほど」

「幻術にかからぬ状態であいつを国王と認めるならば聞き届けるべきだが……そうではないのだから、納得ができない」

「だったら、王妃とか妾とか、よく知らないけど、いずれ精力旺盛になる時がくるんじゃないか?」

「ああ。しかし、王位を継ぐその日まではどんな誘惑もはねのけると思う」


 カイルの言い分に納得はした。納得はしたが、だとしてやはり承諾はできない。となると、遼太郎はこの世界からは出られず、働かざるは生きていけないことになる。

 元の世界に対する未練はそんなになかった。戻れないと聞いても「ああ、そうか」程度で、意外にもすんなりと飲み込むことができた。

 しかし、見知らぬ異世界で、また社畜のごとく働かなければならないというのは、ちょっと嫌だった。


「あのさ……」


 なので、遼太郎はカイルに聞いてみることにした。

 召喚の目的はどこまでの範囲を指し示すのか。誘惑せずとも、もし王位をカイルに戻せたら、元の世界へ帰れるのか。もしだめでも、謝礼くらいはいただけるのかと。


「元の世界へ帰れるかどうかは、そのときにならなければわからない。しかし、もし俺が王位に就いたら、いや王都へ戻ることができたならば、その場合でも、おまえの生活に関しては生涯補償しよう」


 召喚なんて振る舞いは横暴でも、責任感はあるらしい。

 しかして約束してくれるというなら、やってみる価値はある。

 そう考えた遼太郎は、覚悟を決め、カイルに提案してみることにした。


「だったらさ、俺ら二人で謀反返しってものをやってみないか?」



 ◇ ◆ ◇



 カイルは遼太郎の提案に驚きながらも承諾し、であればと、弟であるトリステのプロフィールや家臣連中の人物相関図、謀反の詳細などを、順に説明してくれた。

 なるほどと頷いた遼太郎は、次に頭をひねる。


「このオーギュストン公爵を落とせば、その下についてる連中も根こそぎ陣営に組み込めるんじゃないか?」

「しかし、幻術をかけられているのだから」

「それがどれほどの効力かだよな。あと範囲も」

「国政に関わる重臣たちはほとんどがトリステの手の内にある」

「……となると、現状は(ひら)だけど能のあるやつを見定めて、出世させるしかないな。魔法だってかけられる人数に限度はあるだろう?」

「ああ……」


 なぜかカイルの反応は力なく、遼太郎はどうしたのだろうと、表情を窺った。すると、カイルは眉根をひそめ、なにやら思い悩んでいるような表情をしていた。


「どうしたんだよ……」

「いや、本気で謀反を起こすつもりなのかと」

「謀反……まあ、確かにそう言ったけど、言ってみれば鎮圧だろ。謀反してきたのは向こうのほうなんだから」

「……ああ」


 またも気のない返事をされたが、今度のカイルは口元に笑みをたたえていた。

 王位戴冠式は三カ月ほど先と、あまり時間はないのだが、仕事もなければ娯楽もないこんな場所では他にやるべきこともないので、遼太郎とカイルは王位奪還の計画を詰めることに集中できた。

 そして当然というべきか、馬があったからか、二カ月もの間、四六時中ともに過ごしていた二人は、最初に向け合っていた責任感と同情心が、徐々に友情めいたものへと変わっていった。


「よし。じゃあ、まずはデモーア男爵の説得だな。顔を合わせるためにも王都へ入らなきゃ始まらない。農奴の衣装を着て、それっぽく見せて……」

「王都へ入る際に門衛がいる」

「いても、身分証明書なんてものはないだろ? みすぼらしく見せるのは得意だ。なんせ毎日しなびてるからな」

「……しかし……上手くいくだろうか」

「交渉は任せておけ。ご機嫌とりも得意っちゃ得意だ」


 遼太郎のその言葉に、カイルはおかしげにふっと笑みをもらした。


「力強い……」

「……ん? なに?」

「いや、トードーが召喚されてよかったと思ってな……あ、トードーにとっては迷惑極まりないことだったと思うが……」

「それは俺じゃなくても、誰でも迷惑な話だ」

「ああ、そうだった。人を物のように言いなりにしようなんて、あいつの幻術と同じだな」

「そうだ。それは反省すべきだ」


 何度となくカイルはこのように反省の弁を口にし、遼太郎に謝罪を繰り返していた。

 確かにカイルのした行為は横暴以外のなにものでもなく、彼に対する第一印象は最悪だった。

 しかし、それ以外の面に関しては文句なし、それどころか、思慮深く、気遣いに溢れ、ここまで優しい人間がいるのかと驚くほど魅力的な人物であり、遼太郎はカイルに対して薄っすらと好意のようなもの、もしかしたら友情という枠を超えてしまうのではと恐れるくらいの想いを、抱き始めていた。


「……トードー」


 なにやら、吐息混じりのカイルの声を聞き、遼太郎はぎょっと肩を震わせた。

 そして目を合わせた瞬間、硬直した。

 遼太郎は会話に夢中で自覚できていなかったらしい。

 なんたることか、気づかぬうちにヒートが起き始めていたのだった。

 遼太郎は慌てて衣服をまさぐるも、今着ている服はやカイルから借りたこの世界の衣装である。スーツは自室として使っている部屋のチェストに入ったままだ。


「あー、ちょっと部屋に戻るわ」


 ヒートの周期は決まっているとはいえ、多忙で時の経過を忘れがちな遼太郎は、抑制剤を常に携帯していた。あの日もスーツの上着にピルケースを入れていたはずであり、それを取りに行こうとした。

 しかし、すぐ横に立つカイルの反応が気になり、ちらっと見やると、じっと遼太郎に潤んだ目を向けていた。

 オメガであれば誰でも、一度ならず向けられたことのある眼差しである。

 この世界にも第二の性という概念があるのかはわからない。あったとすれば王太子の身分であるカイルは、間違いなくアルファであろう。そう考えずとも、熱っぽく見つめるその目は、アルファであると察せられるものだった。

 

「トードー、なぜかわからないんだが……」


 熱っぽく潤み、息づかいも荒い。それはカイルだけでなく、遼太郎のほうも同じであった。

 危険な兆候である。

 遼太郎はなんとか自制するべく、カイルから視線を外した。

 

「あー、うん。えっと、俺が戻ってくればその妙な気分は収まるはずだから」

「……妙な気分?」


 ドアノブに触れようとした、その手をカイルによって掴まれた。


「これは、妙な気分ではない……」


 見てはいけないと思ったのに、遼太郎は抗いきれずに目を向けてしまった。

 彼がアルファかもしれないと気づいて見るその肢体は、ヒートを鎮めんとする自制をぐらつかせるほど、欲情をそそるものだった。


「……んっ」


 こればかりは仕方がない。目があった瞬間に、互いに互いを求めていることに気づいてしまった。

 気づいて、抑えることができようか。手遅れとは、こういうときを表す言葉だ。

 カイルに腕を引かれるまでもなく、遼太郎から彼の腕に飛び込み、そして唇を合わせた。

 唇だけではなく、互いに身体をきつく抱き、その手を這わせ、肌の間にある布を邪魔とばかりに引きちぎり……は、しなかったが、ボタンは吹き飛ばすほどの勢いで脱がせ、ベッドへなんて行くほどの余裕もなく、殺風景なそのダイニングの床のうえに重なりあった。


 何ヶ月、いや何年ぶりだろう。

 久々に味わう快楽は、遼太郎の身体だけでなく頭をも熱くさせ、冷静な思考を奪っていった。

 そして、はあと息を漏らし、うっとりと息を継ぎながら、カイルは動き始めた。

 

「召喚は間違いではなかった……」

 

 遼太郎を組み敷くカイルは、快楽を与え続けながら、振り絞るように言った。

 

「傾国も必至だ……溺れてしまう」


 傾国するほど溺れさせることのできる者。

 それは、カイルが召喚するに求めた相手の条件だ。

 遼太郎は条件を聞き、そんなのは不可能だと、実のところは思っていなかった。

 なぜなら自分であればそれが可能であると、自覚していたからだった。

 三十を過ぎた社畜のサラリーマン。特技もなく人の気を引くような目立つものはいっさい持っていない。しかし、その冴えなさとは裏腹に、尋常ではないほど濃厚なフェロモンを持ち、ひとたび身体を重ねれば溺れずにはいられないほどの快楽をもたらせる能力をもった、極上のオメガであった。


 しかし、その自身の特性に、遼太郎は辟易していた。

 睦み合ってしまえば気持ちよくはなる。フェロモンに反応するアルファはなぜか同性ばかりであったが、満足させてくれるし、快楽を得て不快に感じるはずがない。

 しかし、である。しなびた社畜でしかない遼太郎は、フェロモンを除く他のすべてはアルファ様のお眼鏡に適わず、ただセフレとしてヤり捨てられるだけだった。愛を向けられることはおろか、身体以外に興味すら抱かれず、快楽を味わったのちに襲うは惨めさばかりだった。

 そんな自身の特質を呪い、したらば気づかれてはならぬと隠し通すことに決めた。

 効果も強力なら高額でもある抑制剤を常用し、尋常ではないそのフェロモンを出さぬよう日々気をつけていた。

 誘惑して欲しいと頼まれたときも、自分であれば可能だとわかっていたし、老魔道士は失敗などしていなかったことも、知っていた。知っていたが、忌むほどのその性質を利用することは、遼太郎にとって、苦痛を伴うほど耐え難かったのである。


 それなのに、と快楽に沈められながら遼太郎は歯噛みした。

 よほど相性がいいらしく、数年ぶりであることを抜きしても、カイルとする行為はこれまで感じたことがないほど気持ちがいい。

 しかし、味わえば味わうほど、目の端からは涙がこぼれ落ちていく。

 カイルに対して抱いていた友情は、日々過ごすうちに好意と言ってもいいほどにまで募っていた。

 元の世界では味わえぬほど楽しい日々を送っていたというのに、それを与えてくれたカイルから、手のひらを返され、弟の元へいけと言われることが恐ろしい。

 身を持って遼太郎の価値を知ってしまったカイルは、これぞ望んでいたものだとばかりに利用するだろう。政治的な駆け引きなど回りくどい真似をせずとも済むのだから、当然のことである。

 この愉悦が終われば、その宣告が待っている。そう思うと、快楽より悲しみのほうが勝ってしまうのだった。


「はあっ……トードー……」


 満足したらしいカイルが、息を切らせながら隣にごろりと寝転んだ。

 悲しみに支配されていなければ、遼太郎はそんな彼をうっとりと見やりたかった。

 自身の満足だけでなく、遼太郎のことも気遣い、まるでそこに愛があるかのように優しく抱いてくれたカイルに、礼と、情を向けたかった。が、遼太郎はカイルに背を向けるように身体の向きを変えた。


「……もう一度、したいのだが」


 カイルは、そんな遼太郎をいまだ優しげな手つきで後ろからぎゅっと抱きしめた。

 遼太郎は肩を震わせながら唇を噛み、血を滲ませた。

 ヒート期間のオメガは飢え続けている。

 否はない。

 しかし、飢えることそれ自体が不快でたまらず、虚しさを同時に生む快楽は恐ろしく、この腕から逃げ出したかった。


「……いいよ」


 だとして、やはり抗うことなどできない。

 願いと正反対のことを口にした自分を呪いながらも、抱きしめてくれているカイルの手をはねのけられなかった。


「泣いてるのか?」


 首へ耳へとキスが点々と落とされていたところ、ふと止まったと思ったら、カイルに覗き込まれていた。


「ああ。久々だったからな」


 答えになるかわからぬ適当なことを言うと、後ろから「まさか」と、息を呑む声がした。

 

「……相手がいなかったのか?」

「……ああ、まあ」


 抱いた今ならまさかのことだろうけど、抱く前なら不思議ではなかったはずだ。


「……つまり、特定の相手は誰もいないってことなのか?」

「当然だろ。こんなおっさんを誰が相手にする?」

「三十二じゃ、俺と十も変わらない」

「……まじかよ」


 肌の張りや若々しい艶から、カイルはかなり年下であるはずだと思っていたが、数字として改めて聞くと、身分差だけでなく年の差も大きく、自分がさらにみすぼらしく思えてしまう。


「トードーがよければ、俺を受け入れて欲しい」

「いや、もう受け入れてんじゃん」

「……ありがとう」


 カイルは遼太郎の肩をそっと引き、身体の向きを変えさせ、正面から眼差しを向けた。


「……誰にも渡したくない。ずっと俺のそばにいて欲しい」


 その言葉のあと、まるで誓いのように軽くキスをされ、遼太郎は目を見開いた。

 驚いてカイルの両肩に手を起き、身体を離して問いかける。


「弟を誘惑して欲しいんじゃないのか?」


 遼太郎の驚愕の顔に、優しげな笑みを、カイルは返した。


「それは、トードー一人ではなく、われわれ二人でやる仕事だ」

「……さっき、召喚は間違ってなかったって言ってたじゃないか」

「ああ。しかし、弟におまえを……触れさせたくない」


 戸惑う遼太郎にカイルは再びキスをし、そして、それが開始の合図であると言わんばかりに、再び肌に指を這わせ始めた。その愛撫は、欲望に駆られた先ほどのような荒さはなく、愛おしむような手つきに変わっている。


「誰かを独占したいと思ったのは初めてだ」

「ああ、それは、フェロモンっていうもんが……」

「……ふぇろもん?」


 カイルから問いかけられ、遼太郎は理解してもらうべくなんとか説明してみた。すると、「それは関係ない」と答えて、カイルはおずおずと自身の想いを吐露し始めた。

 断罪され落ちぶれた自分を助けようとしてくれたのは遼太郎だけ、という気づきから始まり、好意を募らせていたこと。

 そして、身体を重ねたことで、それを愛と呼んでもいいのかもしれないと、気づいたこと。

 この世界にアルファやオメガなどの第二の性は存在しておらず、子を産めるのは女性のみ、つまり同性同士が結ばれるというのは、特殊な志向で、貴族の結婚相手としてはあり得ないという話をして、それがゆえに、カイルは遼太郎へ覚えた好意を、友情がゆえのものだと思い込んでいた。いや、思い込もうとしていたと、告げた。


「トードーといると幸福を感じるんだ。それは、身体を合わせるまえからのことで、受け入れてくれた今はより大きくなった」

「……大げさだな」

「本当だ。ずっとそばに居て欲しいというのも本気だ」


 遼太郎はカイルの言葉をそのまま受け入れたかった。しかし、これまで事を終えたあとに相手からガラリと態度を変えられた経験から、へたな期待を抱くまいと邪魔をして、自身を押さえつけていた。


「……カイルから離れたら、俺は他に行くあてなんてないしな」


 そのため、諦念に見えるのを隠すべく、へらへらと笑ってみせた。

 カイルは何かを言おうとしてそれを飲み込み、また口を開きかけて閉じるといったのを数度繰り返し、やがて決意を固めたのか、じっと口を引き締めたのち、遼太郎にじっと視線を据えた。

 

「謀反が成功したら生活の保障をすると言ったが、別の国へ発ったとしても約束は守るつもりだ。だが、できることなら俺のそばに居て欲しい。もし居てくれたら、俺は生涯おまえを守り抜く」


 まるでプロポーズのような言葉を放ったカイルは、真剣そのものと言った表情で、遼太郎の不安を吹き飛ばすごとくの温かさに満ちていた。

 

「……そこまで言うなら、死ぬまで俺の面倒を見ろよ」


 遼太郎は信じてみようと思った。

 カイルのことなら信じられると、思えた。

 その後、遼太郎はカイルに失望することはなかった。そのとき交わされた会話は、死が二人を分かつまで守られたのである。

 そして、前代未聞の同性婚を果たした王と王妃は、国民からの信任が厚いだけでなく人気も高く、その奇妙な出会いと謀反を鎮静させた顚末が物語としてアレンジされ、永く語り継がれたのだという。

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