憤怒の魔王
悲しいことに、世界は正しくない。
「お逃げください王女様……!」
後悔があるとすれば、そこだろう。
そもそも、彼女にとっての記憶はそこにしかない。彼女に、人として残された記憶の唯一はそこで、彼女の人間性は後悔からの怒りに尽きる。
「それじゃああなたは……!」
王女の部屋。外は騒がしい。
王室と、側近しか知らない隠し通路。
彼女はそこに、姉のように友のように親しかった従者に、押し込まれていた。
従者の顔が、事態の逼迫を示している。
「いいのです。あなたさえ、あなたが――――」
扉が蹴破られる。
王城に押し入る不届き者。従者は秘密の扉を背中で隠した。闖入者の刃に従者が貫かれる。
隠し通路で、その音だけを、耳にした。
遠くでは、轟々と炎が燃えている。王城が陥落した。どこからともなく、雄叫びが聞こえる。勝利の雄叫びだった。
彼女は涙を溜め、王城に、故郷に、家族に背を向けて、ただ走るしかできなかった。
反乱だった。民衆の反乱によって、国は陥落した。
親を、兄弟姉妹を、友を全て見捨てるのは生き恥に等しい。
あのとき、彼女も引き連れるべきだった。そうすればよかった。そうしてほしかった。
身分を捨て、矜持を捨て、人には言えない言いたくないことをいくつもしてきた。そうしないと、生きられなかったから。
――生き地獄。
なぜ、あのとき、一緒に死ななかったのだろう。恥に恥を重ねたこの命に、果たして意味はあるのだろうか。
処刑があると、どこからともなく噂が流れる。
隣国の彼らの口ぶりは、遠い国の話をしているかのようだ。
すぐそこのこと、そう時間も経過していない。この街だって、国だって、逃げ延びた人々は多数いる。目を瞑っているだけで……。
けれど……彼らのその遠いとは、物理的な距離のことを言っているのではなかった。
生き残りの王女には手が届きそうで、陥落した小国による影響はすくなからずあっただろうけれど、彼らの生活からすれば、遠い話なのだ。
政を司る、誰かが、どうにかするだろう。
悲しい、とは思わなかった。きっと、あの小国の民も、こうだったのだろう、と思っただけ。
彼女たち王室はいい国民だと思っていた。国民とはいい関係を築けていると。信頼し信頼されていると……。
しかしそうではなかった。彼らの笑顔は嘘だった。裏では反乱を企み、いとも容易く処刑をしてしまうほど、軽薄な関係性だったのだ。
処刑の日、彼女は祖国を訪れた。姿は隠してはいたけれど、たぶん。そこまで隠れる必要はなかっただろう。
誰も彼女を王女とは思えまい。彼女を王女と誰も見分けられないのは、彼女の姿があまりにもみすぼらしかったから。王女と名乗っても、首を捻ってしまうだろう。
街には戦火が残る。血の跡、死体。建物の崩壊、瓦礫の山。誰がこれを、建て直すのだろう。
国を示す旗は折れて地面に横たわっている。彼らは独自の旗を掲げていた。そこには、やりきった達成感の顔が満ち満ちている。
罪人……という言葉は使いたくないけれど、収容され、手錠首輪に繋がれ、死を悟った諦めの顔をした面々が、連れて来られる。
処刑台に、ひとりひとり、立たされる。
民衆は石を投げた。
――裏切り者
――売国奴
なんのことかさっぱりだ。処刑台に立たされた彼らも、覚えのない石だっただろう。
彼らは慌てふためくことはしなかった。それは王族としての意地なのか、それとももう彼らには言葉が通じないと諦めているからか。
しかし、いざ迫り来る死に、恐怖しないのは無理だろう。
半狂乱の様子で、彼ら彼女らは叫ぶ。王族の死を望み、王族の死に歓喜する。
隣で家族が、兄弟姉妹、母親や父親、息子に娘と死んでいく。民衆はそれに歓喜する。その歓喜の声は、まさに地獄だろう。
いいや。地獄のほうが生温い。世界の怨嗟を集めたとしても、ここには敵わない。
自分の家族が、友が、大切な人が死んでいくのを、それが喜ばれていく世界に、耐えられる人はいるだろうか。
美しかった女王の顔は火傷で爛れている。
豪快だった王は腕と足が切り落とされている。
自分を逃がしてくれた彼女は……生きていた。いや、そうではない。生かされていたのだ。今日、殺すために。
息も絶え絶え、すでに死んでいるような状態。彼女は迫り来る死にも反応する力がない。その瞳が、こちらを向いた。
彼女は、それでもう、安心したとでも言いたげに、安らかな顔をする。
首が落ちた。
涙した。
悔しくて、悲しくて、なぜこんな目に遭わなければならないのか不思議で仕方なかった。
たしかに、政策は万全ではなかったかもしれない。不平不満はあったのかもしれない。それでも、こんな仕打ちをされるほどのことは、していなかった。彼らのことを食い物にしたことも、声を弾圧することも無視することもなかった。
王も王女も皆、民のことを考えていたのだ。
世界は正しくない。こんなこと、正しくあって良いはずがない。世界は、間違っている。
「それなら、誰かが正さないといけない」
ふっ……と世界から色が消える。
先ほどまであった戦火も、こんなときでさえ澄んだ青空も、消える。
色だけではなく、音も。憎たらしい民衆の音も、火の爆ぜる音も、首が落ちる音も、消えた。
世界が止まる白黒の世界。へたり込む彼女の視界に、裸足が入った。
顔を上げると、黒いフードを被った小さな子が立っている。子どもと言えそうだ。
彼女は同情するでもなく、煽るでもなく、実に平坦な声音で言った。
「この世界は正しくない。なら、怒れ。正しくない世界に怒れ」
怒る。……怒る。
民衆に、世界に。
彼らは間違っていない。間違っているのはお前らだと。
「お前に、魔神の力を貸してやる。この世界を正せるだけの力を。だから、妾に、お前のいう正しい世界を見せてくれ」
彼女は、その手を取った。
「名は」
「……セシリア。……セシリア・セシリス」
「セシリア。
お前はこれから、魔神の神徒、魔王がひとり、憤怒のセシリアだ。正しくない世界に憤怒を轟かせろ」
世界に、色が戻る。音が戻る。
世界が、正しくないまま動き始めた。
「私の名前は……セシリア。……セシリア・セシリス」
セシリアはそうして、魔神の神徒、魔王になった。
そんなことがあったのも、もう五百年以上も前のことだ。
セシリアは人間だった頃の記憶も失っている。記憶もなければ人間らしい感情もほとんど消えている。ただし、怒りを抱えることになった根底の部分は、鮮明に思い出せる。
人として生を受け、人の身を捨て神徒に生まれ変わるまで、何を見、何を聞き、何を想ったのかは覚えていない。おそらく母親父親の顔を見ても何も揺れ動かないだろう。神徒になってからの数百年も、ところどころ記憶は抜け落ちている。
それでも、憤怒は鮮明に思い出せる。
それが、彼女の原動力であり本質であり、根源だから。
セシリアは魔神の神徒なのだから、セシリアという人間はすでに死んでいるのだから、覚えているはずがない。
しかし、彼女が魔神の力で暴虐の限りを尽くす魔王にならないようにするため、セシリアとしての根源は、残されているのだろう。
それは正しい。そうでなくては、セシリアはなにを基準に、なにを指針に、力を振るえばいいのかわからなくなってしまう。力にはある程度の縛りというものも必要だ。
「あのとき、殺せたのではないですか?」
死神が、囁いた。
あのときがどのときを指しているか、セシリアには身に覚えしかなかった。
「……私には、彼が正しくない存在のようには、見えません」
編入試験を受けて学園に途中入学するのは、珍しいものの目くじらを立てるほどではない。
バイル学園初等部で魔術学を担当するセシリア・セシリスのもとに、死神がやって来て告げたのは、その試験を受ける子を殺すことだった。
「普通の、子どもにしか」
だからセシリアは試験官を担当した。あの場で事故として殺してしまおうと思っていたからだ。
しかしながらセシリアは、躊躇した。
トドメを刺す瞬間、彼……クレイ・ストロルは、死への恐怖を前面に押し出していたから。とても、正しくない、脅威的な人物には思えなかったのだ。素質はあるかもしれないが、セシリアからすれば未熟でしかなかった。肉体的にも精神的にも。
「普通の、子ども……ですか」
なにが言いたいのかは、わかった。
「たしかに、普通ではないと思われます。学園生活を見ていても。……ですが、それは師匠の鍛え方にあると思います」
「ふぅむ」
藍色のボロボロのローブに隠れた死神は、白い骨の指先で顎を掻く。
「そもそも、私は魔神様の神徒。死神様の神徒ではありません。――――本当に、この命は魔神様によるもなのでしょうか」
セシリアは魔王だ。魔神から祝福を賜りし神徒だ。死神の命令を聞く道理はない。
彼女が死神の命に従っているのは、死神が、魔神の代弁者だと言ったからだ。彼女からの伝言だと。
セシリアは魔神と会ったことがない。あの日、魔王になったあの日以外、彼女の姿も声も聞いたことがない。ほかの魔王もそうらしい。
不意に力を与えて以降、信頼されているのかどうなのか、誰も目にしたことがないらしい。
「言ったでしょう。彼女は力を蓄えているのです」
「……なんのために」
「来たるべき時のため、でしょうか」
それは答えになっていない。
「それとも、私は信頼に値しないでしょうか」
そう言われると、否定はできない。もしも彼の言っていることが本当だったら、魔神に顔向けができない。
「たしかに、いまの彼は弱い」
クレイ・ストロルの件に話は戻った。
「ですが、だからこそ、チャンスなのです。未来に彼が弱いという保証はないでしょう。未来で彼が、世界にとって脅威的な強さになったその時に手を打つのでは、遅いのですよ」
それも正しい。
「もちろん、強制はしません。あなたが拒否するのであれば、私のやり方で行うまでです」
「あなたのやり方は穏便には思えません」
「禍根を断てるのなら、大国がひとつ滅びても……歴史的にはままあることです。正しさを取って自国の民を皆殺しにしたあなたなら、わかるのでは?」
つまり、死神はバイル王都に攻め入るのもひとつの方法だと考えている。
「それは人神様を敵にするのでは?」
「逆ですよ」
逆……。
どういうことだろう。
セシリアは答えた。
「無辜の民まで害するのは正しいとは思えません」
「では?」
「……彼を学園から追い出します。すこし、お時間をください」
「成功することを願ってます」
セシリアはクレイに対して、アイラに対して快く思っていない生徒を使った。ニーナの惨状を目にしたクレイを暴走させた。
あそこで人死にが出ることが狙いだった。だが残念なことに誰も死しなかったため、クレイは退学という処罰で済んだ。
クレイ・ストロルはアイザ・ハリグエと共にバイル王都を出た。いくつかの街を村を抜け、サスマン帝国との国境に差し掛かった。
その辺りには民家もない。余計な被害は出さずに済むだろう。
「――お前、神徒だろ。……どこのだか知らないが」
あと一歩で、貫けた。
正しくない者を弟子にして、正しさの前に立ちはだかる最強と名高い女性。
彼女の罪は正しくないことを看過したこと。見過ごしたこと。守ったこと。
両肩に穴を空けたセシリア。出血はない。あまりの高熱に、傷口が焼かれているのだ。
「それと……お前。いったい何なんだ」
アイザは視線をそれに向けた。
「お前も、こいつと同じ神徒なのか? ……いや、だったらなぜ仲間割れをしてる」
禍々しいほどの魔力。すべてが霞むほどの魔力。世界をも飲み込める魔力。
あれは、何なんだ。セシリアにもわからない。
最初、死神の神徒かと思った。セシリアだけではアイザには勝てないと、死神が神徒を送ってきたのかと。
明らかにあれは、クレイ・ストロルを狙っていた。彼を守る青年を襲ったのだ。
だから、二対一なら、この最強も出し抜けると思った。
事実、あれは最後まで、逃げるクレイと青年の背を狙っていたのだから。
それを阻止しようとするアイザを、セシリアは引き受けた。そこで彼女を落とせれば、あとはクレイと取るに足らない足だけの青年。軽い仕事。
「なんでクレイを狙うのに私には殺意を向けない。私を守った。舐めてんのかお前」
魔神と似た雰囲気を持つあれは、アイザを殺そうとするセシリアの肩を熱線で貫いた。
そう。あの魔法はアイザのものではない。
あれがやったのだ。アイザを、守ったのだ。
「…………」
あれの出方がわからない。
目的も正体も不明。となると、誰も動けない。
セシリアがまたアイザへレイピアを構えれば、今度は眉間を貫かれるかもしれない。
あれの魔力は膨大だというのに、魔法の発動には気付けないほど繊細で速い。死んだことにすら、セシリアは気付けないかもしれないのだ。
「…………」
クレイが逃げていった先を、あれは一度見やった。そして、その黒剣で空間を裂くようにする。割れ目へ身を投じれば、姿は消えた。膨大な魔力も一瞬にして消えた。
「……どうやら、形勢逆転のようですね」
セシリアは、己の死を悟った。
「……また新手か。今度はちゃんとしゃべれるといいんだが……」
あれと入れ替わるように、もうひとり、この場に現れた。
彼女の魔力はやはり人外であったが、あれのあとだとどうしても見劣りする。
「アイザさん、お下がりを。彼女の相手はこの私が」
「美味しいところだけ持っていくのか」
「あなたは倒してはいけません。お分かりでしょう?」
その修道服に身を包んだ、豊満なシスター。目を覆った彼女もまた、神徒だった。
「こんなポンポンと、神徒って会えるもんだったか?」
教師をやっているセシリアが稀有なだけ。神徒とは神徒。それ以外にはなり得ない。
「ま、やってくれるってんならありがたい。私は」
「そこに居てください。お話があります」
おそらく、あれの対応をしようとでも思っているのだろう。彼のもとに一刻も早く行きたいに違いない。
しかし、心配することはない。
セシリアにはわかる。セシリアだからこそ、わかる。
「心配せずとも、あれはクレイさんのもとに行ったのではないですよ」
あれの行き先は、クレイではない。
あれほどの強者でありながらこのタイミングを狙ったのは、全力を出さないのは、セシリアと同じ。無用に他者を巻き込みたくないから。
セシリアは数多くの者を手にかけてきたし、アイザのことだって殺そうと思った。それは必要だったからに過ぎない。もしもクレイのことを殺す。それだけを目的にしているのであれば、家族を人質にするのでも学園で奇襲するのでもよかった。
「あいつのことを知ってる口ぶりだな」
「……ふふ。残念ながら、私も知りません。知っていたら、こんな傷は受けていませんから」
納得してくれたようだ。
「いろいろとお尋ねしたいことがあるので、生け捕りにという命です。降伏してくださると嬉しいのですけれど……」
万全な盲目シスターと、肩も碌に上がらないセシリア。
「そうはいかないようですね」
レイピアを、力強く握った。
「はぁ…………はぁ…………」
血だらけだ。
骨は折れた。内臓も潰された。
呼吸は勝手に荒くなる。呼吸しなければ喉が詰まるというのに、すれば身体の中でトゲが開くかのような激痛に遭う。
どうしろというのだ。
視界が赤い。思考が働かない。全身が重い。
セシリアが辿り着いたのは、秘境だった。
こんな時でも、魔神は現れなかった。
死神には端から期待していない。おそらく、利用されたのだろう。魔王が死んだ。神徒が死んだ。神徒とは神の手足だ。
神徒を殺す行為は、神への反逆、下克上と捉えられる。
これで、死神は動きやすくなるのだろう。
なにもしなければ、バイル王国が消える。無辜の民が死ぬ。クレイを殺せれば本懐が遂げられ、もしも失敗しセシリアが死のうとも、死神の行動の枷がなくなるだけ。
セシリアは、こうするしかなかった。こうするしか……。
「……なぜ」
セシリアは、秘境にもたれ掛かりながら、思う。
――――なぜ、あの時、私の下に姿を現したのは、人神ではなかったのだろう……。




