正義の従者
覚えていない……あのあとに、俺は――――。
父から、再三言われていた。口を酸っぱく、耳にタコができるほど、言われていた。
父には姉がいる。彼からすれば、伯母にあたる存在だ。しかし、伯父もいるようだ。父の兄、伯母の兄。”ようだ”という表現を用いるのだから、彼には直接的な面識がなかった。死んでいるわけではない。単なる不仲らしい。
子どもの頃、年端もいかぬ自分たちと母親を捨てて、ひとりで家を出て行ったらしい。
「あんな男にはならない」
彼の父の口癖はいつもそう。兄のように、肉親を捨てるようにはなりたくないらしい。
レイジ・ストロル。彼は父に愛されていないとは思わなかった。むしろ、愛され、恵まれた境遇だった。そのことも、自覚していた。
ただし、父が兄へ向ける恨み辛みが、幼いレイジに積もるのも、自然なことだった。
一代で富を築いた父。富豪とまではいかないが貴族と肩を並べられるまでの家で育ったレイジは、家に何十人と使用人がいるのは当たり前のことだった。学園に入ることも、そのために家庭教師をつけてもらうことも、自然なことだった。
受験は順調に進んだ。程度の低さを嘆くほどだった。
「学をつけろ、力をつけろ」
父の言葉に感謝した。
頑張るのは特に苦ではなかった。
明確に、成長として結果が出てくれるから。
そんな中、学園で、ひとりの名を耳にする。
「うはあー……やっぱいいなあ、アイラ先輩」
学友が窓の外に身を預けながら、蕩けたような声をあげる。レイジは読んでいた本を閉じた。
視線は学友を辿る。一際目立つ動きと見た目をした女子がいた。確認を取らずとも、あれがアイラという女子生徒で、年上であろうことはわかった。
「そだ。こんど紹介してくれよ、レイジ」
「はあ?」
たしかに綺麗だ。見た目も、剣筋も。だが、それだけ。
レイジが抱いた感想は、みっともない、だ。なぜそう思ったのかは、理解しがたいが。
見切りをつけたレイジは本に挟んでいた指を起こし、続きに目を文字で埋める。
「なんでぼくがそんなことをしないといけない。赤の他人だぞ」
レイジの家は貴族ではない。
彼女のことを貴族だとは思わなかった。女があそこまで必死になって剣を振るう理由がない。貴族がここで積むのは教養。本格的に力を得ようとはしていないし、初等部、中等部、高等部という通過儀礼を通ったという証明のため、ほとんどの貴族は通っている。
貴族のご令嬢が剣など握って男と一戦交えていれば、従者か家の者にきつく咎められる。
だからみっともないと思ったのか。と合点がいった。
アイラ先輩とやらは、ちょっとばかし筋がいい庶民なのだろう。レイジとそう境遇は違わないのかもしれない。
貴族ならその名前で庶民を強引に引き込むこともできるだろうが、レイジという名もストロルという名も、そのどちらにも、学園では大した力は発揮しないのだ。あくまでストロルというのは貴族と肩を並べているだけ。貴族ではない。
彼女が目を惹くほどの力は、レイジにはない。
「だって、あれお前の姉貴なんだろ?」
そんなレイジの思考は、一瞬にして泡になった。
「……は?」
「いろんなやつが言ってるぜ。お前のこと、アイラ先輩の弟だって見てる人もけっこういるぞ」
「ちょっ、……待てよ」
「お前、自分のことあんましゃべねぇからな。ま、家のこと訊くのは野暮だけどよ」
「いやだから待てって」
困惑するレイジは学友の肩を掴む。
「ど、どうした?」
向こうも驚いているようだ。レイジも、まだ冷静になっていない。ゆっくり深呼吸する。
「なんでぼくと、あの……アイラ先輩? が、姉弟だってことになってるんだ」
「そりゃあだって……」
その口から発せられる言葉は、なるほどたしかに。ふたりの関係性を姉弟だと思うに充分。
アイラの姓は、レイジと同じ、ストロルだった。自分ではそうは思わなかったが、顔もどことなく似ているらしい。
伯母の息子娘ならば顔を見たことがあるし、名前も訊いたことがある。初等部に通わせるという話は訊いたことがない。アイラは、父の兄の娘なのだ。
「アイラ先輩」
「なに?」
親しみやすい先輩といった感じだった。
「お父様の名前は、グリッドですか」
単刀直入に尋ねる。
彼女の顔は曇った。突然、面識もない後輩に父の名前を当てられれば、その反応も納得だ。
「そうだけど……なに?」
訝るような目つきとなる。さきほどの剣戟で垣間見た鋭さがあった。
「いえ。ありがとうございました」
自分の名前を名乗ろうかと思った。従兄弟であると。だが、父はきっとそれを望まない。
遠くから、レイジはアイラを観察することが多くなった。学友にはいろいろ突かれたが、そんなんじゃないと躱しておいた。
観察の結果、彼女は父の言うような人には感じられなかった。父が嫌悪していたのは兄なので、その娘であるアイラの人間性が該当しないのは、当然と言えば当然だ。
……もしも。
もしもアイラが、父の言うように、血も涙もない人間のくずだったなら、どうしていただろう。
父の幼少期に苦い記憶を与え、子どもを持ったいまでさえ憎悪を滾らせるほどまでの人間だったなら……レイジは。親の仇とでも認識していただろうか。
レイジは、アイラに、なにを期待していたのだろう。
その二年後。奇妙な時期に、一年生がひとり増えることになった。
入学式はとうに過ぎている。編入試験だ。編入試験自体はそう珍しいことではない。事情があって遅れて入学というのは多々ある。ただ、その合格率は低い。だから話題になった。
しかも、学園では優等生であり、上級生にも打ち勝てるほどの秀才アイラの弟というではないか。皆が、注目した。レイジもそう。彼らと同じ理由はもちろん、従兄弟の人間性を見定めるためでもあった。
数日の観察で、結論は出た。生意気、だ。
常にひとりでいる。
たしかに魔術、剣術、あらゆる学術において高水準の成績を叩き出している。学園は縦社会で、一年生に弟妹を持つやつらから話は筒抜けだ。
レイジの従兄弟、クレイ・ストロルもまた、天才であった。だが、アイラとは違った。人間性の部分で、圧倒的なまでに違っていた。孤高を履き違えているとでも言おうか。クレイは群れることをせず、馴染もうともせず、実力を鼻にかけて他者を見下しているらしい。
自分はみんなより難度の高い編入試験を合格したんだという自負か。見下すために初等部へ来たのか。
群れろとは言わないが、馴染もうと努力する必要はある。人間関係を構築しないのであれば、学園に来る必要はない。
勉強は基本、どこでもできる。学園では空気感、人とのコミュニケーションを学ぶためでもあるのだ。
貴族ではない庶民が、頭でも身体でも技術でも、貴族を圧倒する。
やってはいけないことではない。しかし暗黙の了解はある。やりようもある。アイラはその辺りを、上手くやっている。人間関係を構築し、周囲に認められ、秀才という評価を得たからこそ、実力を発揮しても正当な評価が下されている。
だがクレイのやっていることは、子どもたちの砂場に割り込んで、自分のほうが上手なんだと砂を占領しているようなもの。
クレイに対する悪感情は、意識せずとも耳に入ってきた。下級生のくせに生意気だという声もある。奇しくもレイジと同じ評価だ。そこには、アイラに対する曲がった感情もあっただろう。アイラに勝てないから、その弟のクレイに……という感情があったことは、否定できない。
父の言う通り、最低な人間から産まれたやつもまた、どこか欠陥があるのだ。
そこから先、レイジの記憶はない。いつも、ここから先を思い出そうとすると、ぷつりと途切れてしまう。誰かに、何かを、言われた気がするのだが……。
あれは……誰だ……?
思い出せない。自分が何をしたのか。しかし、してはいけないことをしたような嫌な感覚だけが、腹の底に溜まっている。
「お世話になりました」
それは……セシリア先生だった。魔術学の担当を受け持つ、セシリア・セシリス。儚げで、いまにも散ってしまいそうで、生徒のみならず教師、保護者からも絶大な人気を誇る彼女が、教室に入ってくると開口一番、そう言った。
どういうことかわからず、クラスメイトにどよめきが走る。皆が顔を合わせた。
セシリア先生はそんなのお構いなしと、傍らに漂う本に筆を走らせた。
「これで皆さんとは、お別れです」
ぷつりと途切れる。しかしレイジにとってそれは、頭痛の解消だった。
レイジは思い出した。
自分がなにをしでかしたのか。
一年生に、獣人の女の子がいた。クレイが唯一仲良くしているという女の子だった。
クレイにとって、彼女は特別な存在なのだろう。レイジは、上級生を言葉巧みに騙して彼女を虐げるように誘導した。アイラに対して悔しさや怒りを抱えていたから、彼女に対する当てつけと言えばあっさり行動に移った。
父の憎悪を肩代わりでもしてやるつもりだったのか。優しい父にあんな顔を、あんな言葉を言わせる伯父。それと同じ性格の従兄弟を傷つけるつもりだったのか。
いま思うと、筋が違うのはわかっている。
そしてなぜこんな大事なことを忘れていたのか。それをやっと、思い出した。
レイジもまた、クレイに対する劣等感や父から受け継いだ憎悪を利用されたのだ。……あの、セシリアという女に。
言い訳ではあるが、事実だ。先ほどの言葉と、本に筆を走らせる行為は、レイジにとって一度目ではなかったのだ。
「ぼくに……なにをした!?」
教室を飛び出し、レイジは授業中にもかかわらず悠々と廊下を歩くセシリアを呼び止めた。
彼女はゆっくりとふり返る。レイジの膨れ上がった感情を目の当たりにしても、セシリアには何の機微もない。
「……私のことを、まだ……」
「質問に答えろ……!」
セシリアは僅かに口角をあげる。
「ぼくに、なにをした……」
セシリアは、レイジの言葉をなぞるようにした。
背中をなぞられたようで、不快感が込み上げる。
詰め寄ろうと足を一歩踏み出すと、
「怒りに身を任せ、踏み出した足は途端に、鉛のように重くなりました」
傍らに揺蕩う本の上、筆が走る。レイジの足は、踏み出すともう、上がらなかった。
「なんっ……だこれ……」
まるで貼りついてしまったかのような、この廊下と一体化してしまったかのような。ビクともしない。
「レイジ・ストロルさん。大丈夫です。あなたに危害を加えはしません。それは正しくありませんから」
「なら……なら、クレイなら正しいっていうのか……!」
なら、自分たちを使って、獣人の子を、クレイをここから追い出すように仕向けたのは、正しいことだでも言いたいのか。
「おやすみなさい」
最後に見たのは、彼女の安らかな微笑み。レイジはいままでいったい何に怒っていたのだったか。
その柔らかな声はレイジの心を優しく撫でる。安心感に包み込まれ、抗えない眠気に襲われた。
「……あなたのお父様の苦労は、その兄がお父様を、伯母様を、お祖母様を捨てたからなのですよ」
頭痛が解消され、押し込められていた記憶が蘇る。それもまた、あの柔らかな声。
「すると、沸々と怒りが熱を帯びました」
その傍らにはやはり本が揺蕩っている。筆が走る。
「なぜ父は苦労したのに。伯父は父を、家族を捨てたというのに。未だ憎悪の呪縛から逃れられていないというのに。なぜ娘と息子を持っているのか」
その柔らかな声は、すべてが正しく聞こえる。
「父を見捨てて逃げた伯父が幸せになっているのは不条理だ……伯父が順風満帆な家庭を築き上げている光景が脳裏に過ぎると、憤慨しました」
筆が走る。
レイジは突き動かされる。
そう。
父は苦労した。伯父が逃げたから、父はひとりで背負うことになった。それでも頑張って、上り詰めた。
なら、伯父はもっと苦労していないといけない。そして、上り詰めてはいけない。そうでないと、父が惨めだ。父は捨てられたのが正しいと言われているかのようだ。
だから、否定しないといけない。
伯父の息子のクレイのほうが、父の息子であるレイジよりも立派であるという現実は、否定しないといけない。
「……きみ。……きみ! ……大丈夫かい?」
肩を揺すられる。
どうやら、レイジは廊下で眠っていたようだ。
「……あいつは!?」
「あいつ……?」
「セシリアだよ!」
「……セシリア?」
レイジは、思い出す。セシリアの言葉。お世話になりました。お別れです。
「誰だい? それ」
学園の誰も、セシリア・セシリスという人物のことは覚えていなかった。
「……ふはあ」
眠い。
ぐっすり眠ってからの起床のはずなのに、なんでこんなに眠い。
「ぐおー……ふぅぅ……んごー……はぁぁ……」
テントで眠るアイザ。俺の布団も奪っているアイザ。奪った上で蹴っ飛ばしているアイザ。たぶん、このせいで睡眠妨害を受けていたのだろう。
まあ、テント内とはいえ、下は地面。野営であることには変わりないから、元々快眠は期待していない。
捲れた腹を仕舞い、布団もかけ直してあげて、俺は起こさないようにテントを出た。
「んんーーっ! ……はぁ」
伸びをする。未来の高身長になった俺は、感謝するといい。
日の出はまだだった。バイル王都を出て、一週間。いまや俺たちは、バイル王国も出ようとしている。ここはもう国境だ。今日には隣国のサスマン帝国に入る。
俺はニーナと約束した。グルモシスに会いに行く、と。ただ、情勢はあまりよくないらしい。獣人は比較的温厚で穏便なのだが、昨今の情勢的に、獣人は人間をよく思っておらず、グルモシスでは突然襲いかかられても文句が言えないらしい。
そのため、まず俺は自分の身を守れるぐらいの実力をつけろとお達しを受けた。グルモシスは国外どころか他人種の国。獣人の国に行く前に、他国に行くという経験をするべきだとアイザから言われ、バイル王都以外の街を訪れ、バイル王国以外の国を目指している。
目下の目的地は、バイル王国と共に語られる三大国のひとつ、サスマン帝国だ。
一週間ほど、旅人として俺は馬と馬車、それからアイザだけで行軍している。
尿意を催し、俺はテントから離れた。排尿の音でアイザを起こすとか、俺も嫌だけどたぶんアイザも寝覚めとしては最悪だろう。拳骨か、黒焦げアフロになるのが目に見えている。
充分に距離を取り、適当な木に、成長を促すため水を地面にかけてあげる。これは自然を思いやる慈善事業で、決して立ちションなんて下品な行為ではないんだぞ?
「うぅ……!」
身震いする。
ったく、なんでこう、朝のションベンって身体が冷えるんだろ。おしっこに体温が持って行かれてるのか。
単純に布団から出て外気に触れ、寒暖差に身体が冷えるってことなんだと思うんけど……。……俺、布団被ってなかったな、どこかの誰かのおかげで。
などなど、どうでもいいしまとまりもない思考を、湯気を見ながらする。
「……?」
気のせいだろうか。誰かに見られている……気がした。
「……はっ!」
もしも見られていたら大変だ。俺の俺が丸見えだ。被ってるところまで丸見えだ。
まあ、相手が美人サキュバスお姉さんとかだったら? 剥くところまでやってくれてもいいんだけど?
「そんな都合がいいはずもなく」
俺は降ろしたズボンとパンツを上げようと、膝を曲げた。すると、頭上を何かが掠めた。
「……?」
また気のせいだったのだろうか。それにしてははっきりしてたなあ……。そう顔を上げると、はっきりと、ミシミシと音がした。かなり近い。目の前の木からの音だった。
木は、ちょうど俺の頭がある高さに、切れ目が入っていた。そこを根元にして、木が倒れる。俺に向かって。
「あべっ!」
もちろん日本人の名字を言ったのではない。下げたままのズボンが足に絡まって、転んだのだ。
地面を揺るがす振動と音。地面に大の字になった俺の足元には、巨木が寝転んでいる。もしも俺があのままだったら、下敷きになっていた。
間一髪。
「……危ないだろ!」
周囲に叫んでみる。
あれは、偶然ではない。人為的行為だ。
木こりが斧で切り込みを入れてもああはならないだろうというほど、綺麗な切断だった。
「死ぬところだったぞ!」
というか、もしも俺がズボンを上げようと膝を曲げていなかったら、木ではなく俺の首が切断されていたのでは?
気付いてしまった。世の中、気付かないほうがいいこともある。だらだらと脇が湿ってきた。血の気が引く。
風が吹いた。叫んだものの、人影は見当たらない。
がさりとした音は、風の靡きではなかった。
俺は警戒しつつ、そちらへ注意を向ける。後ろにはテントがあって、移動するための道として砂利道がある。その左右、つまりいま俺がいる場所は、広大な草原だ。
不均等に木は立っている。太さも長さも、葉の数も違っているけど、木はいくつも立っている。その内のひとつから、揺れる人影があった。
「可哀想に。木が一本、死んでしまいました」
「……いや、俺が死ぬところだったんですけどね? どういうことです? セシリア先生?」
風に掻き消えそうなほどの儚げな声とそれに違わない見た目。距離があったけど、俺はその人影がセシリア先生だとすぐにわかった。
授業で声は何度も聞いたし、後ろ姿、輪郭、雰囲気も学園で何度も経験している。俺がセシリア先生ほどの美人を間違えるはずもない。
ただし、その雰囲気はちょっとばかり、いつもと違っているような気はした。
「あなたを狙ったということですよ」
「……ん?」
ちょいと待て。あれ、おかしいぞ。うん?
「俺の耳がおかしいんでしょうか。まるで、セシリア先生が俺を殺そうとしている。……そんな風に聞こえたんですが」
「だから、そう言っているのですよ」
「うん……?」
意味が分からない。なぜ? あれか、好きすぎてってやつか。気持ちが変わる前に、このまま永遠に、殺して私だけのものよー! ってやつ。ヤンデレ。はいはい。
「べつに俺も嫌いじゃないですけど、こう、もっと生きてイチャイチャしたいなーとか思ったり?」
「……そう、自分の震えを誤魔化すように冗談めかすも、命の危機は身を凍らせるだけでした」
「……っ」
なんだ。……なんだなんだなんだ!?
息ができない。
痛い、痛い。いや、冷たい?
足の指が、手の指が、息が……感覚がなくなる。冷たいという感覚すら、消えてしまった。
全身が震える。しかしまるで自分の身体じゃないみたいだ。視界がぼやける。涙が止まらない。止められない。
セシリア先生からの殺気をきちんと受け止めてしまった。どうしようもないほどに、俺は自覚してしまう。
俺は、殺されるのだ。
悠々とセシリア先生は草原を歩く。その一歩が俺の命のタイムリミット。
そのとき、強い突風が俺を攫った。
「大丈夫か!?」
抱きかかえられていた。それは、ドゥリュウさんだった。
「ど、ど、どうして……」
「いい。黙ってろ」
どうしてここにいるんだろう。どうして、どうして……俺は、俺は……生きてる? まだ、生きてる?
思考がまとまらない。きっと顔面蒼白だっただろう。俺は雪から掘り起こされたように身震いしていた。
俺はドゥリュウさんに抱きかかえられていた。その前には、俺たちを守るようにアイザが立ちはだかっている。
感覚がない。氷になってしまったかのように、全てが硬く重い。それなのにこの心臓だけは、鼓動を打っている。鼓膜が直接鳴っているようだ。
「……」
無言にアイザが、一瞥する。何も言わず、目だけだったが、それでも心の底から安心できるほどの温かさがあった。
俺は徐々に、体温と感覚を取り戻していく。
アイザは、セシリア先生? いまとはなってはどう呼べば良いのかわからないが、彼女から、視線を逸らさなかった。
「ドゥリュウ。クレイを連れていけ」
ドゥリュウさんはアイザからの指示に、一も二もない。セシリアに警戒しつつ、じりっと靴を滑らせ、反転。
「世界はいつも、正しさを頑なに認めようとはしない」
俺はドゥリュウさんの胸の中で、セシリアをふり返った。
「既視感に足が止まってしまう。また、自分は逃げるのだ見捨てるのだ。……と」
何か変なことを言っていると思ったが、彼女は言っているだけではなかった。
セシリアの言葉に呼応するがごとく、彼女の側に控える本へ、筆が自ら走る。
書き終え、言い終えると、ドゥリュウさんは足を止めた。その顔は硬い。迷い、葛藤が垣間見えた。
「ドゥ、ドゥリュウさん……」
「わかってる。けど……!」
膝が笑っていた。
「その本は面倒そうだな」
アイザは大蛇のような炎を生み出した。セシリアとの距離はその体躯が瞬時に詰めてくれる。
しかし、彼女は本の中からレイピアを抜くと、それで大蛇の頭を分断する。
「ちっ」
「舌打ちは焦燥感があったから。このままではまずいと嫌な予感は、確信と言っても間違いではないでしょう」
「ほう? なるほど面白い。これがお前の魔法か」
アイザの横顔には汗が流れたが、それは身体だけの反応に思えた。アイザはセシリアの魔法……あの本の力を冷静に分析している。
「ドゥリュウ。なにやってる。もう動けるだろ」
「で、でも……!」
ドゥリュウさんの膝はもう、笑っていなかった。身体は動くようだ。だが、ドゥリュウさん自身が、ここから離れることをよしとしていなかった。
「お、俺は……」
まだ、葛藤に打ち勝っていなかったのだろう。
ドゥリュウさんの過去になにがあったのかは知らないが、俺も、似たような葛藤はあった。
一度、俺はアイザを見捨てて逃げた。あの人外の相手をするアイザに、応援を呼ぶという正統な理由ではあったが、置いてひとりだけ逃げた。
あのときの恐怖と焦りは、もう、味わいたくない。
「アイザを置いていけるわけない」
俺が言うと、ドゥリュウさんは葛藤に打ち勝った。
「そうじゃないお前ら。……ちっ。来たか」
どこからともなく、言うなれば空間から、やつは現れた。
黒剣は刀身を不気味に光らせる。そこには、赤い紋様が嗤っていた。
やつがそれを振り払うと、そこに開かれていた空間の裂け目らしき割れ目は閉じた
肌は灰の色をしている。目は、人間の白目に当たる部分が黒に染まり、瞳は燻んだ血の色をしている。その白髪は本来の色ではなさそうだ。
左耳につけたイヤリング。ペンデュラムの本来の輝きは失われ、神秘性は欠片もない。首に巻いたクリーム色のマフラーはいったいどれだけの命を吸ってきたのか、赤黒くなっている。黒いマントの破片はやつが落としていった人間性に思えた。
得体の知れない人外の化け物。また、現れた。
セシリアと対面しても勇敢に動いたドゥリュウさんが、やつを前にしては一歩おののいた。しかし無理はない。
こいつは、なんというか強い弱いという次元ではないのだ。魂が拒否する。本能が、あらゆる手段を放棄させるのだ。
「どうやら嫌な予感は的中したようですね。アイザさん」
「あれは何だ。お前らに飼い慣らせるもんじゃない」
「ふふふ。その質問、答えられればよかったのですが」
「……」
直線上に、俺たちは立っている。
セシリアから俺たちを庇うようにしてアイザが立ちはだかっているのだが、やつは反対側。つまり俺たちの逃げ場を潰すようにして現れた。
「……お前もあいつは知らないのか」
「利害は一致しているようです」
やつは動いた。
アイザはふり返り、やつの相手をしようとする。しかしそれはセシリアに背を向ける行為。
「初めて、太刀打ちできない相手を目の当たりにしました。どんな魔法も通じない。つい、判断が遅れてしまったのです」
「ぐぁっ……!」
ドゥリュウさんは回避行動を取った。しかしやつの剣からは完全に避けられず、背中に傷をくらう。
「ドゥリュウさん……!」
地面を転がるドゥリュウさん。俺は彼の腕から脱した。
守ってくれる人がいなくなった。俺はすでにやつの影にすっぽり収まっている。
天高く掲げた剣。やつの瞳は、俺の命を奪えると高揚感で、人間らしさを灯していた。
「…………」
しかし、俺は生きていた。遠くで、芝に物が落ちる音がする。
やつの剣だった。
アイザが遅れて、魔法を放ってくれたのだ。
「……くそっ。あいつの面倒だな」
気付くと、俺はアイザの足元にいた。一瞬、視界がすべて炎に包まれたので、前にカーレを呼び戻したあの魔法だろう。
「おいドゥリュウ。立てるか。立てるだろ。立て」
「……はい」
地面に顔面から倒れて、背中に浅くない傷を残すドゥリュウさんへ、アイザはいつも通り厳しい言葉を投げる。
「いいか。私の魔法に合わせて動け。ふり返るな。なにがあっても走れ」
「……俺たち邪魔ですか」
「ああ。……あの女だけならいいんだがな。あれは無理だ。お前ら邪魔」
「……っすよね」
状況が変わったのだ。
アイザは一対一のときですら、応援を呼ぶように言った。
そこにセシリアという新たな敵も混じったのだから、誰かを守ることに頭も魔力も使いたくないだろう。
「……くそっ」
ドゥリュウさんは、俺よりもよっぽど悔しいに違いない。愛する人を置いて行くのだから。
「……死なないでよ、アイザ」
「ふっ。誰に言ってる」
アイザは杖を呼んだ。側で停滞している。その宝玉は魔力でも溜めているのか、輝きを宿しているように見えた。
「いまだ」
地面に突っ伏していたドゥリュウさんは、その合図にその体勢からは考えられない初速を見せた。
俺は再びドゥリュウさんの腕の中、胸の中。
やつも、ドゥリュウさんの走りに合わせて飛び出す。やつのほうが断然速く、すでに間合いだった。しかし、ドゥリュウさんは走る。ふり返らない。走り続ける。
振りかぶった剣。やつの瞳は、後ろだった。そこには、小鳥が舞っている。金色の炎の身体を持った、小鳥。
急速に食らい付く小鳥を、やつは振りかぶった剣で斬り伏せた。
その間、アイザはやつにリソースを割いたため、セシリアに無防備となる。セシリアのレイピアはいままさにアイザの胸を貫かんとしていた。
しかしアイザだ。最強だ。対処していないはずがなかった。
セシリアの背後、空中から、熱源がふたつ出現する。それは彼女の両肩を射抜かんと熱線になっていた。
これらはすべて、同時に起こっていることだった。
アイザの小鳥が斬り伏せられ、セシリアの両肩に小さな穴が空く。ドゥリュウさんは、駆け抜けた。
「大丈夫だ。アイザさんなら……大丈夫」
それは自分に言い聞かせているようで、己の無力さを呪っているようで、間近にある顔は切迫感がこれ以上ないほどに相応しかった。
たぶん、アイザの邪魔というのは、俺のことだったのだろう。ドゥリュウさんだけならまだ戦力になったに違いない。
ドゥリュウさんの切迫感、無力を呪う行為は、己の力量とセシリア、それからやつの力量を正確に見ぬけているからこそのものだ。俺にはそれがなかった。
何もできない。しないことが正解。
何をされたのか、何が起こったのか、理解できない。
無力。足手まとい。お荷物。……その辺りの言葉は、どれも俺に似合っていた。
遠くから、膨大な魔力と立ち上る炎を見た。
国境を、越えた。




