制御できない、感情
指を眺め、先ほどの光景を思い返す。
「えっちだったな……」
目を瞑ってべーっとする姿。指でなぞられて身震いしている感じ。
尻尾を撫でられ、耳をカリカリされて、新たな感覚に身を悶える表情。
あれは将来、危ない男にひっかかる。絶対に新歓とか同窓会とかで先輩にお持ち帰りされる子だ。俺が見ていてあげないと。
猫の唾液はさらさらしていると、舌はザラザラしていると、たぶんこっちじゃない世界で見たことがあった。俺は猫を飼っていなかったからそれを確かめられなくて、じゃあ猫耳族の獣人はどうなんだ、ってニーナの舌を触った。
最初は好奇心だったけど、反応が面白くてつい尻尾も、耳も、欲求が止まらなかった。
七歳にエロスを感じる日が来るとは思わなかった。もしかしたら精神が肉体に引っ張られているのかもしれない。やっぱり子どもだとエロい行為も許されるし、俺もう一生七歳児で良いかもな。
「……遅いな」
四時間目の体育が終わって、放課後。図書室に行く前、トイレに行ってくるから待っててと言われて、俺はニーナのえっちな姿を思い返しながら大人しく教室で待っていた。待っていたのだが……遅い。これじゃあ息子が起きてしまうじゃないか。責任取ってもらおうかな。
女の子のトイレが長いというのは知っている。童貞の俺でもネットに浸っていた俺ならそれぐらいは知っている。それでも遅い。
俺はとりあえず、ニーナと自分のカバンを手に持ってトイレに行ってみる。当然ながら、赤い人型の女子トイレを前に、阻まれる。
魔法でもなければ電子的なロックもかかっていない、なんなら扉すらない入り口に、こうも効力があるとは……。
「何してるのよ」
「いいところに来たね姉さん!」
ふり返る。ナイスタイミング過ぎて俺は思わずサムズアップしてしまった。
「周りの目、気にしなさいよ」
アイラが俺の肩を押す。女子が会釈しながら、トイレに入っていった。
周囲を見回る。ひそひそとしている女子が何人もいた。
「みんな奥手なんだね」
引っぱたかれた。
「女子トイレを監視するのはダメ。さすがにお姉ちゃんでも擁護できない」
周りの目を気にして己を縛り付けるのは言語道断本末転倒。だけど、気にしなさすぎるのも考え物だ。
「ニーナにトイレ行くから待っててって言われたんだけど、遅いんだよね」
両手を示す。俺以外のカバン。
「だから、見てきてくれない?」
もしかしたら体調が悪くなって倒れているのかもしれない。紙がなくなって動くに動けなくなっているのかもしれない。
「もし嫌なら」
「私が行く」
「ありがと」
かっこかわいい弟を女子トイレに入った変態にさせたくはないだろう。
「……いないわよ」
「は?」
気楽に待っていた俺へ、一分とせずアイラは戻ってきて、そう告げた。
「ちゃんと確かめたの?」
「個室はひとつしか埋まってない。違う人が入ってた」
「じゃあどこに行ったって言うんだい」
「帰ったんじゃない?」
アイラはニーナのことをよく思ってないらしいけど、さすがにそれはニーナの心象が悪すぎる。
第一、このカバンをどう説明するんだい。カバンは置いて帰ったとでも言うのかい。
「……大丈夫かな、あれ。獣人、の子でしょ……?」
「うん……でも、あの人たち、上級生だよ……」
通り過ぎていく女子二名。俺は聞き逃さず、腕を掴んで引き留めた。
俺の強引な行動に、アイラを含めた三人の女子が驚く。
「ちょっとクレ……!」
「その獣人って、いつも俺と一緒にいる子?」
嘘をつかせないように問い詰めれば、声が出せなくなってしまったらしい。こくこくと首を縦に振る。
「それ、どこ」
俺は居場所を訊き出し、急いだ。
「何してんの」
俺の一言で、きゃっきゃとけたたましい奇声が止んだ。
校舎の裏。太陽が照らさない陰。人気のない場所に、いた。
壁を背にして、蹲るニーナ。頭、というより髪を抑えるニーナ。しゃがみ込んで、震えている。それを囲う女子二人と、威圧的に立ちはだかる男が三人。
「ちょっ、クレイ……! はやっ……」
息を切らしながら、アイラがやっと追いついてきた。靴を履き替えているからだ。
膝に手をついたアイラだったが、その惨状に顔を上げ、息を飲む。
俺はこの場を目の当たりにして、自分でも制御できない感情に襲われた。必死に押し留めるので精一杯で、アイラを気に掛けている余裕はなかった。
いまにも俺は、この怒りと殺意に身を委ねそうだ。
「何やってるのよ!」
俺の姉であるアイラ・ストロルではなく、優等生のアイラ・ストロルがいた。彼女は優等生らしく、この場についての説明を求める。
だけど、黙っていてほしい。
それはいま、俺が訊いたことだから。
「……あなた」
アイラはどうやら、男のほうに見覚えがあるらしい。
俺は女子のほうに見覚えがあった。教室の席でニーナのとなりに座っているふたりだ。
そして、アイラの見覚えのある反応で、男子についても、記憶が蘇った。その丸刈り頭は、いつかアイラに剣術で押し負けていたやつだ。
「聞いてるの!? ラド」
俺はアイラを遮った。こいつの名前が何であってもどうでもいい。この状況はどうやっても言い逃れできず、雄弁に事の次第を物語っている。
身長差はある。俺よりもデカい。けど、そんなの大した問題ではない。
じっと見据える。冷ややかな視線で見上げ、沈黙で責め立てる。
犯罪が露呈したのだ。それにこいつは子ども。静寂ほど辛く、居たたまれないことはない。
『お前がしゃべるまで、このままだ』
そう冷静に睨みつける。
「きょ、教育だ……!」
沈黙を破るのは他でもない丸刈り。
声は震えている。なんで震えているんだろう。ビビってるのか? 怖いのか? なんでビビる。自分はその行いが正しいと思ってるからやっているんだろう。罪の意識でも感じてるんか。悪いことだと自覚しているのに、やったのか。
なんでだよ。
俺は不思議で不思議でたまらない。
「教育?」
「獣のくせに、人間の学園で」
それ以上、聞く意味はないだろう。火の球。丸刈りの耳を撫でた。赤くなる。
「お前こそ、ちゃんと勉強しろよ」
いったいどこの誰が、どの教科書に、獣のくせにという言葉を載せていた。
「もしもお前にそんなことを教えた奴がいるんなら、ここに連れて来いよ。ぶん殴ってやるから。俺が」
「……う、うるせぇ!」
震えを打破して、丸刈りは一歩踏み込む。けど、遅い。踏み込みの段階で、俺は迎撃の準備をしていた。
魔法はイメージという。イメージは頭の中。思考力でもあるらしい。感情とも密接だろう。ならばこの時の魔法は、俺の怒りで殺意の塊だったか。
「だめ!」
真横からの想定外の衝撃。発生したファイヤーボールは、ファイヤーボールというにはあまりにも凶悪だった。
アイラに体当たりされ、俺の炎は制御を失う。校舎の壁に激突して揺れる。大きく穴を空けていた。
俺はこの炎を、丸刈りに目掛けて放とうとしていた。だが、いま思うとなんでそんなことをしたのかわからない。ああいうのを頭に血が昇るというのか、いまみたいな状況を冷静になるというのか。俺は丸刈りを、殺そうとした。殺すつもりだった。……殺したかった? たしかに、そうだったかもしれない。
だが、もしも校舎の壁ではなく丸刈りに当たっていれば、すぐ後ろのニーナだって無事ではなかった。アイラだって巻き込んでいたかもしれない。強引にアイラが体当たりしてくれたことで、俺の魔法は軌道も逸れて生成も中途半端に終わった。
「何の音ですか」
顔を覗かせたのはセシリア先生。
セシリア先生はまず目立つ校舎の壁に空いた穴を見る。どうやらその裏はすぐ室内ではなかったらしい。外階段で、校舎内の誰かへの被害はなさそう。次に蹲るニーナ、へたり込む丸刈りと硬直しきった四人。そして最終的に、アイラに体当たりされた俺へ視線は着地する。
「お怪我はないですか」
あるっちゃある。擦り剥いた。
保健室に連れて行かれる。俺は廊下で待機していた。がらがらと扉が開く。
モジモジとしたニーナは体操着だった。着替えたのだ。着替えたのは、制服がダメになったから。なぜダメになったのか。それはニーナが同級生女子ふたりと、上級生男子三人に囲まれ、漏らしていたから。
俺が自分を抑えきれなかったのも、そこまでの恐怖と羞恥があったであろうことを目の当たりにしたから。
「いいね! 体操着姿もかわいいよ!」
グッと親指を立てる。体操着姿は特別珍しいことではない。でも、そのモジモジとしている姿がそそる。
漏らしたのだから、きっと、その下は……
「ちなみになんだけどいまってノーパ」
スパンとアイラに叩かれる。
「なんで叩いたの」
「変なこと言いかけてたから」
「いや、ちゃんと最後まで聞いて? ちゃんと最後まで聞いて、それで俺が変なこと聞いてたら、そこで初めて叩いて? これって冤罪っていうんだよ姉さん。濡れ衣っていうんだよ姉さん」
「じゃあ言ってみなさい」
「ニーナっていまパンツ」
スパンとアイラに叩かれた。
「まだパンツしか言ってないよ!?」
「逆にどうやってそこから変じゃない話になるのよ」
パンツはパンツで普通の下着。まだ変なものと決まったわけじゃないだろうに。
どうやら、アイラは俺の頭の中を覗けるらしい。これが姉の力なのか。ブラコンの成せる技なのか……。
はっ! なら俺も……俺もサイラの頭の中が覗けるのか!? 姉にできて兄にできない道理はない……。
サイラは丸裸。
「……ふふっ」
……怖い思いをしたと思っていたけど、ニーナは笑ってくれた。よかった。
何をされたのかはわからないけど、怖い思いをしたということだけは確実。でもニーナが恥じる必要性は、まったくない。
今度は、俺の前でやろう。俺の前だけでやろう。お漏らし。
「ありがとう、クレイくん」
ぎゅっとしてきた。俺も、ニーナをぎゅっとする。小さい身体だ。まだ、若干震えていた。
何をされたのか、訊かない。訊けるはずもない。言わせたくない。
もっと早く助けてあげたかった。そう思った。
「……大好き」
……これがフラグですか?
「お、俺もだい」
「すみません」
無遠慮に、空気を読めず割り込んでくるのは、セシリア先生だった。だけど、いい。許してやる。俺は寛大だからな。
でも、申し訳ないと思っているのなら、パンツのひとつやふたつ、あってもいいと思う。
「クレイさん、話を訊かせてもらってもよろしいですか」
何を訊きたいのだろう。彼女はいないよ。絶賛募集中。ちなラインはやってないんだ、ごめんね。
儚げなセシリア先生に優しく解されるのも悪くないな。この顔でショタ食いとか、裏で男漁りしてるとかだったら……末席に加わりたい。
「もちろんです」
返事をする。ニーナとの抱擁は中断。消える温もりが名残惜しい。
ニーナは行かないでと顔が物語っていた。俺も行きたくないけど、ぐっと堪える。アイラにニーナのことは預け、セシリア先生の綺麗でオープンなすべすべ背中を追いかける。
この人は初等部全体の魔術担当者だ。一年生の俺たちには基礎的なところから指導し、アイラを含めた四、五、六年生には実技的な指導が行われる。
彼女の剣術は編入試験の実技で体感した。あれほどの剣捌きを見せておきながら、本業は魔術師。伎倆の高さがうかがえると同時に、まだ見ぬセシリア先生の魔法が気になって仕方がない。この儚げな顔で、どんな術を使うのか。四年生にでもなれば、わかるだろうか。あと三年後か。
「派手にやりましたね」
セシリア先生が歩きながら、話し掛けてくる。
「あっちが悪いでしょう」
「悪いからと言え、殺すことを正しいとは言えませんね」
それは、そう。ごもっとも。
アイラには感謝しておこう。あとでお姉ちゃんとでも呼んでやるか。
「それに、たとえクレイさんの行いが正しくとも、あちらの行いが悪くとも、結果がそうなるとは限らないのですよ」
「……?」
どういう意味だろう。
「世の中、正義は行われることのほうが、すくないのです」
「は……それは?」
「相手の少年。ラドンくん。貴族ですよ」
嫌な予感がしつつも、俺は言った。
「それが今回の件となにか関係があるんですか」
牽制の意味で軽く睨んだ。セシリア先生を睨んでも意味はないだろうし、ガキの威圧に怯むような人ではないだろうけど。
「学園は王立です。王国が建てた王国の運営する学園。
クレイさんはただの王国民で、ニーナさんはそもそも王国民ではない。そして相手は貴族です。国は、どう動くか……もう、わかるでしょう」
なんだそれ。胸くそ悪い。
「正義はないんですか正義は」
「これが彼らの正義でしょうね」
セシリア先生も呆れているのだろう。溜め息をついた。
「クレイさん。あなたはご自身が思っている以上に、目の敵にされています。
ここ初等部で皆さん子どもではありますが、王国でも上澄みの貴族たちが集まります。王族の息子や娘も。派閥は無数にある。そのどこにも所属せず、飄々としつつ、能力の高いクレイさんは、目障りに感じる人も多いことでしょう」
こーんなにカッコよくて以下略を嫌っているのだとすれば、それは嫉妬をおいて他にないだろう。
まったく困っちゃうな。普通に生きてるだけで、嫉妬を買ってしまう。これも全て俺がカッコいいからなのだろう。かわいいからなのだろう。何でもそつなく熟してしまうから、頭も良いからなのだろう。
やれやれ。
俺は”飄々”としてみた。飄々ってこれで合ってるか?
別室に連れられ、俺はセシリア先生に事情を訊かれた。
「何があったのか、お聞かせください」
ニーナが恥ずかしいと感じていることを、俺が勝手に他者へ話すのはどうかと思った。
いじめはやるやつが悪い。けれど、いじめられた側は、それを恥ずかしいことと感じて隠してしまう節がある。あれは立派ないじめであり、それを通り越したリンチでもある。それを俺が勝手に暴露するのはどうかと思った。
「他言無用ですので、どうぞ」
セシリア先生のその言葉に、言ってもいいかという気持ちになる。
彼女は俺と近しい気持ちを持っているようだし、力になってくれそうだ。
あの場は見られてしまったのだ。また、ああいうやつらが自分の都合にいいよう話を改竄して、その通りにことが進むのは嫌だ。
俺に新たな称号が与えられるのはいいけど、ニーナまでそうなるのは……許せない。
「明日。話し合いの場を持ちます。保護者の……アイザさんに、一報お願いいたします」
一通り話し終え、セシリア先生の確認が終わると、そう告げられる。
「はーい」
向こうの親御さんと、俺の保護者アイザを連れての話し合い、か……。明日。早いな。
セシリア先生に言われたとおり、帰宅してアイザに事の経緯を話した。
「ほーん」
返ってきたのはそれだけだった。
「もっとこう、何かないの?」
ベッドに寝転がり、尻を掻くアイザ。なぜかこちらを見ずに壁に向かっている。いつもと何かが違う気配がした。
「何だ。どんな反応を期待してたんだ」
「叱られると思ったんだけど」
俺は何があったか話していない。問題が発生して、保護者を交えた話し合いがあるから、来て欲しいとしか言っていない。
弁明もしてないし、俺が何をしたのかも言ってない。ふつう問題と聞けば、怒るものだろう。大人とは。
「叱られたいのか」
「いやそういうわけじゃないけど……」
「お前はそこまでバカじゃないからな。問題になったのなら、ならざるを得なかったんだろう。言わないのは、言いたくないから、言わないほうがいいからなんだろう。言いたくなったら言えば良い」
「……」
なぁーんか調子狂う。
「アイザ。何かあった?」
「……別に」
微妙な間があった。これでも俺とアイザは数ヶ月、一年弱寝食を共にしている。アイザが俺のことをわかっているように、俺もアイザのことはある程度わかっているつもりだ。
「く、クレイくん……!」
「ああ、ニーナ」
「学校。辞めるって……本当?」
一件落着して登校すれば、ニーナは校門でそわそわしながら待っていた。昨日のことだというのに、もう噂は広まっている。その早さに感心しつつ、ニーナからの確信的な言葉に硬直しつつ。
「鼻、赤いね」
突く。
冬の入りを感じるこの日は、息も白く手足もかじかむ。
ニーナは突かれた鼻を手で覆った。申し訳なさそうな顔をしている。
「も、もしかして……!」
「ニーナのせいじゃないよ」
追いかけてきたニーナが何を言うのかは見当がつくので、俺は先回りした。
「でも……!」
「本当に、ニーナのせいじゃない」
俺は、学園を辞めることになった。
決めたのは俺だ。誰のせいでもない。間違ってもニーナのせいではない。ただ、もしも責任を追及する、できる人がいるのだとすればそれは……
「俺の師匠、アイザのせいだ……」
「……ふぇ?」
「思い出したくもないよ、昨日のこと……」
物々しい雰囲気で集められた応接室だか会議室だか。俺と、名も知らぬ女子ーズと丸刈り連中の親御さん、担任と校長。人数を考えると、たぶん、丸刈りと女子のどちらかは兄妹だったのだろう。
最後に現れたのはアイザ。
「すまん。遅れた」
まったく反省も謝罪もなく、堂々とした登場。
「アイザさん。皆さん待ったのですよ……!」
と言う担任に、
「だから謝っただろ」
と。
やはり謝った人の台詞でも態度でもない答えをして、物々しい雰囲気は一気に剣呑となり、校長と俺が仲良く脇を湿らせてから始まった。
「そいつはウチの娘に暴力を働いたとか!」
「お腹にもこんな痣ができて……!」
親御さんの言い分はそうだった。捲った女子のお腹にはたしかに痣があった。さすがに痣の件は知らないので俺も目を丸くし、確認を取られたアイザに否定した。誓って指一本触れていないと。
「学園は格式ある場。庶民など入れるべきではなかったのだ」
「そういえば、そこの子は家出した身と聞きましたよ」
「親にも問題がありそうだな」
「黒い髪もなんだか魔族みたいで汚らしい」
などなど。面白いほどに捲し立てられた。
黒い髪だと魔族なのか。魔族ってそんな見た目なのか。ふむふむ。
「校長。どういう対応を取るつもりで?」
いままで黙りだった男が口を開いた。ぎゃーぎゃー喚いてた連中も黙る。上下関係がうかがえた。
セシリア先生が危惧していた貴族とは、おそらくこの男だろう。貴族の中でも校長に圧をかけられるほどの位。
「えぇっと。その……しかし」
「しかし?」
「クレイくんの話とそちらの話は食い違っているようでして」
「ふむ。どこがでしょう」
「まず先に手を出したのはそちらだとか」
「そうは見えないのだが?」
貴族の男が俺を見る。俺の無傷な姿を見る。その目は、人を見る目ではない。
校長は汗を拭く。拭いても拭いても拭く。
「いえ。手を出したのは彼ではなく獣人の女の子のようでして……」
「それは大変だ! ならば、彼女もこの場に呼んでもらうとしよう」
「それは……」
それはよくない。
カーレのことを思い出しているのではない。ニーナへの精神的負担が大きすぎる。それに、こいつらの目に晒したくない。
どうしたものか、拳を握る。
「お前らよくそんなに口回るな」
黙って聞いていた俺とアイザ。話が切れたところでアイザが口を挟む。彼らの話はどこ吹く風と、耳に指を突っ込んでいた。態度も変わらない。足を膝に乗せている。
俺からすれば圧などないいつものアイザだったが、初対面からすれば凄みがあっただろう。うっ、と気圧される。
「……かの有名なアイザさん。お会いできて光栄だ。しかしながら最強と名高いあなたでも、弟子への教育は不得手のようだ。まさか、弟子のやったことだからと責任逃れしないでしょうね」
俺の行動は、アイザの名前にまで泥を塗る行為だった。
弟子と名乗ることがどういうことなのか、自分の行いの結果を思い知る。考えが回っていなかったことを恥じる。
「はいはい言いませんよ言いません。……どうせお前らがほしいのはこれなんだろ」
ぱっとテーブルに一枚の紙が置かれた。
「……ん? あれ、アイザ。これは?」
目を擦る。
「俺の目がおかしいのかな。退学届に見える」
「よかったな、おかしくなってない。退学届だ」
「「退学届ぇ!?」」
俺と校長が見事に揃って飛び上がった。
「ああそうだ」
鷹揚に頷いたアイザ。俺ですら聞かされていない信じられない一手に、皆が黙る。場がアイザのものとなる。
「悪かったなクレイ。今回の件は私のせいだ。学園はある程度の指標ができると言ったが、お前には無為で無駄でしかなかった。こんな連中はこんなしょうもないことに巻き込むだけで、百害を生む害虫でしかない。害虫の指標なんか要らん」
「害虫……ッ!? 貴様、私を誰と思って……!」
そんな台詞ほど、アイザに通用しないものはないだろう。
「知らん。お前らが何であってもどうだって良い」
「なっ……!」
軽々と一言でひねり潰し、そして。
「どうせお前ら、こうするつもりだったろ。貴族らしく、結託して、でっち上げて、これからの生活、クレイを追い込むつもりだったろ。いいかクレイ」
「ん」
いきなり水を向けられ、返事に遅れる。
「残ってもいいが、断言できる。こいつらはお前の根も葉もない噂を流す。絶対にどこかで仕返しされる、何か仕掛けられる」
なんだろう、妙に説得力がある。そして貴族の方々や、なぜ違うと言わない。図星なのかい。
「お前らの嫌いな庶民が、自ら去るって言ってんだ。何か文句あるか」
退学を要求することも向こうとして考えていたかもしれないが、アイザ自らそれを取ってしまった。というかこの場がもうそもそも瓦解している。
俺は生徒ではなくなったのだ。学園に捕まって、話し合いを強制されることもない。ここで俺が退室しても、校長も担任も引き留めることはできなかった。
「それに、クレイどうだ。ここでの授業は。退屈じゃなかったか」
狙いを悟る。
「まあ、そうだね。正直言うと、あくびが出る。これに大金を払っている人がいるなんて……しかもそれで格式がどうのとか威張ってる人がいるなんて…………商売上手だよね」
正面で、血管が膨らむ顔。俺はいま気付いたとあ、と声にする。
「あ、やばい本音が出ちゃった」
アイザはくくく、と腹を抱えるような笑いをした。
「と、いうことだ。散々言いたい放題言ってくれたみたいだが、こっちにもそれなりの言い分はある」
「……それは?」
「これだ」
最後のアイザの置き土産。俺が生徒でないのだから、アイザも保護者ではない。学園側の顔を立てる必要もない。
炎が放たれた。
魔法の正確性、威力調整。いったいどういう芸当がわからない。
森を焼き放ったのと一見すれば同じ魔法なのだが、喰らった親御さんたちにダメージはなく、服や髪が焼き焦げ、天パみたいに膨れ上がっていた。
彼ら貴族からすると命よりも服や髪が大事なのか、阿鼻叫喚が響き渡る。気分良さそうにすっきりしたと笑ったアイザは、俺を連れて部屋を出た。
「あ、あの! アイザさん!」
追いかけてきたのは校長だった。
「これ……本当によろしいのですか?」
退学届だ。
ここで初めて、アイザから俺の意志を問われた気がする。
「ありがとうございました、校長先生。意外と楽しかったですよ、学園」
「まあ、二者択一になるだろうよ。この子を退学にするか、あっちの二人を退学にするか。貴族相手にそれをすれば、校長。あんたが席を追われる」
校長からしても、俺が退学する方が保身上助かるだろう。止められることはなかった。
「”意外と楽しかった”……ね。お前も中々言うよ」
「まあ、いいお手本がいるからね。……というかアイザはいつもやり過ぎだよ!」
「でもスカッとしたろ?」
「……まあね」
家出のことを言われたり、グリッドやアリス、両親のことを言われたり、ムカついたのは事実だからな。
たしかにグリッドのことは嫌いだ。でも、悪く言っても良いのはあくまで俺だけ。なんで何も知らない連中に俺たちの事情のことをいきなり言われないといけないんだ。
「あとすこしで俺が手を出すところだったからね」
「お前じゃ本当に殺してそうだ」
俺はこうして、自分で、自分の意志で、退学することを決めたのだ。
「まあ、もう心配することはないよ。あいつらが手を出すことはないはずだから」
子どもは俺にやられて、親はアイザにやられた。
ニーナには言わないけど、ニーナが狙われたのは八つ当たりに近しい行いだろう。
俺と仲良くしているから、ニーナは狙われた。もしも俺が学園に残ったら、うわさ云々もそうだけど、また被害に遭うのはニーナだろう。俺なら、返り討ちにできるから。
もしかしたらアイザは、そこまでわかっていたのかもしれない。貴族に直接手を出したアイザ。完全にヘイトは俺たちに向いている。もうニーナのことなんか忘れているかもしれない。どうやって知ったのか疑問に思うが、アイザなら知らないというよりも、知っているほうが納得できる。
こうして、ヘイトを買ったまま姿を消せば、奴らは発散ができない。面白そうでもある。くっくっくっ。
「仮になんかされたら、姉さんを頼って良いからね。俺からも、姉さんには言っておくから」
「う、うん……」
ただ一つ面倒なのは、まだアイラに学校を辞めることを言ってないことだ。
今日はニーナと会うため、それから荷物の回収と細かな手続きがあって登校しているのだが、うわさは広まってるようだし、アイラに会わなければ良いなぁ……。
「ちょっとクレイどういうこと!?」
世の中、そんな上手くいかないなぁ……。
「学校辞めるってぇ!?」
一年生の教室で、四年生が喚いている。みっともない。恥ずかしい。うわさは本当なのか? って聞き耳立ててる奴らばっかりじゃないか。
「う、ん」
こんな中で頷く俺の気持ちにもなってくれ。
「なんで!? 私と一緒に学生寮で過ごすはずだったじゃない!」
「そんな約束をした覚えはない」
「……どうせ貴族に何かされたんでしょ、あいつらときたらまた……」
「何もしないでね。お姉ちゃんにはやってほしいことがあるんだから」
「……うんなに? お姉ちゃんよ」
よし、上手く意識を逸らせたな。
よくよく考えると、俺が嫌われるなら、アイラはもっと嫌われそうだ。優等生として認知が広く、一番に名が挙がるのがただの庶民出のアイラ。貴族からすればプライドぐっちゃぐちゃ。
いまの地位になるまで、どんな仕打ちを受けてどんな想いをしてきたのか。一度、抱きしめておくか。
「な、なに……? ……え?」
「ほら。騒ぐと迷惑になるから。自分の教室に帰る。チャイム鳴っちゃうよ」
「ちょっと! けっきょく何があったのか聞いてないんだけど!? ……ていうかいまのハグなに!? お姉ちゃんのこと好きなの!?」
「好きだよ当たり前じゃん」
家族なんだから。
まあ、とりあえずアイラにはちゃんと学園に残ってもらわないといけない。ああいうやつらがひとりとは限らない。何かあったとき、ニーナを守ってもらおう。
「ニーナのこと、お願いね」
背中を押して、俺はアイラを追いやった。わーぎゃーわーぎゃー言ってたけど、無視するような人じゃないと、俺は知ってる。




