クレイくんに会うため
獣人には古くから、老若男女に長く伝わる童話がある。
大人が良心や道徳を説くように、母親が子守歌代わりにするような、そんな童話が。
グルモシスは広大な土地だ。世界最大の森林として名を知らない方が珍しいぐらいには有名な土地である。
しかしそこに住む獣人たちが全て協力して生活しているわけかと言われれば、そうではない。彼らもそれぞれの群れで生活をしている。人間の考え方で言えば、最も適切なのは国家だろう。バイル王国のように、領土を持ってリーダーを選び、暮らしをしている。ただ、その理解で進めれば、すこし誤りがあるのもまた、事実だ。
獣人は仲間意識が強い。広大なグルモシス内であっても、人間のように領土争いのため侵攻したりはしない。思惑が交錯することもない。交流が盛んということでもないが、困っていれば理由を問わず手を差し出すぐらいのことはする。
獣人が獣人を、民族としての衝突があったのはもう、七百年以上遡らなくてはならない。暦が統一され、言語が統一され、人と魔の区別がついたあの大戦まで、遡らなくてはならない。
なぜ獣人がそこまで仲間意識、同族を想う気持ちが強いのか、理由として挙げるのならば、それは帰属意識が共通しているからだろう。
グルモシスは獣人が住む土地として有名だ。資源は豊富で、食料も新鮮、鉱石もグルモシス内の洞窟でしか見つからない物が多々ある。人間と魔族からすれば、いい餌だ。両者の中心地にあるグルモシスは昔から狙われることがあった。
しかしいまでは、そんなことが起きない。
なぜなら獣神が自ら赴き、グルモシスを我が領土に、獣人の獣のための土地だと宣言し、見事に勝ち取ったからだ。
その宣言と行動があったからこそ、いまのグルモシスは獣人の土地として認識され、安易な攻撃、侵略をされていない。
誰だって、神を敵には回したくないだろう。
グルモシスへの侵攻、利用、破壊などの危害を加える行動は獣神への、神への反逆に等しい。
人間は臆病なため、理性で歯止めを利かせる。
魔族は同胞の結末を見、躊躇するようになった。
グルモシスは平和だ。それも全て、獣神のおかげ。だからこそ、獣人は獣神に頭を垂れる。獣人は生まれた時から獣神を信仰している。その群れにリーダーがいようと、絶対的な主は獣神のみ。
その素直な信仰心は、他の種族よりも強いだろう。
人間のように人神への意識が薄く自らの心に従って新たな神を信じたり、魔族のように力という観点からの不承不承とした服従や、誰にも縛られないと魔神を意に介さない彼らと比べれば、獣人の親交は強い。
そこには、獣神が外界に触れることも大きく関係しているだろう。
歴史を辿れば人間の繁栄にも人神が大きく関わっているが、それは歴史を遡るのも七百年ではまったく足りない。彼ら人間は人神に対する信仰心が強くない。シャレスタ教という独自の宗教を作り出し、信仰し、それがバイル王国サスマン帝国と並び三大国になるぐらいには、信者の数も多い。他にも宗教は存在している。より細かく調べれば、民族内でしか広まっていない宗教もあるだろう。人間の数だけ、信仰するものが違うとも言える。
それに拍車を掛けるように、人神は引き籠もっている。神の御姿などただの人間が目にすることは叶わない。理屈で言えば通るが、彼ら人間は脆く、見えない人神よりも目の前の冒険者の方をずっと信じることもある。
その点、獣神は違う。引き籠もることもなく一般の獣人と生活を共にし、龍人のように言葉数少ないこともなく話を親身に聞く。それら献身的な行動から獣人は親近感と安心感を覚え、信仰にも繋がっている。
親兄妹、隣人と住まいが違おうと、獣人は獣神に強い信仰心、そして帰属意識を持っている。だからこそ、強い仲間意識も持っているのだ。
獣神は獣人のため土地を勝ち取り、平穏な住まいを長く見守り、共に歩み続けている。
だが、これにはすこし間違いがある。
間違いというよりかは、過不足、だろう。
この歴史、通説は、人間に伝わっているもの。
獣人たち全てに伝わる御伽噺、伝説、童話は、その獣神がグルモシスという土地を勝ち取ることが記されている。もちろん寝かしつけで子どもにも読むため、残酷な描写はされていないことが多いが、無血ではなく流れる血は多かった。
童話は、獣神が嘆き、悲しんでいるところから始まる。
人間と魔族による争いの板挟み、大森林を利用され、その過程で森が、獣が、獣人が殺されていることを嘆いていることから始まる。
やがて、獣神にも沸々と湧き上がる感情があった。それは怒り、憎しみ。憎悪だ。己の民を殺され激しい怒りを覚えるのは当然のこと。そんな身勝手を許す人間の神である人神、魔族を束ねる魔神にも怒りの矛先は向いていた。
危うく神々の戦い一歩手前である。
そんなことをすればもう己の領土が民がと言えることはない。人間も、魔族も、獣人も、……鬼人や龍人、妖精だって、皆仲良く死ぬだけ。
最終的に残るのは神だけになるだろう。世界の始まりに戻るのだ。
それを引き起こすのは、獣神の次の一手に掛かっていた。
だが、その迷いの時期は疾うに過ぎていた。そう迷った結果が、戦いが苛烈になっただけだったのだから。獣神は何もしないと、調子に乗せただけ。多くの獣人が死に、森が死んだだけなのだ。奴らは獣神が動かないと、高を括っている。
宣言は神へ向かって。獣神は魔神と人神へ宣戦布告するつもりだった。痛みを教えてやろうと。
神々の戦争の始まりである。
そんな獣神の前に、一人の人間が現れた。矮小な人間はまだ幼い。十代後半だろうか。髪が真に黒い人間を、獣神は初めて見た。
ここでもしも仮にその少年が自信満々な顔つきをしていれば、何か交渉でもしに来てその自信が見え透いていたとしたら、獣神は容赦なくその少年を噛み殺し、その血肉を決戦の開幕として掲げただろう。
『あ、あの~……』
しかしその少年は、酷く怯えていた。神の前で力を隠せるはずもない。正真正銘、その少年は非力で弱かった。
その少年に何ができるのか。何もできないだろう。魔力も何も感じないのだ。そんな人間、魔力を持たない生き物自体、初めて見る。小突けば死にそうだ。
まあ、実際はもうすこし苦労しそうではあるが。
獣神は視線を少年からその奥へ移動させる。自身から視線が外されホッとする少年を他所に、彼が連れて来た集団の面々は一気に警戒心を膨れ上がらせた。
しかし造作はない。一手で消せる。
獣神の目に留まったのは、ふたり、だろう。
黒髪の少年、その後方に立つ従者のようなふたり。
緑の毛をした青年と、もうひとりは面白い。白い布で全身を隠しているが、明らかに人間の魔力ではなかった。人間の騎士集団の中に、吸血鬼、魔族が紛れ込んでいる。無力な人間に、付き従っている。
少年を殺そうとすれば、その集団が盾になることは間違いなし。
なぜ少年にそこまで命を賭けるのか、その少年はいったい何者なのか、獣神は気になった。
どうせすぐに殺せる相手だという慢心もあっただろう。
話を聞いた。
少年はまず謝罪を口にした。
人間による森の破壊と獣人の奴隷化の件を謝った。
次に協力を申し出た。どの口で、と思ったが、このままでは全てが終わるというのは正論だった。
獣神は最初に要求した。奴隷の件を謝るのならば、人間が持つ獣人の奴隷を解放しろ、と。
できるはずがなかった。人間こそ一枚岩ではない。国の関与しない奴隷もいることだろう。それにいったいどうやって証明するのか。しかし少年は二つ返事で頷いた。時間は掛かりこそしたが、少年はやってのけた。
ひとまず、それで謝罪は受け入れた。
獣神は続けて、こう言う。
『協力を申し出るなら、こちらにも得がないといけない』
もちろん! と、黒髪は言う。
『ならば協力する代わりに、このグルモシスをオレの土地に。以降森の中で身勝手な振る舞いはしないようにしろ』
おう! と返事をしてくる。そんなのお安い御用だ、と。しかし気に食わない。認識の差異がある。黒髪ならば軽く返事をするだろうが、後ろの騎士も拍子抜けしているのは、きっと認識に違いがあるから。
緑髪の青年は事を正しく理解しているようだった。
『身勝手な振る舞いというのは、何も人間だけの話ではないぞ』
途端に騎士連中の顔色が悪くなる。
黒髪の少年は呆けていた。理解が遅いようだ。
緑髪の青年が説明している。理解してから、えぇえええ!! と、盛大な反応を見せていた。獣神は上がった口角を手で誤魔化す。
『そんな……そんなの無茶ですよぉ! 世界全体にこの土地を獣神の物だと理解させろなんてぇ!』
『できなければこの話はなしだ』
獣神は人間だけではなく、人間と激しい戦いをしている魔族だけではなく、世界のありとあらゆる種族に、この大森林は獣神の土地であり獣人の住処であり、身勝手な振る舞いをするなと理解させろ、と言ったのだ。
それは世界地図を変えるのと同意義である。何も持たないその少年にできることではないだろう。
さあ、どう出るのか。奴隷解放のように、頷いてやり遂げるのか。
『わ、わかった……やってみる』
自信はなさそうだったが、少年は頷いた。
結果は、いま現在の世界が証明しているだろう。グルモシスという名が与えられた。
そう。
獣人からすれば自身らの平和で安全な暮らしには獣神だけではなく、とある人間も関わっていることは常識なのだ。
むしろ、なぜ人間がその黒髪の少年を知らないのかが疑問になっている。三神の衝突を止めた英雄として、銅像ぐらいは建てられても良いはずなのだ。
「ねえお母さん」
「うん? なぁに?」
「……なんでみんなはさ、人間のこと、嫌ってるの?」
幼きニーナは純粋な心のままに、疑問をぶつけた。楽しい食卓の場が一変したのは、幼いニーナにもわかった。父と母の顔が強ばったのだ。
「……ごめんなさい」
咄嗟に謝ってしまう。聞いてはいけないことだったのか。
「ううん。良いのよ」
母は肩を撫でてくれる。
父は、険しい表情のまま。母と顔を合わせると、
「良かったな」
小さくそう言うのを、ニーナは聞き逃さなかった。
本を読んだ限りでは、獣人は人間に対していい感情を持っているはずだった。少なくとも、嫌悪することはないはずだった。しかし現実に、周囲の皆は人間を嫌っているようだった。理解できなかった。
ニーナはとある人物を尋ねに行く。その犬耳族の男性はバーグナーという。昔は人間たちと冒険者パーティを組んでいたらしい。その経験を活かして集落では知識人として重宝されている。人間に対しても友好的と噂だった。
「ねえバーグナーさん」
「なんだ? ニーナ」
「なんでみんな、人間のこと、嫌いなの?」
父や母のように強張ったりはしない。ニーナの口からその質問が出たのが不思議だったのか、目を丸くしていた。そしてふっと和らげると、頭に手を置いてくる。
「そうか、ニーナはまだ幼かったもんな。覚えてないのか?」
何のことを言われているかはわからないが、思い当たる節がないということは覚えてないのだろう。
首を横に振る。
「そうか。なら、よかった」
父と同じ。よかったと言った。
質問への返答を誤魔化されているのは、子ども心にわかった。だから、
「人間の言葉、バーグナーさん、話せるんだよね?」
「……まあな」
「わたしにも教えて!」
すんなりと物事はそう上手く行かない。渋い顔をしたバーグナーからは、お父さんとお母さんから許可をもらってからな、と言われてしまった。素直に受け取ったニーナは早速父と母に言ってみることにした。
「ダメだ」
父からの反対は強い。厳しい顔で息を吐くと、感情を押し殺したような面で続ける。
「どうして、人間の言葉なんか覚えたいんだ?」
どうしてだろう。
そう言われてしまうと、ニーナも上手く答えられなかった。
その隙を突くように、父は言う。
「理由もないならダメだよ」
優しい言葉ながら、断絶を感じた。これ以上何を言っても無駄だ。
しかし、いやだからこそ、ニーナは諦められなかった。
バーグナーの家を尋ねること数回。許可はもらえていないと言うとじゃあダメだと門前払い。悔しくて、本屋で本を買う。子どもでもわかる人間の言葉という本で、ニーナは独自に勉強してみることにした。
だが、習得している感じがしない。時間だけが無駄に過ぎている感じがする。
バーグナーの家に行く。顔を見ただけで溜め息。しかし胸に抱えた本を見ては驚く。
ニーナは言った。
「共用語、教えて」
バーグナーは目を見開いた。
ニーナは、人間の言葉で、言ったのだ。
やがて、根負けしたのか、バーグナーは折れた。
父母に内緒の勉強が始まる。ある日、バーグナーに問われた。
「共用語を勉強するのは構わないが、そのあとはどうするんだ?」
一度父に問われたことだ。
それからというもの、軽く考えていた。
「人間の学校に、行ってみたい」
マジか……とバーグナーは顔を覆った。
「学校ならここにもあるだろ? なんでまた、わざわざ」
「人間のこと、みんな嫌ってる。けど、全員が全員、そうじゃない、と、思う……」
なぜ人間を嫌っているのかは謎だが、ニーナはそう思っていた。それに、人間の国というのは華やからしい。気になる。見てみたい。
「まあ、それはそうなんだけどさぁ……」
バーグナーにとっても仲間がいるだろう。ニーナを否定するのは仲間を否定するのと同じで、できないようだ。
「現状を変えるとしたら、それは、ニーナなのかもなぁ……」
呟くそれ。幼かった心に、使命感とでも言うべきか、火が灯った。
「はぁ……まぁ、お父さんとお母さんを説得できたら、だな」
また同じように言った。
ほぼ諦めが滲んでいる。説得できないだろうという諦めではなく、説得できなくても突き進んでしまうだろう、という諦めが、滲んでいた。
ニーナは前向きに捉え、父母に人間の国へ行き人間の学園へ行きたいと言った。
「ダメだ!」
父は怒鳴った。初めてだったかもしれない。
母は顔を覆った。啜り泣いているのかもしれない。
怒らせ悲しませたことを、ニーナは後悔した。
「なんでお父さ、怒ってるの?」
眠い目を擦りながら話に加わったのは、妹だった。
「あぁ、ごめんね。起こしちゃったか。……とにかく、ニーナ。人間の国なんて、……学校だなんて、絶対ダメだ」
父の姿勢は変わらない。
さすがにここを強行突破して一人で行くことはできない。隠れて本を読むのとは違うのだ。
「お姉ちゃ、……悪いことしたの?」
怒られていると思ったのか妹は口にする。
自分のトゲトゲしい物言いに気付いたのか、父はハッとした。怒りが、すこし静まるのを感じる。
妹を寝かせに行った父は戻ってくるなり溜め息。徐に口を開く。
「ニーナは、どこまで覚えてる?」
首を傾げる。どこまでとは、いったい。
その反応で父は更に溜め息を吐いた。
「……たぶん、ニーナは1歳ぐらいだったかな。人間がね、森を焼き払ったことがあったんだ」
唐突に明かされる事実。目を丸くする。
「僕らが子どもの頃は、一人でも外に出歩けてたんだ。でも、ニーナは違うでしょ?」
頷く。
高い木の壁が周囲に建ち、見張りが昼夜問わず目を光らせている。
「昔ほど安全じゃないんだ。大森林も」
「でも、なんで……」
「さあ。真意なんてわからない。でも、火の壁を乗り越えてなんとか逃げてきた人の話によると、鎧を着た人間が獣人を運んでいたんだって。――、かな」
音にはしなかった言葉、いま思えばそれはおそらく、”奴隷”だろう。
そこまで言われると、微かな記憶も掘り起こされる。闇夜に赤々と燃え、崩れて潰れる音。逃げ惑う獣人たち、黒くなり緑が消えた森。そこを悠然と、進行する人影。
火に少しの怖さがあるのも、そういうことだったのかもしれない。
「……それでも、行きたいのかい?」
父に問われる。
行きたい気持ちはまだあった。しかし、怖い気持ちも確かにあった。
その時に過ぎったのは、童話にある黒髪の言葉。
『このままでは全てが終わる』
父も母も悲しみ、そして、怒りを燃やしている。次は、憎悪だ。
戦いになることを懸念したのもあるだろうが、ニーナは、大好きなふたりにそんな気持ちを持ってほしくなかった。
『現状を変えるとしたら、それは、ニーナなのかもなぁ……』
自分がここで屈すれば、自分もただ悲しみに暮れ、怒りを燃やしてしまえば、……なにもせず憎んでしまえば、永遠に人間と獣人は分かり合えないのではないか。
幼いニーナはそこまで明確に理解していなかったのかもしれない。このままではいけないという直感なのかもしれない。
しかし彼女はそれに従った。
父と母はバーグナーに何度も頼んでいた。
当然、幼いニーナを一人で森の外に行かせるわけがない。慣れているバーグナーが保護者として付き添うことになった。
ニーナのこと、お願いね。
きっとバーグナーは耳にタコができるほど言われただろう。
そうしてバイル学園の初等部に入学する。
たくさんの人間の数と綺麗な街並みに驚いた。ワクワクもした。
しかし、ニーナは大した結果も出せずにいた。共用語の勉強をしたと言えど、一年もないぐらい。バーグナーが優しくゆっくりと発音よく言ってくれていたのを理解した。実際の人間たちの言葉は流暢で早口で、知らない単語もいくつも出てくる。言語以外にも文化、礼儀も勉強しないといけないのだ。時間が足りなかった。
いつしか、話し掛けることはなくなった。
友達は、いなかった。いつも一緒に授業を受ける子はいたが、話し掛けられるのも一日に一、二回ぐらい。形式的に獣人用の合格枠があるぐらいだ。あからさまな何かをされはしなかったが、答えに詰まっているのをクスクスと笑われているのを感じた。昼食は二人だけで行っている。自分はいつも除け者で、誘われることはない。
自分を獣神と同等に見ていたのか。
御伽噺は所詮御伽噺なのに、なぜ自分を同じに考えてしまったのか。
そんな時、授業中、話し掛けられた。ペアになってくれ、と。いつも通りひとりで、教師に嫌な顔をされるのだろうと思っていたところだった。相手は、編入生として紹介されたクレイという男の子。
しかし無愛想な態度を取ってしまった。名前だけは名乗ったが、その後話し掛けられても答えられなかった。だが、彼は笑うこともなかった。
「いい名前だね!」
異国の地で、孤独に打ちのめされ、無力を痛感していたニーナは、初めて自分を肯定された気分だった。
こんなに話を振ってくれる人間は初めてで、黒髪の相手は妙に気になって、いつしか目で追うようになってしまった。目でしか、追えなかった。
「お、おはよう。……ニーナ」
他の言語が飛び交い、どれもこれも自分を笑っているように思える中で、不格好ながらも獣語を聞いたその時、ニーナは一筋の光が差し込んだように思えた。
クレイという黒髪の子がいた。
昨日は膨れ上がった感情をそのままに吐いてしまい、絶対に嫌われたと絶望していた。
だが、クレイは、獣語で話し掛けてきてくれたのだ。
だからそのあとのごめんは、要らなかった。誠意も伝わってきたし、何より、救いになったから。
クレイは他の子のように自分を笑ったりしなかった。それだけではなく、友達になってくれた。お互いに言葉を教え合う時間は特別に思えた。
自分を獣神と言う気はサラサラないが、相手が黒髪ということもあって御伽噺と照らし合わせてしまった。
きっと、運命なのだろう。
自分がここまで頑張ったのも、孤独に耐えたのも、全ては、
「クレイくんに、会うためかな」
照れた顔にニーナは満足げな顔をする。
体育の時間中。
唯一得意で楽しみな時間。それは獣人として他の人間を出し抜けるというのもあるが、席が離れているクレイと一緒になれるというのが大きかった。
獣人のニーナは他の女子よりも体力脚力が備わっているため、長距離走は一番に終わり、待つ側となる。
「そうだ。ニーナ」
ニーナは獣人の中では足が速いわけでも体力があるわけでもないだろう。中間ぐらい。クレイは同じ人間の中でダントツ。
同じく先に走り終わったクレイ。彼は思い出したように言う。
「ベロ出してみてよ」
「ベ、ベロ……?」
脈絡がなさすぎて、聞き間違えかと思った。だがクレイはうん、と頷く。
「こ、こう……?」
べーと舌を出してみる。何だか恥ずかしい。するとクレイは、指でなぞるようにした。変な感覚だ。
「な、何してるの……!?」
クレイの指には唾液がついていた。自分の唾液が。頬が赤くなる。ふふんと悪戯っ子のように笑うクレイは、こねくり回したり嗅いだりしようとする。流石に嗅がれるのは無理なので、指を奪うと自分の服で拭った。
「な、何してるの……」
じとっと責めてみる。効果はなさそう。
「知的好奇心」
「……??」
唾液の何が知的好奇心なのだろう。しかしその金の瞳は、たしかに好奇心で輝いていた。
「次、尻尾触ってもいい?」
人に尻尾を触られることなんて、初めてだ。くすぐったい。ムズムズする。
「な、なんか、変な感じ……」
「俺も、変な気分になってくる……」
クレイは手を離した。まるでこのままでは危ない、とでも言いたげに。
「……耳も、触っていい?」
その目はすこし怖い。息遣いも、荒い気がした。
「……ちょっとだけだよ?」
耳の外側を撫でられる。それから、中の浅いところを爪でカリカリとされる。
「ん、んんっ……」
抑えようとしたのだが、思わず声が漏れてしまった。恥ずかしい。
「も、もう終わり!」
クレイは変な顔をしていた。葛藤だろうか。理性と欲求がぶつかっている感じがした。
「ニーナ。言われるがままにされるのはダメだよ」
「……試したの?」
そういう好奇心だったのだろうか。すこし前に、よくわからない言葉を復唱させられた。
男の子を勘違いさせるとかいろいろ言っていたが、ニーナがそれをするのはクレイだからだ。
言われるがままにするのだって、クレイだからだ。ほかの誰かにベロを出せと言われて出すはずもないし、尻尾も耳も触らせない。
「もうそろそろ終わりそう。行こう。じゃないと俺が俺でなくなってしまう」
クレイは答えず、悪戯っ子のように笑った。
胸がドキドキする。このドキドキはいったい何のドキドキなのだろう。舌をなぞられてゾクゾクしたし、いきなりのことでビックリはしたけど、嫌だとは感じなかった。
クレイが他の女の子を見ているだけでハラハラするし、姉との近い距離感にもやきもきする。魔術の授業で、クレイはよくセシリア先生に指名されている。彼女の指名に、クレイは毎回正解している。他の生徒が答えられなかった問題でも、正解してしまう。
素直に凄いと思う。だがその凄いは、正解していることよりも、動揺しないことにある。
先生からの不意な指名に動揺せず、毅然とした態度で、何十人もの視線を受けながら発言、黒板に文字を書く。ニーナにはできない。
――クレイくん、セシリア先生のこと、好きなのかな……。
黒板前に出て正解すると、セシリアはクレイの頭を撫でる。クレイはそれを心底嬉しそうにしている。セシリアは同性のニーナから見てもたしかに綺麗な女性だ。だが、その光景はあまり良い気持ちがしない。
女子の方から長距離走は終わり、やがて男子の方も終わっていく。整列し、教師から連絡事項やタイムの発表がある。男子の一位はクレイで、女子の一位はニーナ。
クレイはこっちを見て、にひっと笑いかけてくる。恥ずかしいような嬉しいような、そんな曖昧なままに笑みを返す。
更衣室で着替え、体臭に気を付ける。汗をしっかりと拭き取ってから、教室へ。四時間目の体育が終わり、担任からの挨拶が終われば放課。クレイと図書室に行くことになる。最近は一緒に昼食を食べることもある。
楽しみだ。
担任の挨拶が終わる。ニーナは先にトイレを済ませるべく、クレイにちょっと待っててと一言かけた。手を洗ってから、鏡で自分の姿を確認する。
「ねえ。最近ニーナちゃん、調子に乗ってる?」
一緒に授業を受けているふたりだった。
トイレの出入り口はひとつしかなく、ふたりの後ろにある。ふたりが塞いでいる。
実はニーナは彼女らの名前を知らない。聞いたは聞いたが、覚えていない。お互い形式だけの名乗りだったから。学校での思い出はもう、クレイが濃いから。
「……乗ってないよ」
クレイは他の男子と違い、大人びていて、ひとりでも平気な強さを持っていた。編入試験で遅れて入ったクレイは浮いていたが、自分を持っていた。ニーナにはそれがない。だからこんなふたりを、こんなふたりでも、友達だと思ってしまっていた。
彼と一緒なら、彼のとなりに立つなら、自分も強さを持っていたい。
ふたりは友達ではない。ふたりのことを友達だとは思わない。それを、調子に乗っているとは思いたくない。
「はぁ?」
「いたっ」
ふたりからすれば気丈に振る舞うそれが、余計に苛立たせたらしい。髪を掴まれる。
「ちょっと来て」
抵抗できない。
力では勝てるはずだが、抵抗できなかった。
人気のない場所へ、連れて行かれる。




