飛べると信じているから飛べるのだ
「すみません、社長。リーダーに任命して頂いたのは大変光栄ですが、このプロジェクトは、私にはあまりに重責かと」
「やる前から弱音を吐くな! やれると信じていればやれるのだ!」
社長の喝に、私は反射的に平伏した。ストレスによる抜け毛で、最近極端に広くなってきた額をつたって、冷や汗が一滴、二滴、会議机に滴り落ちる。
会社から、重大なプロジェクトのリーダーに任命をされてしまった。向こう二年のうちに、中部地方全域に事業を拡大しろとのこと。目標のみが忽然と光り輝き、その具体策は皆無。先ずは、来週の会議までに、概略のプランを考え、プレゼンしろとのご命令だ。
「おい、大丈夫か。今にもこのフェンスを乗り越えて、屋上から飛び降りそうな顔だぜ」
会議室を出て、会社の屋上で打ちひしがれている私を見かね、直属の上司が、缶コーヒーを持って、声を掛けてくれる。
「課長、たった二年で、中部地方全域に事業を拡大だなんて、いくら何でも無理です。課長から上に掛け合って下さい」
屋上のベンチに並んで腰を掛け。課長がくれた缶コーヒーの飲み口をカッポっと折る。
「まあ、そう言わず、前向きに頑張れ。社長も仰っていただろう。やれると信じていればやれるのだ」
「他人事だと思って簡単に言わないで下さい。クマバチじゃないんですから」
「クマバチ?」
「……いえ、取るに足らない発言です。忘れて下さい」
半袖ではやや寒い、でも長袖ではやや熱い、そんな秋の始まりの風が、頬をなぶった。
クマバチとは、ミツバチ科クマバチ属に属する昆虫。この昆虫は、長い間「航空力学上、飛べるはずのない形なのに、飛んでいる」とされ、その飛行方法は大きな謎とされてきた。かつて飛べないはずのクマバチが飛んでいる理由として、「クマバチは、飛べると信じているから飛べるのだ」という説が、まことしやかに論じられていたのだ。時に「不可能を可能にする象徴」として、スポーツチームのシンボルとして扱われることもあったと言う。
しかし現在では「レイノルズ数」とか「空気の粘り」とかいう小難しい数式により、飛行法は理論的に証明されている。……らしい。
この話を聞いた時、私は正直ガッカリした。クマバチは、飛べると信じているから飛べるのだ。これ、最高の説ではないか。熱きロマンが感ぜられ、胸がワクワクしてくるではないか。何故にわざわざ理論的に証明しちゃうかね。流体力学だか何だか知らないが、まったく余計な事をしてくれたものだ。なんて。
ちなみに、斯く言う私も、レイノルズ数なんていう、まったく面白味のない数式に当てはめられる以前のクマバチのように、飛べると信じて空を飛んだことがある。あれは私が小学一年生の時。私は、当時住んでいた貧乏長屋の屋根の上から、ただ飛べると信じて、大空へと羽ばたいたのだ。
――――
腕にハンコ注射の跡をつけた近所の子供たちが、ロバのパン屋を追いかけて行く。長屋の誰かがドラム缶で生ゴミを焼いて、とても煙たい。居間では、死にかけの蛍光灯が、最期の力を振り絞って点滅を続けている。その下で、私と妹は、ブラウン管から流れるお昼のメロドラマを、意味も分からず呆けたように眺めている。
その日は、母と姉がデパートに買い物に出掛けて、私は二つ年下の妹と二人で留守番をしていた。
「そうだ、空を飛んでアメリカへ行こう!」
突然、私はそう叫んだ。
どうして? 小学一年生の小学一年生たる高純度の衝動だ。理由などあろう筈がない。
思い立ったら吉日。さっそく空を飛ぶ準備に取り掛かかる。私の航空計画は下記の通り。
① 背中に子供用の傘を浴衣の帯でしばりつけ、長屋の屋根の上から飛ぶ。
② 農協で貰ったウチワを両手に持ち、鳥の翼のように扇ぐ。
③ 離陸の瞬間、部屋の中から妹にもウチワで扇がせ、その追い風に乗る。
⑤ 目にゴミが入らないように、飛行中は海水浴の水中眼鏡をつける。
⑥ お腹が空いたら、カモメのように海の魚を捕って食べ、喉が渇いたら首からぶら下げた水筒の麦茶を飲む。
⑦ アメリカへ着陸する際に、足の裏が痛くないようにゴム長靴を履く。靴底に、古新聞を何重にも折り畳み、中敷きとする。
⑧ アメリカに着いたら、妹へのお土産に、本場のマクドナルドのハンバーガーを買って帰る。
無謀なチャレンジではない。自分なりに緻密に計画を立てた。内容が、いささか支離滅裂なのは否めぬが……。
異様な出で立ちで、貧乏長屋のボロボロの瓦屋根のきわに立ち、さあ、離陸態勢だ。恐怖心を紛らわせる為、「兄ちゃん、いち、にーの、さん、で飛ぶからね」とか、「兄ちゃん、二、三日で帰るからね」とか、いちいち後ろを振り返り、二階の窓でウチワをもってスタンバイしている妹に話しかける。
意を決し、いざ、離陸。
いち、にーの、さん!
……で、地面に急降下。
離陸と着地が、ほぼ同時である。足の裏が、気が遠くなる程痛い。中敷きを入れておいてよかった。
「失敗だ! 飛んでない! 失敗だ! 飛んでない! 失敗だ! 飛んでない!……」
私は同じ言葉を繰り返し喚き散らし、よろめきながら二階に駆け上がり、妹にウチワのあおぎ方について厳しく注意をする。
「おい、ちゃんと扇いだか? 上向きに、こうやってちゃんと扇いだか? 兄ちゃん、お前のせいで飛べなかったじゃないか」
失敗の原因を妹のせいにする、ダメな兄。キョトンとする妹。
気を取り直し、二度目の離陸。二度目なので、もう恐怖心はない。
飛べる。飛べるとしか思えない。飛べると信じていれば飛べるのだ。
いち、にーの、さん! 離陸。
「すごい! 兄ちゃん、飛んだ!」
後方から妹の叫び声。そう、今度は確かに飛んだ――
――――
プレゼンの日。何日も徹夜をして製作した分厚い企画書を前に、全身がわなないている。無謀なチャレンジではない。自分なりに緻密に計画を立てた。内容が、いささか支離滅裂なのは否めぬが……。
書類の作成に時間を要したが、計画を立案すること自体は、実は意外と簡単なのだ。その案が、突飛で、奇抜な、エッジの効いた考えであればあるほど、立案そのものは容易い。ただし経験上それを実施するのは極めて難しい。それを維持するのは、もっと難しい。
どうする? 引き下がるなら今だ。最後まで責任を持って業務を遂行出来るか。失敗すれば、恐らく降格どころでは済まない。
私の気持ちを見透かしてか、隣の席の課長が、無言で私の背中をポンと叩き、その後背中を数回優しく摩った。さあ、定刻だ、会議が始まる。私は深呼吸を三度して、目を閉じた。おや、瞼の裏に、あの日の続き。
――いち、にーの、さん! 離陸。
「すごい! 兄ちゃん、飛んだ!」
後方から妹の叫び声。そう、今度は確かに飛んだ。勢い良く上空に舞い上がった。
……ような気がした。
離陸と着地、ほぼ同時。着地する時に、右足首をグニった。激痛。悶絶。
帰宅した母に病院に連れて行ってもらう。捻挫した。捻挫で済んでよかったぞと医者に叱られた。母の自転車の後ろに乗り、車輪に巻き込まれないよう、包帯でグルグル巻きになった足を八の字に広げて帰る。
私は思った。足が治ったらまたやろう。そうだ、次は傘を子供用から大人用に変えよう。ウチワだって指の間に上手に挟めば、片手に三つは持てるはず。飛べる。次は絶対に飛んでみせる。
母の背中にぎゅっとしがみつき、私はすでに成功した気分になって込み上げる笑みを、まだ気が早いぞと噛み殺した。半袖ではやや寒い、でも長袖ではやや熱い、そんな秋の始まりの風が、頬をなぶった。
幼き日の自分には、飛ぼうと決めたら即座に飛び立つ、無敵の行動力があった。何度失敗をしても、大空を飛ぶ自分の姿をありありと思い浮かべる、不屈の想像力があった。
海を越え。
山を越え。
アメリカ大陸。
アフリカ大陸。
世界の果てはどこにある。
飛べる。
どこまでも。
飛べる。
今でも。
「それでは、事業拡大プロジェクトのプレゼンを始めます。先ずは、お手元の資料の……」
演説台に立った私は、あの日の私に炊き付けられるように、始まりのページをめくった。