深夜に一人、旅
ボンヤリと、肉塊を眺める。
久しぶりの悪夢だが、いつも通りの光景だ。
「ご……ご…………ん…め…………」
「ん?」
何か呟いた? 雨音のせいで、イマイチ確信が持てない。
……まあ、良いか。
いつも通り傘を差してやって、さっさと目覚めよう。
現実で肉塊を何度も目にした今となっては、夢の中で肉塊を見たくらいでは何とも思わない。
俺は、傘を半分差し出そうと右手を伸ば———
———そこで、目が覚めた———
「はぁ……」
詰まった空気を押し出す様に、大きく息を吐き出す。
肉塊の悪夢は、もう見ないと思っていたんだが……。
まあ、今回はすぐに目が覚めたし良いや。
俺は気持ちを切り替えて、もぞもぞとベッドから体を起こす。
窓の外はまだ暗い、何時だ?
手探りで枕元のスマホを手に取り、電源を入れる。
二時十一分。
……変な時間に起きちゃったな。
ベッドの上にあぐらをかき、なんとなく宙を見つめる。
寝なおす気にもなれない。
明日も学校、あるのにな……。
そんな調子でボンヤリしていると、ジワジワと寝る前に考えていた思考が湧き上がってくる。
……なんかもう、全部から逃げ出したい気分だ。
学校も、悪夢も、現実も、全て投げ捨ててしまいたい。
そんな胸に燻ぶる焦燥感が、どこまでも自分を苛立たせた。
分からないのだ、自分の気持ちが。
俺は府川さんが好きだ。
でも、脳裏ではいつも利己主義的な思考が蠢いている。
俺の行動はどれをとっても、自分の為。
一度だって府川さんの為に動いた事など無い。
そんな事を繰り返すうちに、俺が本当に好きなのは自分のような気がしてならなくなる。
……嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ、全てが嫌だ。
なんで、あんな悪臭を放つ肉塊なんだ?
毒虫くらいなら、きっと俺も府川さんの為に頑張れた。
でも、あの肉塊は駄目だ。
死体を想起させられる。相対するだけで吐き気を催す。筋肉の塊みたいな暴力性が、ただただ恐怖を掻き立てる。
……はぁ、夜は駄目だな。思考が暗くなる。
俺はそこで、気晴らしに外でも歩いてみたくなった。
でも、今は深夜二時。
大人ならばいざ知らず、高校生の俺にとっては深夜の散歩だなんて正気じゃない。
そんな冷静な思考を無視して、俺はどこか熱に浮かされたようになりながら上着の袖に腕を通した。
荷物は……いいや、どうせ少し歩くだけだ。
俺は酷く神経質になりながら、そおっと自室のドアをあける。
父も母も、もう眠っている様だ。
ドアを閉めると、パタンと音が鳴った。
普段は気にも留めない小さな音も、シンと静まり返った廊下では酷く大きな音のように感じる。
俺は少し緊張しながら、父と母の部屋を見た。
「…………ふ」
小さく息を吐く。
こんな小さな物音で目覚める訳が無いと分かっているが、それでも緊張してしまう。
俺は、床を踏むと鳴るギィという音にいちいち息を止めながら、ゆっくりと階段を下りる。
そのまま五分ほどの時間をかけて、俺は遂に玄関へと辿り着いた。
後は、靴を履くだけだ。
……靴を履いたら、いよいよ後戻りはできないな。
じっと、自分の白いスニーカーを見つめる。
どうせ今から自室に戻っても、朝まで焦燥に駆られるだけだ。
俺は靴を履き、玄関のドアを押し開けた。
「……さむ」
外の冷気は、上着を着ていても少し堪える。
俺は体の震えを誤魔化すように、下を向いて歩き始めた。
「は……はあっ……」
息を吐く、白い。
昼はそうでも無いが、やはり夜になると気温が下がる。
これではもう、秋というよりも冬みたいだ。
誰もいない道路に、自分の足音だけが響く。
見慣れた近所の道も、暗いというだけで少し怖く感じる。
でも、そんなちょっとした非日常感も含めて、俺の気分は高揚していた。
ここには、府川さんの寂しそうな声や、香菜ちゃんの不安定な想いみたいな物は何も無い。
闇と、俺だけ。それがどうにも心地よかった。
……ちょっと、自分に酔ってるな。
少し恥ずかしくなって、自分の頬を軽く叩く。
パチン、夜道に音が響いた。
それがまた、少し恥ずかしかった。
夜に一人で何をしているんだ、俺は。
急に冷静になる。
そこで、気づいてしまった。
これは、何も解決しない現実逃避。
いっそ自室でグルグルと思考を巡らせている方が、いくらか建設的だという事に。
利己的な現実逃避、か。
それを自覚したとたん、夜道も闇も陳腐な妄想と同列のモノに成り下がった。
……もう、帰ろうかな?
坂道を進みながら、帰る理由と帰らない理由を同時に探す。
思考は空回り、自己嫌悪ばかりが高まり始める。
いよいよ上り坂も大詰めという所で、もう帰ってしまおうと俺は立ち止まった。
そこでふと、上を見上げる。
「あ……」
目に入ったのは、星空だ。
満天というにはまばらだが、それでも俺には綺麗に見えた。
思わず、見蕩れる。
出来る限り視界一杯に夜空を収めようと、俺は精一杯に顔を真上に向けた。
星なんて見たのは、いつぶりだろうか?
星座なんてほとんど分からないが、右上に見えたアレはたぶんオリオン座だ。
「…………」
何故、光っているというだけでこうも綺麗に見えるのだろう?
…………。
少し、気が晴れた。
夜空は家を出てからずっと上にあったのに、気づかないものだな。
……もう少し歩こう。
俺は再び、夜道に足音を響かせる。
夜空を見たからか、最初ほど暗闇に怖さを覚えない。
どこか日常のように道を進む。
街灯、結構少ないんだな……。
ボンヤリと、当ても無く歩く。
だいぶ体も温まってきて、気も大きくなってくる。
今日は空を見る事ができて良かった。
もう少ししたら帰っても良いかもしれない。
「……っ!」
人だ。
気を抜いていたから、思わずビクリと震えてしまう。
人が前方から歩いてくる。
鼓動が早くなる。
深夜に遭遇したというだけで、どうにも相手が恐ろしい人間のように思えて仕方が無くなる。
とはいえ、俺も同じ穴の貉だ。
バクバクと早鐘を打つ心臓を無視して、自らも恐ろしい人間であるぞという顔をする。
徐々に、俺と前方の人との距離が近づいていく。
二十メートル。
十五メートル。
十メートル。
あ……。
前方の人が、スッと右に避けた。
俺も慌てて、左に避ける。
すれ違う。
……徐々に、足音が遠のいていく。
深夜に歩いているような人も、ぶつからないように避ける気遣いができるのか。
そんな気づきを得て、俺は立ち止まった。
よし、今日はもう帰ろう。
俺はそこで、来た道とは別の道で帰ろうと思い立つ。
「……ん?」
横道に逸れると、少々違和感。
こんな道だったか?
まあ、夜だから違って見えているだけか……。
気にしないようにしつつも、見知った筈の見慣れない道に、少し不安を覚える。
そんな心理状態もあってか、自然と俺の歩みは速くなった。
「なりみ、ねれもすか?」
聞きなれない、低い声。
「っ!」
いきなり、後ろから声をかけられた。
誰だ? というか、俺に話しかけているのだろうか?
そもそも、何と言っていた? 上手く聞き取れなかった。
……どうしよう? 振り返るか?
いや、冷静になれ。
深夜に知らない人から声をかけられるとか異常事態だろ。
タ、タ、タ、タ。
俺は努めて歩行ペースを変えずに、そのまま歩き続けた。
コツ、コツ、コツ、コツ。
正体不明の不審者は、俺と全く同じペースで付いて来る。
タッタッタッタッ。
少し、歩く速度を上げる。
コッコッコッコッ。
同じく、後ろから響く少し早いペースの足音。
……間違いない、付いて来ている。
緊張と恐怖で、頭がおかしくなりそうだ。
どうしよう、このまま家に帰って不審者に家を知られるのはマズイよな?
コッコッコッコッ。
あ、そうだ! 交番、交番だ!
そう思い立った瞬間、俺は気が付いてしまった。
……どこだ、ここ?
心臓が痛い程に早鐘を打つ。
コッコッコッコッ。
知ってる筈の道なのに、まるで見覚えが無い。
不審者に必死で、全く周囲に気が回っていなかった。
必死で冷静を装いながら歩き続けるが、背後から聞こえ続ける足音に嫌でも心を乱される。
もう、今すぐにでも走り出してしまいたい。
コッコッコッコッ。
いや、冷静になれ。俺はそんなに足が速い方ではない。
今の小康状態を保っている方が……でも怖い。
冷静になろうとしても、足音に恐怖を掻き立てられる。
やっぱ走ろ———
コッコッコッコッ。
……次の曲がり角を曲がった瞬間に走ろう。
前方の曲がり角を見据え、俺は覚悟を固める。
後、五メートル。
四メートル。
コッコッコッコッ。
三メートル。
二メートル。
一メートル。
今だ!
俺はスッと右に曲がり、全力で走り出した。
瞬間。
「あっ……」
マズイ、足が絡まった。
そして、俺は順当にバランスを崩す。
後は流れるように地面が迫って、転ぶだけ。
俺は地面に倒れ込み、盛大に膝と手を打った。
強烈な痛みと共に、溜まっていた緊張と恐怖が爆発する。
「うわああああああ!」
馬鹿みたいに叫びながら、咄嗟に仰向けに翻って後方を確認する。
「あ……え……?」
そこには、誰もいなかった。
何で? 確かに足音はしていた筈だ。
茫然と何も無い空間を見つめつづけるも、特に何も起こらない。
少し冷静さを取り戻した俺はゆっくりと立ち上がり、試しに軽く地面を蹴ってみた。
タッ。
……コツ。
もう一度、今度は少し強めに蹴る。
タンッ。
……コツンッ。
もしかして、音が反響していただけ?
俺は最後に、確認の意味も込めて軽く手を打ち鳴らした。
パンッ。
……パッ。
分かり易く、音が反響する。
「は、はぁー、なんだよ……もう」
俺はどっと気が抜けて、思わずその場にへたり込む。
本当に怖かった。
やっぱり、深夜に外なんて出歩くべきじゃない。
俺はしばらくへたり込んだ後、ゆっくりと立ち上がって汚れた膝と手を払う。
あ、血が出てる。
最悪だ、こんな歳にもなって転んで血を出すなんて……。
よし、水で傷口を洗いたいし、もうさっさと帰ろう。
そう思って歩き出した瞬間―――
「なりみ、ねれもすか?」
すぐ後ろから聞こえてきた低い声に、ゾワリと首筋の毛が逆立った。




