悪夢が終わる日
雨が、降っている。
いつも通り俺は傘を差していて、見慣れた知らない田舎道に立っている。
道端には雑草が生えていて、空は薄く夕焼けに色づいている。
こんな場所は知らない筈なのに、どことなく懐かしさを感じる風景だ。
そして、いつも通り視界の端には、
腐敗臭を放つ、
脂で構成された芋虫の様な、
沸き立つヘドロの様な、
人間大の気色悪い肉塊が佇んでいる。
いつも通りだ。
ここの所、毎日この悪夢を見ている。
だというのに、吐き気を催すこの肉塊には、いつまで経っても慣れやしない。
景色だけ見れば、理想的な田舎道なのにな……。
いや、むしろ理想的だからこそ、余計に肉塊が心底不愉快な汚点に映る。
だから俺はいつも通り、足早に肉塊の前を通り過ぎる。
あんな得体のしれないもの、関わらないのが正解だ……。
正解なのに……ポツンと独り佇む姿が、頭にこびり付いて離れない。
濡れてる姿が、変に悲しげに見えるのだ。
結局、俺はいつも通り引き返す。
そして異臭を放つ肉塊の横に立ち、そっと傘の下に入れてやるのだ。
肉塊に傘の半分を差し出したのは、別に俺が優しい人間だからという訳ではない。
ただ単に、怖いだけだ。得体の知れない不気味な肉塊が。
故に、利己主義者にして小心者の俺は、肉塊のご機嫌をとる事でしか安心を得る事ができない。
とはいえ、傘の全てを差し出すという完全降伏行為の道は選ばずに、肉塊との相合傘を選択をした俺は、小心者共の中では図太い方だと言えるだろう。
雨の冷たさが消えたからだろうか? 肉塊が小さく伸縮する。
これも、いつも通りだ。
昨日も、一昨日も、先週も、肉塊はこのタイミングで蠢いた。
それでも俺は、肉塊が動くとギョッとする。小心者の性だ。
果たして、この肉塊が示した身じろぎという反応は、好意か? 悪意か? 皆目見当もつかない。
とはいえ、いつも通りなら、あと数分もすればこの悪夢は終わる。
だから問題はない。
尤も、その数分が恐ろしくて仕方が無いのだが。
相も変わらず、肉塊は蠢いている。
本当に気持ちが悪い、吐きそうだ。表情にはおくびも出さないが。
俺は、表情を取り繕うのが得意だ。
恐らく学校の人間は皆、俺の事を真面目で人畜無害なクラスメイトだとでも思っているのだろう。
そしてそれは、俺と一番仲の良い府川さんも例外ではない。
俺の本性を隠したまま、告白なんてしても良いのだろうか?
……いや、もう告白すると決めたんだ。
はあ、夢の中なのに少し緊張してきた。
とはいえ、俺には勝算がある。
府川さんと俺は、恐らく両思いだ。
府川さんから好きな人はいるか聞かれたし、俺が男子の中で一番多く府川さんと話してる。
それに、悩みの相談も何度か受けて、毎回結構いい回答を出してる。
……あっ、あと毎日一緒に帰ってる。
うん、大丈夫だ。
成功率は、七割は堅いと見て良いだろう。
そんな調子で自分を安心させていたら、いつも通りに悪夢は終わっていた。
+++++
「優太郎! 起きなさい! 香菜ちゃん待ってるよ!」
母の声で目を覚ます。
どうやら今日も、俺の耳は目覚ましの音を聞き逃したらしい。
俺は昔から寝起きが良い方だったのだ。
だというのに、悪夢を見るようになってからは、めっきりと朝に弱くなってしまった。
吐き気も酷いし、いいかげん何か対策を考えないとな。
昨日のうちに準備しておいたカバンを引っ掴み、母親からおにぎりを受け取って家を飛びだす。
幼馴染の香菜ちゃんは、既に玄関口で見慣れた仏頂面を浮かべて待っていた。
「おはよう、お兄ちゃん。いつも通り眠そうだな」
「おはよ、香菜ちゃんは元気そうだね」
「お兄ちゃんと違って運動不足じゃないからな」
「まあ、運動は、うん。俺もそのうちにね」
なんてこと無い会話だ。
だが、悪夢を見始めてからは、この登校時間に救われている。
「そういや、蓮一は最近どんな感じ?」
「蓮一兄さんは、いつも通り。何の反応も無い」
……相変わらずか。
あんなに良い奴が急に廃人になるなんて、世の中は本当に不公平だ。
「また、お見舞い行くよ」
「うん、蓮一兄さんも喜ぶと思う。一番仲良かったの、お兄ちゃんだし」
「いや、蓮一とは香菜ちゃんの方が仲良かったでしょ」
俺の言葉に、香菜ちゃんは小さく鼻を鳴らす。
「普通、兄妹は仲が良いものだから。私は別枠」
「そういうもんなの?」
「私と同格になろうだなんて傲慢だぞ、お兄ちゃん」
不敵に笑う香菜ちゃんを見て、俺は思わず噴き出した。
そこでようやく、俺の脳内に絡みついていた悪夢の恐怖が抜けきるのを感じる。
やはり、コミュニケーションは偉大だ。
「ところでさ、さっき運動してるみたいな事言ってたけど、何やってんの? たしか香菜ちゃん部活やってないよね?」
「素振りと走り込みだ」
「え? 走り込みは分かるけど、素振り?」
「そうだ」
それが何か? みたいな顔してるけど、素振りって健康の為の運動としてはマイナーな方だろ。
公園で一人バットを振り回すのか?
都会の公園ならまだしも、こんな田舎じゃあんまりそういう人はいないだろ。
「……あ、野球のクラブとか行ってるのか」
「いや、バールの素振りと走り込みだ」
「え?」
「バールの素振りと走り込みだ」
「あ、そう」
バールって、素振りに使って良いのか?
なんか、銃刀法違反とかにならない? 大丈夫?
結局俺は、怖くてバールの素振りに突っ込めず、最近の学校であった事みたいな、つまらない話に花を咲かせた。
学校の裏庭に出没する猫の話がひと段落すると、急に香菜ちゃんが真面目な顔を作る。
「そういえば、件の府川さんとはどうなったんだ?」
「……へあ、うん。今日、こ、告白しようと思ってる」
告白って言うのが恥ずかしくなって、どもってしまった。
キモすぎる、最悪だ。
「ふふ、頑張れ」
香菜ちゃんは目を細めて笑いながら、優しく応援してくれた。
なんか、蓮一が廃人になる前に戻ったみたいで少し嬉しい。
「まあ、恐らく勝率は七割くらいだし大丈夫」
なんなら、たぶん府川さんも俺の事好きだし。
「七割……微妙に低いな。まあ、応援してるぞ」
「うん、ありがと」
香菜ちゃんは本当に優しいな。
俺の恋愛相談にも乗ってくれたし、香菜ちゃんに好きな人ができたときは俺も相談に乗ってあげよう。
「あ、そろそろ校門だね。じゃあ、また」
俺の言葉に香菜ちゃんは小さくうなずき返し、一年生の教室の方へ歩いて行った。
小さい背に似合わず、堂々とした足取りだ。
……香菜ちゃんは、いつまで蓮一の口調を真似るのだろう?
蓮一が回復するまでだろうか?
こうやって香菜ちゃんと別れて一人になると、たまにそんな疑問が過る。
まあ、俺が何をしても余計なお世話だろうという結論が、毎回出るだけなのだが。
俺は生徒の群れに消えた香菜ちゃんから目を逸らし、自分の教室へと歩き出した。