悲愛
楽園
私の家から少し歩いたところに、とても大きな荊の森がある。気味が悪いし変な噂もたっているから、そこには誰も近寄らない。
でもある時、私はふと、荊の向こうに何があるんだろうと思った。
好奇心に逆らえず、探検してみることにした。
深い深い闇の中、手さぐりで進んだ私を待っていたのは、綺麗な硝子細工の城門。
荊は硝子の国を覆い隠すためのカモフラージュだったようだ。
この国の全ては硝子で作られていた。
硝子の花畑は太陽を食べて、そのまま光を天へと還す。
硝子の人々はみな楽しげな唄を歌い、幸せそうに踊っていた。
硝子の機械、硝子のお家、硝子でできたお店たち。
各々の鮮烈な光が私を囲み、覆ってゆく。
「ああ、なんて侵し難い景色なのだろう…」
「ずっと此処にとどまりたい…」
そう自然に願ってしまうほどの景色に息を飲む。なぜ今まで誰も近づこうとしなかったんだろう。こんな得難い風景がずっと、すぐそこに広がっていたというのに。
そのまま、そのまま、何時間も、何時間も。
感動に立ち尽くす私をおいて、陽はどんどん落ちていく。
周りを照らす色が白から赤に近づいて、やがて青く、暗くなる…。
夜。この国は、寂しいくらいに静かだった。
昼の賑やかさはなくて、光を浴びられぬ硝子たちは、まるで氷みたいだと感じた。
風が吹くたびに、それは硝子同士をこすらせてチリンチリンと涼しげな音を鳴らす。そんな音だけが、この世界の全てだった。
それからしばらくして。
いまだ呆然として動かない私のもとに、一人の老紳士が歩いてきた。コツ、コツ。硝子製の足は、軽快に音を鳴らしている。
「やあ、旅人さんよ。君は何をしにきたのかね?」
老紳士は、優しげな声で問うてきた。
「荊の先に何があるのか、気になって。それで此処にきてみたら、あまりにも美しかったので。ずっと此処にとどまりたいって思ったんです」
そう答えると、老紳士は不安げな顔をのぞかせた。
「ふむ…。では、今はどう思う?華やかな輝きも、心地よい喧騒も、今の此処にはないじゃろう。お前さんにとっては残念かもしれないが、此処は本来、こういうところなんじゃよ。昼間の景色なぞ、旅人の高揚が見せた、蜃気楼のようなものにすぎん」
その真意が、私には分からなかった。だって。
「私は、残念だとは思いません。そもそも、今の此処だって十分以上に美しいじゃないですか。静かで、寂しくて。だから嫌だなんて、私は感じませんでした。
静かな夜があるから、鮮やかな昼をより感じられるんです。逆も同じで、二つとも私が感動した硝子の国そのものです。だからこそ私は、ずっとここにとどまりたいって思ったんですよ」
私の返答を聞いた老紳士は一瞬驚いたような顔をしたが、それはすぐに満足げな笑みに変わった。
「それならいつでもここにおいで。君が此処を忘れない限り、此処も君を忘れはしないよ」
そう言い残して彼は帰っていった。
コツ、コツ、コツ。硝子細工の老紳士は、静かな夜に溶けていく。
私はそれを見送りながら、確信したのだった。
…ああ、私にとって、この国は紛れもなく。




