杞憂
不安なんだ。始まりは僕が幼少の頃に初めて人を見たときだった。二人は僕を抱き抱えて、優しく微笑むんだ。僕はそれが嬉しくて、幼いながらに幸せを知るんだ。そして、二人の胸から離れたとき、幸せが無くなったと心細くなって怖くなるんだ。
不安なんだ。さらに強い不安を感じたのは僕が少年の頃に転んで足を怪我してしまったときだった。母が急いで寄り添ってきて、悲しげな顔をするんだ。僕が涙を拭いて立ち上がると母は優しく抱きしめてくれて、僕は母の暖かさを実感するんだ。そして、この暖かさをいつか感じれなくなるんだと悲しくなって、今この瞬間にそうなってしまうかもしれないと怖くなるんだ。
不安なんだ。さらに強い不安を感じたのは僕が青年の頃に彼女に振られたときだった。君は僕の壊れた顔を横目に冷たくそっぽを向いて、僕の横を通り過ぎるんだ。君と見た思い出の数々が脳裏をよぎって、僕は君にどれだけ助けられていたのかを知るんだ。そして、僕を苛む虚無感が君との思い出を心に刻む傷跡になって、人が恐ろしくなってしまうんじゃないかと怖くなるんだ。
不安なんだ。さらに強い不安を感じたのは僕が壮年の頃に結婚式を挙げたときだった。僕は愛する妻と横に並んで、家族や友人を前に大きな幸せに包まれるんだ。みんなが揃って涙を流しているのを見て、僕はこんなにも多くの人に愛されていたんだと実感するんだ。そして、僕はそんなみんなを前に期待に応えられるのか怖くなるんだ。
不安なんだ。さらに強い不安を感じたのは僕が中年の頃に家族とのアルバムを開いていたときだった。僕は一枚一枚大事に写真を取り出して、じっくりと時間をかけながら妄想にふけるんだ。赤ん坊の頃から大事に育ててきた息子たちを思いながら、僕は寂しさを知るんだ。そして、僕は良い父親に成れていたのか、その有り余る時間の分だけ怖くなるんだ。
不安なんだ。さらに強い不安を感じたのは僕が熟年の頃に妻の葬式を挙げていたときだった。僕は涙を流しながら心を込めて弔辞を読むんだ。僕は妻との最後の時間を惜しみながらも、彼女から貰った幸せの分だけ悲しみを知るんだ。そして、僕は彼女に未練や悔いを与えてしまっていないか怖くなるんだ。
不安なんだ。さらに強い不安を感じたのは僕が老齢の今、病室で親族に囲まれているときだった。一つのベッドを取り囲む親族たちは涙を流しながら静かに僕を見つめるんだ。ゆっくりと薄れゆく意識の中で、僕はたくさんの人へ向けた大きな感謝を実感するんだ。そして、僕は様々な思い出と喜びをくれたみんなに、感謝の気持ちを返すことができていたのか怖くなるんだ。