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夢のようでもありましたし、夢も見ました

作者: 繭水ジジ

 夢のようでもありましたし、夢も見ました。

 ただただ布団が暖かく外に出たくはないように引き篭もってはいますが、それでもしっかりと足は歩みを感じていますので幽霊といったものではなく、しかしそれだけの理由で生きているといえるほどに、やはり夢のようにふわふわとした毎日なのです。

 時には本当に幽霊にでもなってしまったのかと思って「あ」と声を出しますと、その時に限って誰かが居るもので、聞こえているか試しているのにいざ聞かれてしまうと途端に恥ずかしくなって、どうしたのかと尋ねられると返す用事も思いつかず、しかしお腹の下がどっしりと熱くなるような安心を覚えて、つまりはひとと話すことひとつにも私は舞い上がっては沈んでいるわけです。

 例えるなら鶯が鳴いても姿が見えないように、鶯は私を見つけてもどうとも思わないように、何もかもから切り離されて独りふらりと寄った夢がありました。何ということもなく、何ということもないように屋敷に居ることを許されています。

 おそろしくも思えましたし雲を掴むようなことでもありました。ただ決して、覚めてほしいと思ったことだけはありません。


 きしり、とひとつ床を鳴らして歩くと、どたどたと聞こえてきました。私を見つけて掌を見せると私にもそうしろと手を重ねてきます。ホムラの掌はしっかりと温かく、ただ一瞬の出来事ですが、それが毎回のことですので、この一瞬の体温を集めたらいつか私は火照ってしまうのではないかと、それもいいのではないかと思います。

 私も同じくらいの年齢ですので学校へ行くことを勧められましたが、曖昧に返しているうちにホムラはそれを言わなくなり、物寂しく感じた頃にまた勧めてくるので段々と気になってしまい、つまり徐々にと乗せられているわけです。いつかホムラの勉学の様子を見に行くのであれば、屋敷ではそうそう見ることもありませんから、そういうこともあるかもしれません。私は勇気というものを育てるのに時間が掛かり、ひとつでも摘み取ってしまえるほど枝葉を広げていないのです。

 ホムラは私を乗せるときに決まって「ミリイは男子にも女子にも持てる」などと冗談を言うので「そうならなぜ私はこの屋敷で持てないのですか」と返すと倒れ込んで見せたりもして、それがおかしくて、私は学校に行かなくても、むしろ行かないほうがホムラの話を楽しみに待つことができるのではないかと思うのです。

 ホムラが屋敷を離れると世界が変わってしまったかのように静まるので、あまりの音のなさに耳鳴りさえ聞こえるほどです。寂しくもありますが帰ってきてまた元の世界に戻る毎日が私の拠り所になっています。


 屋敷は広く、大勢が住んでいるにしても誰も目に入らなくなる景色もしばしばで、もしかしたらみんな消えてしまったのかと疑いたくなるほどの静寂があります。それで私のほうが消えてしまったのではないかと思うと恥ずかしいことになるのですが、ただやはり木造らしく、廊下を歩けばきしきしと鳴りますし、畳を掃けば掠る音や、見上げればどこか呼ばれて聞こえるようなずっしりと構える煤けた梁の姿があるわけで、庭へ出ると砂利の白玉が足音を知らせますし、飛び石に木の葉が落ちる音や、その木々の葉は風に唄っているわけです。

 いつも決まった通り道というのがありまして、昨日の足跡をなぞらないといけないわけではないのですが、どうも落ち着くには私にはこれがいいようなので、砂利のひとつでも踏み外してしまうと、この高く長い階段から落ちる思いとまでは言いませんが、どういうものか居心地の具合のようなものであり、身を引き締めるために毎日毎回と同じように砂利庭を歩いて通って門をくぐっては階段まで辿り着くわけです。

 高く長いいっても何段あるかはわかりませんし、数えていてもなぜだかその都度の数が合わないのですが、上にも下にも歩けば着くのは間違いありません。皆がそうして行き来をする階段があり、森の隙間の眺めのついでに遥か下には町が見えます。

 手すりというものが一応は端に設けられてあるのですが、アルミ製かなにかで何色とも言えず、石階段の灰色を映しているのか丸く空を映しているのか、さらに端からの木々の葉が映ってもいて、手すりはそう新しくはないとしても、屋敷の風貌といえば比べ物にならない歴史があるようですので、千年も二千年もしなければアルミ製というものが馴染むことはないのは私から見ても明らかです。落ちて転がる先を見るためではなく箒を掃いて下っていくのですが、これが気の飲み込まれるような仕事でして、特に隅の落ち葉になりますと互いに恨みでもあるかのようにしつこく掃き出しては渋られるわけで、落ち葉も自然のひとつなのだから放っておいても情緒があるのではと思ったところ、やはり雨でも降れば泥が溜まりますし、ここからずっと周った裏庭ことですが落ち葉どころか草や苔や藻のようなものまで生えていますので、掃除を情緒で済ませると果ては廃墟のようになってしまうのではないかと考えを直したことがありました。ともあれ自分の影と競うように箒を擦り、時おり気を遠くしてはふらりと倒れてでもしたら誰にも知られずにどうなるのかと、そう考えもしながら一番下まで着いてようやく郵便ポストが立っているわけです。初めてここへ来てしばらくは道路へ続く大階段に飽きもせず、今も飽きているわけではありませんが、落ち葉を掃き落とすだけにいつの間にか朝から昼に変わっていたり、箒を手にただただ佇んでいたこともありました。屋敷の門は階段を昇りきったところに構えてあるのですが一番下には敷地と公道の境目があるわけですから、やはりここから出ると夢が覚めてしまうような、ここから先は他所の人間になってしまうような、どちらもそんなことはないのですが、やはりホムラがいなければ寂しく、寂しいことが頭をよぎってしまうのです。


 正直に言いますと、今もよくわかってはいません。

 この屋敷で商売をしているわけではありませんし製造という言葉でも顎が言うことを利かず、ただ作っていると言うと素直に頷けるのですが、果たしてそれで正しいのかと、紙をひたすらに折っている各々の姿を見て思うのです。

 それぞれは仕事であると思うのですが、具体的に疑問を言えばお金です。その糸口になりそうなものといえば私が郵便ポストから屋敷に上げる手紙の束なのですが、輪ゴムは一本や二本ではなくこれすら束になって縛られていて、時にはゴムがちきれそうなほど配達員は重ねてくることがあります。厚さも大きさもまちまちですし宛て名の筆跡もそれぞれで、これが日に一度ではなく私の当番でない夕方にも送られてくるので居間の机は手紙が山積みになり、中には屋敷の誰か宛ての手紙もあるので各々が宛て名を見ては部屋に持ち帰っていくのですが、おおよそは屋敷に宛てたもののようで婆さまの部屋に運ばれるわけです。気にはなっても疑いはなく、いずれわかるものともわからずとも良いものとして、私はただ居間の広い机の上に届けているだけです。

 その居間の襖を開けて隣りが作業場なのですが、敷居さえなければ畳は繋がっており、大振りの台に紙やら箱を置いて日中も、今のように夜まで差し掛かることもあります。そこへ各々が正座を並べて向かい合い、さぞ厳粛な作業が始まるのかと思いきや、たまには町で聞いたというような噂話もあったりして、作業の手は止まりませんが誰かがお茶やお菓子を用意すれば今度はお喋りで忙しくなるようで、つまるところなにをしているのか私は一言で表せずにいます。

 ホムラといえばこの襖を開けて覗いてまた閉めてと、テレビを観るのも宿題をするのも独りではつまらないと言って結局は台に混じっているわけで、ヒトの形を折っているわけです。私は始めて聞いたときには逆さに見ていましたので、それがヒトであるとは甚だ思えず上下を返して「ああ」と感嘆の息が漏らしてしまい皆に振り向かれることがありました。

 ただそれだけではなく短冊であったり柳のような形であったり、桔梗の花や菫の花であったり、色鮮やかな平面も可愛らしい立体も、この大部屋には溢れるほど不思議な折り紙が置かれてありますので、ただずっと見回して眺めている間にも台の上の作業は進み、出来たものは箱に入れられ蓋が閉まり、また新しく紙束が出されていきます。真っ白な紙も色付きの紙も、優雅な柄の千代紙もありますが、鶴を折っているのはお菓子の包み紙ですから箱にも入れられず空も飛べず、台の上でどこにも行かず泳いでいるわけです。そこへ、どしんと紙束が積まれて一人が鶴に付けた名を呼びました。ジョセフィーヌと叫びましたがこの間はリンタロウと名付けていましたか。気づいたトーコが紙束を上げると潰れて魚のようになった鶴が干からびて、誰もが嘆いています。

 長々とした文字か歌か、まるで呪文のようでもありますが、そういったものを筆で書いている姿がトーコです。それが仕事らしく、それだけではなく各々に指示を出すことで作業が進んでいるようで、それも婆さまの指示だそうで、すると婆さまが屋敷で最も偉いわけです。トーコはしばらく天井への物思いにふけってから筆を走らせていきました。いくらかしては休みまた筆が進んでと、それがいつものトーコのやり方です。動くときと止まっているときの姿が誰から見てもわかりやすく、動くときは誰の話にも乗らず一心不乱とでもいうほどに書を走らせ、止まっているときには廊下まで膝で歩き庭を眺めて煙草や珈琲を嗜んだりとしていますので、結局のところよくわかっていない私が皆のやっていることを仕事だとわかるのはトーコが動いているからなのです。


 日が明けてすぐは各々が場所を受け持って毎日の掃除に掛かってはいますが、時に誰かと誰かは手を止めて話し込んでいたり一人であれば体操を始めたり、箒と丸めた紙くずでスポーツのようなことまで始めてしまいます。婆さまはさぞ叱ると思いきや始末の様子をほほえましく眺めていたり、箒を渡されると一緒になって振り回したりもして周りは老体の心配に至っております。

 部屋のひとつひとつがとても見渡す限りにまで広いわけではありませんが、庭は広く母屋は入り組んだ造りですので、それだけ廊下は長く折れてはまた折れてと、一本道でなければ、あるいは止まって雑巾掛けでもしていると来たほうを迷うこともあるくらいです。外には離れも蔵もあり、もちろん私は入ったことはありませんが、外から見ているだけでもどこか拒まれるように圧倒され、それはなぜだかわかりませんが敷居を踏まないよう叱られる前に気持ちが踏むことを拒んだときのように、図々しさやおこがましさの混じった、屋敷の雰囲気としては違和感のある言い様ですが煩悩とでもいいましょうか、そういったものから身を律するように、この屋敷には行いを正す不思議な力があるように思えてならないのです。

 庭もそのように、しんとした寒い日でなくても砂利の白玉が雪が積もるように敷かれていますし、塀を内に囲う松の木の枝にも雲さえ重なればまた雪の積もるように見えて、冷たく清められた風が屋敷に訪れては休みまた町のほうへと下っていくと、吐く息を白くするのが申し訳なくなるほどに、いっそ屋敷の隅の蔵の裏にでも隠れて暮らし生涯を終えるときは階段から転げ落ちて公道まで辿り着かなければならないとすら思うのです。

 ともあれ毎日の掃除といえばそう気の張るものではなく、しかし聞く話では年に一度の大掃除というものがあるそうで、私が来るふた月ほど前に過ぎたようですが屋敷中が大わらわに箒をはたきを雑巾をと繰り出し、町からも得意の酒屋や商店の仕出しや年末の挨拶といった、客といえば普段からすれば珍しいのですが、一年の残りが一度に押し寄せたかのように屋敷は忙しなかったと聞きます。大掃除という言葉だけでホムラはげんなりとした顔になりますが、私からするとホムラならいざ大掃除というものが始まればその気だるそうな顔もいっそ明るくしてしまいそうに思えて実は来年が楽しみでもあるのです。

 手先の不器用な私は作業に加わっても笑われてしまいますし、かといって学校へ行くなり外で働くなりというのも心の準備が整わずにいつになるやらで、皆が優しくはしてくれますが、それで気を晴らしていては風に追い出されてしまいそうで、何をしても役に立たず、食事も寝床も申し訳なく、せめて恩返しにと洗濯機などをいじりますと家事は惨事になってしまい、また皆に励まされては申し訳なく思い、最近になって転げ落ちてもいいような階段を掃くことを覚えたわけです。

 詰まる話が私は屋敷で仕事とかこつけて出来るだけ人のいない場所に居るだけなのです。一日の隙間を埋めるように自分の隙間を埋めているだけなのです。



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