『考えていそうな人』
その一週間後、絵が完成したという連絡を受けた僕は、再び甲宮さんの家を訪れていた。
この一週間、いろんなことを考えた。
本当に絵を受け取ってしまっていいのだろうかと性懲りも無く悩んだし、もらうのだとすればお礼に何を渡せば良いのだろかと、これまでにないくらい思い煩った。
僕も絵を描いて、彼に渡そうか――と一瞬だけ考えて、すぐに撤回した。僕が筆を振るったところで、そんなのはお礼にならないだろう。とてもじゃないが、そんな畏れ多いことは出来ない。
結論。
僕は、定石通り菓子折を持って、甲宮さんの家を再訪することにした。町の老舗の和菓子屋さんで買った一品である。
……彼の絵に対するお礼としては全然足りないが、そこは妥協しよう。
十数年待ってもらったところで、適切なお礼なんて準備できるはずもないのだから。
「どうぞ、お入りください――自分で言うのもおかしいですが、なかなかの傑作ですよ」
一週間前と変わらない朗らかな笑顔で案内されたのはもちろん、あの部屋だ。アトリエと生活空間と応接間を兼ねる、一番奥の部屋。
部屋の中央に少し背の高いイーゼルが置かれ、その上に白い布がかけられている。あの布の下に、『考えていそうな人』は隠れているのだろう。
期待と興奮が最高潮に達する。
『亀専門の画家』が描く人物画――それが今、すぐそこに、布をたった一枚隔てた先に、存在しているのだ。
早く見てみたいと、どうしても気持ちが急いてしまう。
「では、御覧になってください。気に入ってもらえるといいんですが……」
パッと、白いヴェールが取り除かれる。
――鏡だ。
……いや、違う。
鏡じゃない。
「……」
これはかがみじゃないまぎれもなくえだ。
えだ。
えである。
えでしかない。
かかれている。
えがかれている。
ぼくが。
ぼくを。
ぼくが。
ぼくだけが。
えがかれている。
「……」
そこには。
僕という名の亀が、描かれていた。
亀。
爬虫類カメ目に属する――長寿の象徴ともされ、体を覆う固い甲羅が特徴の動物。
最初に断っておくと、これは別に、僕が実は亀だったというオチではない。僕は生まれてこのかた十六年間、僭越ながら人間をやらせてもらっている。亀になった覚えはないし、人間をやめた記憶も無い。
しかし――ここに描かれているのは、紛れもなく僕であり、間違いなく亀なのだ。
艶やかであり、同時に荒々しい肌を持つ巨大な亀は椅子に座り、水かきと鋭利な爪を携えた腕を首元の辺りに回しながら、どこか遠くを悩ましげに見つめている。
視線は鋭く、目元を覆う隈は鱗のようにも見える。胴体を構成しているのは亀の甲羅であり、その模様も甲羅そのものだが、一度瞬きをしてしまうと、僕があの日に着ていた服の柄と見分けがつかなくなる。二度目の瞬きをすると、甲羅と服はまったく同一のものになってしまった――もう絶対に区別できない。完璧に同じものとして、脳が認識してしまったのだ。
四肢のそれぞれの骨格は、人間と亀では全然違うというのに、不気味なくらい自然に胴体と繋がっている。陸上を自由に歩ける体付きではあるが、この生き物が水中を泳いでいたとしても、誰もそれを人間とは思わないだろう――間違いなく、大きな亀だと思うはずだ。
見れば見るほど、人と亀の境界線が曖昧になっていく。人間と亀は、実は同じ生き物なんじゃないかと、そう思えてしまうほどに。
これは亀であり人間であり、そして、僕でもある。
僕以外の人間だと言うことは、僕が許さない。
説明しろと言われても出来ないけれど、これは十中八九偽りなく僕だと断言できるのだから仕方がない――鏡を前にして、隣の人間に「鏡に映る像が自分であることを証明しろ」と言われても、説明できる人なんていないはずだ。それでも、しかし、ほとんどの人は、鏡に映るその姿は自分だと、そう認識しているのだ。
「どうでしょうか?」
どこかから、誰かの声が聞こえる。
水中で聞いているかのように濁った声が、僕の耳を通過していく。
「さいきんかいたえのなかでは、だんとつでよいできなんですが……」
彼の絵は一部のマニアの間で人気なのだと――友人は確かそう言っていた。その理由が、ようやく分かった気がする。
これは、誰でも感動できる絵だというわけじゃない。描かれた本人にしか分からない価値なのだ――僕以外の人間には、これが僕だとは決して分からない。僕の癖を知っている親や友人であっても、この絵に僕が描かれているとは思わないだろう。ただ亀を模写しただけだと思うか、鋭い人だとしても、「ちょっと変わった形の亀だな」くらいにしか思わないはずだ。
マニアとは、つまりそういう意味なのだ。
描かれた者だけがファンになる、絵画。
「あの……だいじょうぶですか?」
「……んぁ、あ、はぃ――」
甲宮さんに、ぽんと肩を叩かれて、ようやく我に返る。
けれど、上手く声が出せない。本当に亀になってしまったのかもしれない。
大丈夫なわけないじゃないか――まったく全然、これっぽっちも大丈夫なんかじゃない。
こんな絵を見せられて。
こんな、常軌を逸脱しきった絵を見せられて。
驚愕だとか衝撃だとか感動だとか、そんな言葉では足りない。その程度の単語たちでは、完全に力不足だ。
それでも敢えて言葉にするなら――言葉にならない感情を、無理矢理にでも表現しようとするならば。
そう……これは、多分――あれに近い。
恐怖。
突然、未知の何かに真正面から出会ってしまったかのような、恐れ。
僕は心の底から、この絵が怖い。
怖いのに、目が離せない――もう見ていたくないのに、亀が僕に食らい付いて放してくれない。
「体調が優れないようでしたら、休んでいってください。また、部屋をお貸ししますから――」
「い、いえ――」
甲宮さんからの提案を即座に断りつつ、僕はギュッと目を瞑る。そのまま顔を動かし、あの絵が視界に入らない方向へと、なんとか視線を逸らす。
亀を引き剥がす。
自分を、元の世界へと引き戻す。
「いいえ、甲宮先生。もう、大丈夫ですから。休ませていただく必要は――ありません、から」
「そうですか?でも、まだ顔色が――」
「甲宮先生」
今度はハッキリと、甲宮さんに呼びかける。
先ほどとは打って変わって、しっかりと目を見開きながら、彼をまっすぐに捉える。
彼もまた、僕の目を見た。
何を聞かれるのか、悟ったような目で。
「教えてください、甲宮先生。先生の絵を見て、こういう反応をしたのは――僕が初めてですか?」
「……」
「責めるつもりはないんです……ただ、知りたくて」
気付いたきっかけは、甲宮さんの就寝部屋だ。
あの部屋は、僕の宿泊が決まった直後に甲宮さんが掃除したわけでもないのに、非常に清潔に保たれていた。しかし思い返してみれば、あそこまで掃除が行き届いていたのは、少しおかしかったのだ。最初に部屋を見たとき、生活力の高さを感じ取ったのは間違いだった。「生活感の無さが窺える」というのが、正しい感想だったのだ。
就寝部屋というプライベートな空間である以上、どんなに気を付けていても、生活感というのは残ってしまうものだ。毎日使用しているのに埃一つ無いだなんて、さすがに不自然である。
だけど、もし、自分で使っていないのならば。
自分の絵を見た客が体調を崩してしまうかもしれないと見越して、あの部屋を来客用寝室に充てると決めていたならば。
過剰なほど綺麗にしておくことは、まあ可能だろう。
自分はソファなどで寝ればいいだけの話だ。まるっきり使っていない部屋なんて、数日に一回掃除すれば、清潔に保つことが出来るのだから。
つまり、甲宮さんの絵を恐れて体調不良になったのは、僕が最初ではないはずなのだ。
経験に則した気遣い――それに基づくおもてなしをしっかりと準備しているところを見れば、それは明らかだ。
そして、その事実を事前に僕に伝えなかった理由もまた――
「何故、なんでしょうね……」
甲宮さんは俯き、「本当にごめんなさい」と頭を下げた。
悲哀と不安が、彼の顔を覆う。
「たまに、こうなってしまうんです――絵を見た瞬間に顔が真っ青になって……酷い人だと、丸一日寝込んでしまう方もいました」
申し訳なさそうに、彼は呟く。
罪人が神父の前で懺悔をするかのように、か細く暗い声で語る。
謝らないでほしい……甲宮さんが反省する必要なんてないのに――当たり前のことを、当たり前のように行っただけなのに。謝罪の言葉なんて、要らないのに。
だが、彼は許せないのだろう。
才能を言い訳にしたりはしない。
自分のせいで誰かが苦しんでしまう――その事実を、甲宮さんは看過できないのだ。
「どうしてなんでしょう……どうして、こう、私の絵は――私の人物画は、異様に映ってしまうんでしょうか?私はただ――」
ただ、描いただけなのに。
自由に、好きなようにヒトを描いただけなのに。
「甲宮先生……」
口を開いたものの、そこから先の言葉を紡ぐことは出来なかった。
「謝らないでください」とか、「そんなに落ち込まないでください」とか、そんな、安っぽくて無責任な台詞しか思い付かない。甲宮さんを激励するには、やはり、僕はまだまだ未熟者すぎるのだ。彼を鼓舞する言葉なんて、僕には持ち合わせがない。
どうしていいか分からず、唇を噛む。
『亀専門の画家』、甲宮仙治。
その計り知れない才能を前に――僕は、ただただ立ち尽くすことしか出来なかった。




