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暗闇を這う

 ごろん、と寝心地の良いベッドの上に横になる。軽く(きし)んだものの、ベッドは問題なく僕の体を受け止めてくれた。

 とは言っても、ここは自宅の自室ではない。場所は相変わらず、甲宮(こうみや)さんの住まう家。その中の一室を、僕が宿泊するための部屋として貸してくれたのだ。

 あの後、甲宮さんとは絵画の話題で更に話し込んでしまい、気がついた頃には日が暮れていた。泊まっていってはどうかと勧められたときには、一度は断ろうかと思ったのだけれど、窓から外の景色を見て、考えを改めた。 

 あまりにも暗すぎる――これほど濃い闇に囲まれながら山道を下りるのは、無謀にも程があるだろう。同じ田舎町でも、街灯のある町中(まちなか)と比べてしまうと、天と地の差だ。文字通り、天国と地獄くらいの明暗の差がある。

 そんなわけで、最終的には甲宮さんのご厚意に甘えさせてもらい、一泊することにした。

 「私の就寝部屋をお使いください」と通された小部屋は、ベッドとタンス、収納棚が一つずつあるだけの簡素な一室だった。普段、甲宮さんが寝起きしている部屋を使わせてもらうのはさすがに申し訳なかったのだが、遠慮しようとしても彼は折れなかった。「お客さんを床で寝かせるわけにはいきません」と、引き下がらなかったのだ。

 数十秒のあいだ譲り合いが続き、結局は僕が使わせてもらうことになった。

 山道を登ってかなり疲れていたとはいえ、あっさり折れてしまう辺り、我ながらまだまだ子供だなぁと思う。

 ちなみに、部屋は掃除が行き届いており、ここでも甲宮さんの生活力の高さが垣間(かいま)見えた。もしかすると、廊下よりももっと綺麗に片付いているかもしれない。この部屋ならば、(ほこり)一つ無い、と言ってしまっても、過言にはならないだろう。

 絵を描きながら家全体を管理するのは、かなりの負担のはずだが……たまにお手伝いさんでも雇っているのだろうか。

 そして、山菜がメインの軽い夕食をご馳走になり、シャワーを浴びさせてもらい(この山奥で、さすがに湯船はなかった)、今に至るというわけだ。

 ……なんだか、至れり尽くせりで本当に申し訳ない。

 仕事もあるだろうに、本当に泊まってよかったのだろうか――と、そんな不安を抱えながらも、頭をよぎるのは別の話題だった。

 甲宮さんの、あの言葉。

 「画家らしい絵を描いてみたい」。

 彼はそう言った。

 ただの独り言という風には見えなかった。むしろ、ふと出てしまった本音のように、僕は感じた――一体、どういう意味だったのだろう。亀の絵は、甲宮さんの言うところの「画家らしい絵」ではないということだろうか。

 だとすれば、甲宮さんにとっての「画家らしい絵」とは、一体、どういう絵のことを指すのか。

 ……考えても、分かるはずがないか。

 別のことを考えよう――溜息を吐き、寝返りを打つ。

 そういえば結局、この家の中では甲宮さんの作品を見ることは出来なかった。来る前は、家のあらゆるところに自分の絵を飾っているのではないかと勝手に予想していたけれど、これも外れだった――この家に入ってから、甲宮さんの絵はおろか、落書きの一枚だって見た覚えがない。

 事前にインターネットで調べて、甲宮さんの絵の写真を何枚か目にしていたけれど、やはり、直接見てみたかったというのが本音だ。写真を見ただけでは、彼の絵の本質をまるで理解できなかった――亀を普通にスケッチしただけじゃないか、という感想しか持てなかったのだ。

 『夢現(ゆめうつつ)な海中』。

 『真昼の湖面にて』。

 『友情』。

 等々、独特なタイトルがつけられていたけれど、どれも同じような亀が描かれているだけで、その価値を理解することは不可能だった。

 直接お願いして見せてもらおうか――いや、しかし、さすがに失礼だろう。世間に発表するまでは誰にも見せたくない、という主義の人なのかもしれないし。

 悶々(もんもん)として、眠れない時間が続く。

 どれくらいそうしていただろうか――睡魔に襲われる気配をまったく感じなかったので、トイレに行きつつ少し体を動かそうと、廊下に出た。

(……結局、甲宮さんがどういう画家なのか、はっきりとは分からなかったな)

 暗い廊下を横切り、トイレに向かいながら、そんなことを考える。

 亀だけを描き続けている理由やルーツみたいなものをもっと聞きたかったけれど、そういったことに関しては、甲宮さんは(かたく)なに喋ろうとしなかった。それっぽいことを話していた場面もあったけれど、要領を得なかった――というか、上手くはぐらかされてしまった気がする。

 ……もしくは、僕の理解力が及ばなかっただけかもしれないが。

 やはり、彼の絵を直接見せてもらうのが手っ取り早いのだろうけれど、このままではそれも厳しそうだ。

 亀専門の画家、甲宮(せん)()

 その本質的な本体は……一体、どこにあるのだろう。

(……ん?)

 トイレで用を済ませ、再び廊下に出たところで、異変に気付く。

 いや――異変、と言う(ほど)ではない。

 廊下の隅のほうで、何かがゴソゴソと動く気配がしただけだ。暗闇の中で急に聞こえたものだから、敏感に反応してしまった。

 何が動いているのか確かめたいが、照明のスイッチの位置が分からない。玄関のほうにあった気がするけれど、物音が聞こえたのもそちらの方向だ。

 気になる――が、もしもネズミや害虫だったらと思うと……。

 ずず……ずずり……。

 ざり……ずり……。

 耳を(そばだ)てて聞いてみると、何かを引き()るような音だ。動物や虫が這うような足音ではない。

 だとすれば――一体、なんだ?

 意を決し、玄関のほうへと移動する。素早く動いてその『何か』を刺激してはいけないので、そろりそろりと忍び歩きだ。

 一歩、二歩、三歩とゆっくり。

 と、しかし四歩目を踏み出そうとしたところで、つま先が何かにコツンと当たり、慌てて足を引っ込める。

 固い物だ――石か?

 結局、照明スイッチの場所は分からなかったので、携帯電話を取り出し、画面の光で足下を照らす。

 すると――あった。

 いや、「いた」というべきか。

 黒っぽい濁った色をした甲羅を背負った亀が、そこにはいた。短い四本足で必死に床を蹴り、玄関へ向かおうとしている。鱗っぽい肌に光が当たり、テラテラと少し不気味に輝いた。

(甲宮さんの亀だよな……多分)

 さすがに、野生の野良(のら)(かめ)ということはないだろう。たとえそうだったとしても、民家の中に迷い込んでしまう亀なんて聞いたことがない。

 勝手に脱走したのか?

 いや――あの水槽を自力で抜け出すのは無理だろう。

 ひとまず、それ以上どこかに行ってしまわないように両手で亀を捕まえ、持ち上げる。

 と。

 ちょうどそんなタイミングで、パッと周りが明るくなる。

「おや……こんばんは。まだ、起きていらっしゃたんですね」

 (まぶ)しさの中で目を細めながら声のするほうを振り向くと、応接間(おうせつま)から甲宮さんが出てくるところだった。

「こっちに、亀が来ませんでしたか?昼間、部屋の隅の水槽に入っていた亀なのですがーーおっと」

 僕に持ち上げられ、甲羅に(こも)ってしまった亀に気づき、甲宮さんは言葉を切る。

「この子、ですよね?」

「ええ――捕まえてくださったんですね。ありがとうございます」

 ペコリ、と彼は頭を下げる。

「夜中に仕事をしている間だけ、水槽から出して部屋の中を散歩させているんですがね。どうやら、少し開けていた扉の隙間から廊下に逃げ出したみたいで――やんちゃな亀なんですよ」

「そうだったんですか」

 どうやら、僕の推察は半分だけ正解していたらしい。水槽から出るには甲宮さんの協力が必要だったが、部屋からは自力で脱出したようだ。

 いや――そんなことよりも。

 今、甲宮さんは、「夜中に仕事をしている間」と言ったか?

 見れば彼は、眼鏡に白衣という格好だった。昼間は眼鏡をかけていなかったし、作業着のような服を着ていたはずだ。

 もしかすると、直前まで絵を描いていたのか?

 作業着も、絵を描くのに不適切な服だというわけではないが、昼間の作業着には少しの汚れもついていなかった。今の白衣は色とりどりのペンキで汚れ、もはや(しろ)(ころも)とは呼べない状態になっている。白衣は甲宮さんにとって、絵を描くときの仕事着だということなのだろう。

「あの、甲宮先生。もしかして、お仕事をされていましたか?」

 確信はあったけれど、一応聞いてみることにした。

 無意識に、ちらりと廊下の突き当たりのほうを見てしまう。生活空間であり応接間であり――そしてアトリエでもある、最奥(さいおう)の部屋。 

 僕の質問に、甲宮さんは予想通り、「そうですね」と答えた。 

「実は、あなたを描いていたんです」

「ぼ、僕ですか?」

「ええ。昼間に、心理ゲームみたいなことをしたでしょう?それをきっかけに、本当に描いてみることにしたんですよ――『考えていそうな人』を」

 何気なく言いながら亀を応接間へと戻す甲宮さんだったけれど、こっちはそれどころではない。

 予想外だった。

 まさか、あの冗談めいた会話の中で生まれた架空の作品を、現実のものにしようとしているなんて……というか甲宮さん、亀だけでなく、人間を描くこともあるのだろうか?てっきり、亀以外は描かないと、そう決めているものだと思い込んでいた。

 しかし、それなら、尚更(なおさら)

 尚更、その絵を見てみたい。『亀専門の画家』が描いた人間というものを、一目だけでいいから。

 すでに応接間の中へと帰って行った亀を思い出しながら考える――あの亀はもしかすると、チャンスを運んできてくれたのかもしれない。 

 甲宮さんの絵を直接見るという、今日、巡ってこなかったチャンスを。

「甲宮先生」

 一か八か。

 聞いてみるしかない。

「実は僕、甲宮先生が描いた絵を直接見たことがないんです。もし良ければ、今描いている絵を見せていただけませんか?」

「え?いや、でも、まだ描きかけですし……」

「描きかけでも良いんです」

 ここで遠慮してはいけない。

 しつこいと思われようと、食い下がるべきだ。

 明日はさすがに帰らなければならないし――そうなれば、もう二度とチャンスはないかもしれない。

「お願いします。お仕事の邪魔はしませんから……」

「……すいません。やはり、見せられません」

 「本当に申し訳ないです」と、甲宮さんは深々と頭を下げる。

「書きかけの作品を見せることは出来ません。基本的に仕事に執着心のない私ですが、それだけは(こだわ)っているんです」

「そう、ですか……」

 がっくりと肩を落とす。

 これだけハッキリ断られてしまえば、これ以上頼み込むのは(はばか)られる。仕事に対する拘りを曲げてまで絵を見せてほしいとは、さすがに思っていないのだ。

 これは仕方がない。それがプロの仕事だということなのだろう。

 甲宮仙治には、画家としてそういう一面もある――それが知れただけでも、満足しておこう。

「そう落ち込まないでください」

 あからさまに落胆した僕に対しても、甲宮さんは優しく声をかけてくれた。

 そうだ――露骨にうなだれるなんて、失礼にも程がある。忙しい合間を縫って時間を作ってもらったというのに、こんな態度を取るべきじゃない。

 素直に感謝して、また縁があることを願っておこう。

「すいません……不躾(ぶしつけ)な態度を取ってしまって」

「いいえ、大丈夫ですよ。それに、私の絵を直接見たいと仰るなら、近いうちにその願いは叶うと思いますよ」

「……え?」

「あの絵――『考えていそうな人』は、最初からあなたに差し上げるつもりだったんです」

「……」

 またしても、予想外な言葉が甲宮さんの口から飛び出した。

 なんだ?

 ドッキリでも仕掛けてきているのだろうか。

「それは――僕が、見せてくれとしつこく要求したからですか?」

「違いますよ。言ったでしょう?最初から、と」

「でも……絵画を買えるような大金、僕は持っていません」

 一般的な高校生でしかない僕は、アルバイトで稼いだほんの少しの貯金しか持っていない。その貯金だって、画材を買うための資金として消えていってしまうのだ――趣味というのは、本当に拘り始めると、どんどんお金を消費してしまう。

「お金は要りません」

 まるで当たり前のように、甲宮さんはそう言った。

「友人――」

 ぴくり、とその言葉に一瞬だけ反応してしまう。

 顔には出さないが。

「そう、友達になってくれたお礼として――一人前の絵描きを目指す仲間として、あの絵を差し上げたいんです。一応、他の人には内緒にしてくださいね。誰にでもタダで渡しているわけではありませんから」

「あの――えっと……」

 微笑む甲宮さんを前に、僕は言葉が出なくなってしまった。甲宮さんの絵が手に入ることはもちろん嬉しかったけれど、それ以上に……。

 一人前の絵描きを目指す仲間。

 そんな風に――僕みたいな未熟者を、そういう風に思っていてくれたなんて。まるで、同等の人間のように捉えていてくれたなんて。 

 根本的に、考え方を改める必要があるかもしれない。

 芸術家は変わり者が多い――いつから僕は、そんなひねくれた考え方をするようになってしまったのだろうか。

「……本当に、ありがとうございます」

 先ほどの甲宮さんよりも更に深く、頭を下げる。感謝と尊敬、その両方の思いを込めて。 

 甲宮仙治という画家を好きになれたという結果は、僕にとって大きな成果だ。作品だけでなく、画家そのもののファンになったのは久しぶりだった――作品と画家を切り離して考えるという僕のつまらない拘りも、彼との出会いを通して、少しは変われるかも知れない。

 変わることを望んでいたわけではないが、これはこれで、良い方向性への変化なのだろう。甲宮さんを紹介してくれた友人には感謝しなければなるまい。

 ……そう、思った。

 そう――思っていた。

 彼の描く『亀』に、食らい付かれるその時までは。

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