違和感の角度
外観はまるで廃屋のようだった彼の住居だが、内装は綺麗に保たれていた。家を構成する木材のあちこちが腐食していたらどうしようと恐る恐る家の中に足を踏み入れたが、そんな心配は不要だったようだ。埃一つ落ちていない、とまでは言わないが、人間ひとりが生活できるだけの清潔感はある。
玄関から先は短い廊下になっており、左右には小部屋が二室ずつ設けられている。甲宮さんの話によれば、風呂、トイレ、彼の就寝部屋と、それぞれ割り振られているそうだ。もう一室は空き部屋で、画材を収納するための倉庫として使っているらしい。
廊下の一番奥の扉を抜けた先がアトリエと生活空間と応接間を兼ねた部屋になっているそうで、僕はその部屋へと通された。
アトリエっぽくない部屋だな――というのが、僕の第一印象である。
画家のアトリエといえば、描きかけの絵がイーゼルに立て掛けられていたり、床の所々がペンキで汚れていたり――というイメージだったのだが、この部屋には画材が一切置かれていないようだ。
本当に、いつもここで絵を描いているのだろうか?
そう疑ってしまうほど、そこは自然で当たり前な、どこにでもある普通のリビングだった。テーブルに椅子、ソファ、収納棚、絨毯、カーテン、照明……日常的に家で見かける家具ばかりで、目新しい物は何もない。珍しいものを見れると期待していたわけではないけれど、少しばかり肩透かしを食らった感覚になる。
あえてトピックを挙げるとするならば、隅に置かれた水槽の中でハンバーグくらいの大きさの亀が泳いでいたことだが、こんなのは予想の範疇だ。亀専門の画家なんて呼ばれているのだから、亀の一匹でも飼っていなければ、逆に不自然だろう。
「ミルクと砂糖は要りますか?」
手に持ったコーヒーをテーブルに置きながら、甲宮さんが尋ねてきた。
いい香りだ。
コーヒーの良し悪しなんて僕には分からないけれど、インスタントではないだろう。
「あ――いえ、ブラックで大丈夫です」
父親が、「美味いコーヒーはブラックで飲むのが一番だ」と言っていたのを思い出して、ミルクと砂糖は断った。
ブラックコーヒーを飲むのは初めてだけれど、まあ大丈夫だろう。
「そうですか。最近の高校生は大人びていますね」
と、彼は微笑みながら、持っていたコーヒーフレッシュとスティックシュガーを自分のカップの中に入れた。
……うーむ。
恥ずかしいような決まり悪いような、何とも言えない気分になってしまったが、気にしないでおこう。
さっそく一口いただくと、コーヒー独特の苦みと酸味が口の中に広がった。
美味しい――の、だと思う、多分。
「私は苦手ですね。コーヒーも緑茶も紅茶も……苦みの強い飲み物は、基本的に好きじゃないんですよ」
コーヒーをスプーンでゆっくりとかき混ぜながら、彼は苦笑いを浮かべた。
黒と白が、なだらかに混ざり合う。
そういえばコーヒーとミルクが混ざった色は、何色と表現するべきなのだろう。絵の具のようにグレーになるわけではないし、かといって茶色と直訳するのも粗雑な感じがする……考えてみれば、不思議な色だ。
分かりやすい黒と白が寄り添い、含みを持った色を生む。
うん……悪くない。
「しかし、ミルクコーヒーは大好きでしてね。カップの八分目までコーヒーを注いで、そこに、フレッシュを一つとスティックシュガーを一本。私にとっては、これが最高のバランスなんですよ」
「そうなんですか――ええと、僕はそんなに頻繁にコーヒーを飲まないんですが、甲宮先生はよく飲むんですか?」
ちなみに、これは嘘ではない。ブラックコーヒーは初めてだけれど、ミルクと砂糖入りのものはたまに飲む。
だから、今、ものすごく甲宮さんに同意したい。
美味いですよね、ミルクコーヒー。分かります分かります。
まったく、若造のくせに見栄なんて張るべきじゃなかった……。
「ええ、一日一回は必ず飲みますよ。飲まないと、なんだか調子が出ない。カフェインがどうとかカテキンがなんだとか、栄養素に関することは詳しく知りませんが……まあ、ルーティンというやつですね」
なるほど、コーヒーを飲むという行動は、甲宮さんが絵を描く上で大切な習慣ということか。変な習慣を持つような人じゃなくて安心だ――知り合いに、絵を描く前には水浴びをするという変人がいるので、少し心配していた。
ちなみに、カテキンは緑茶の成分である。
わざわざ訂正なんて、おこがましい真似はしないけれど。
「……さて、どうでもいい話をしてしまいましたね。失礼」
「え?いや……そんなことは」
「話題を本筋に戻しましょう。画家としての私を知りたい、ということでしたね」
「ええ――はい。甲宮先生が亀専門の画家だと聞いて、ぜひお会いしたいと思い、失礼ながら連絡をさせていただきました」
当然のマナーとして、甲宮さんの自宅を訪れる前に電話でアポイントメントを取らせてもらったのだが、その際、僕自身が美術部に所属していることは伝えておいた。興味本位ではなく、あくまで勉強としてお会いしたい、ということを強調したかったのだ。
ただのファンを名乗るよりも、そちらのほうが会ってもらえる公算が高いと考えた。
自分の友人が会えたのだから自分も会える、と考えるほど僕は甘くない。あのとぼけた友人は実のところ、絵画でいくつかの賞を取っているのだ。そんなに大きな賞ではないが、それでも僕なんかよりはよっぽど、甲宮さんと面会する資格がある。
とぼけた顔をしていても、彼女の腕は確かなのだ――彼女が会えたとしても、一介の男子高校生でしかない僕が甲宮さんと会えるかどうかは、蓋を開けてみるまで分からなかった。
結果的に、面会は快諾してもらえたが……それでも、断られる可能性だって充分高かったのだ。
相手は、僕のように趣味で絵を描いているわけじゃない――作風の嗜好は別として。
絵を描く。
それを売る。
そしてお金を得る。
当然の流れだと言われればその通りだけれど、誰にでも出来ることじゃない。絵に対してお金を払う人がいるということは、その作品が世間に認められたということなのだ。
局所的な人気とはいえ、それを得るために積み重ねてきたであろう努力は計り知れない。
……にわかに緊張してきた。
僕は今、プロの画家と、面と向かって話しているのだ。
「そう緊張しないでください。リラックス、ですよ」
強張ってしまった僕を見て、甲宮さんはやわらかく笑いかけてくれた。
「昼休みに友達と会話しているような、そんな気楽な感覚でいいんですよ。そもそも私は、先生なんて呼ばれるような立派な画家じゃない」
そう言いながら、苦笑いを浮かべる甲宮さん。
謙遜、ということなのだろうか。
「私の絵は、ごく一部のマニアの間でしか売れていませんから……それは、ご存知ですよね?」
「ええ。でも、売れているというだけで、画家としての仕事は充分に果たしているんじゃありませんか?好きなことをしてお金を稼げるなんて、学生の身としては、羨ましい限りですよ」
どんな理由でもいい。
たとえば、たまたま流行に沿っていたとか、知り合いにツテがあったとか――そんな偶然の機会で良いのだ。
誰かを惹き付ける、何かがあれば。
売れれば、売れさえ、すれば。
また、次の絵を描ける。
誰かが、自分の作品を好きになってくれれば――惚れ込んでくれたら。自分の表現したそれらが、どこかの誰かに届いてくれたのなら、それだけで、画家の面目躍如じゃないか。
売れる理由にまで執着するなんて、僕から言わせれば贅沢というものだ。
……僕みたいな凡俗な奴から言わせてもらえるならば、ということだが。
「……正しい」
僕の心の中を読んだかのように、甲宮さんは小さく頷いた。
「きっと、その考え方は、強くて正しいのだと私は思いますよ。しかし、残念ながら――」
一瞬、甲宮さんの笑顔が歪んだように見えた。
痛みに耐えるかのように、グシャリ、と。
「遺憾ではありますけど、絵を売るのは、私の仕事ではないんですよ。もちろん、売れていること自体は嬉しいんですが……」
カップの中身をクルクルとかき混ぜていた、甲宮さんの手が止まる。完成したミルクコーヒーに映っている自分の顔を見つめるかのように、彼は視線を落とした。
彼の笑顔が、濁った水面に映し出される。
そう――濁っているのは、あくまで水面だ。さっき、甲宮さんの笑顔が曇ったように見えたのも、光の当たり方の具合が悪かったのだろう。
「あなたは、どんな絵を描きます?」
「……え?」
唐突な質問が彼の口から飛び出し、動揺してしまう。
「美術部に所属している、と仰っていましたね。普段は、どんな絵を描いているんですか?」
「どんな絵、と聞かれても……」
聞きたいことはいろいろと考えていたけれど、逆に質問されると困ってしまう。ここへ来て、質問される側に回るなんて思ってもみなかった。
ええと……どう答えればいいのだろう?プロの前で僕が語れることなんて、たかが知れているだろうし……。
「ああ――難しく考える必要はありませんよ」
考え込んでしまいそうになる僕を引き戻すように、甲宮さんは慌てて言った。
「あなたを試そうなどと思っているわけではありません。そうですね――ここに、ペンとスケッチブックがあるとしましょう」
何もない空間に手を広げながら、甲宮さんは続ける。
「『自由に好きなものを描いてください』――どうぞ、気の向くままに」
「す、好きなものって……」
「あなたの心のペンは、すでに描き始めています。あなたの目に映ったものを、あなたの目に映っていないものを。もしくはその両方を――さあ」
左手にスケッチブックを、右手にペンを持つふりをしながら、僕に同じポーズをとるように促す甲宮さん。
狼狽えながらも、頭の中でペンとスケッチブックを手に取る。空想の絵を、想像で描いていく。
「実際に描くのは時間がかかりますが、考えるだけなら一瞬です。描きたいものを、文字通り、思い描くだけで良いのですから。コツは、軽く目を瞑ることですよ」
予想外の展開に動揺を隠せないままだったけれど、なんだか心理テストか占いのようで、少し楽しくなってきている自分がいる――言われるがまま、瞼の裏だけを見つめながら、直感的に思い付いたものを思い描くことにした。
パッと、頭の中に浮かんだものを、躊躇いなく。
「どうです?何が描けましたか?」
「……ちょっと、口に出すのが恥ずかしいんですが」
「大丈夫です、笑ったりしませんよ。なんなら、私が思い浮かべたものも、お教えしましょう」
「……『浦島太郎』です」
「……ほう、なるほど、それは――なかなかに面白い」
本日一番の笑顔で、甲宮さんが言った。
もちろん、人を小馬鹿にするような笑い方ではない。とても興味深い、とでも言いたげな、嬉しそうな笑顔だった。
美術館でお気に入りの絵を見つけた鑑賞客が浮かべるような、そんな表情。
「亀から、浦島太郎を連想したのですね。うん、なるほど」
水槽のほうをちらりと見ながら、うんうんと頷く甲宮さん。
……理解を示してくれているのは嬉しいけれど、自分の発想の組み立てを解体されているようで、やはり少し照れ臭い。
「ありきたりな発想ですよね――ほんと、恥ずかしい限りです」
「自分の発想や考え方を、そんな風に否定する必要はありませんよ。それはきっと、あなたにしかない、あなただけの想いなんですから」
再びコーヒーをかき混ぜながら、そう語る甲宮さん。
そういえば彼は、まだ一度もコーヒーカップに口をつけていない。中身を混ぜた後に「ふーふー」と息を吹いて冷ます、という動作を繰り返しているだけだ。
甘党な上に、猫舌なのだろうか。
「極論を言ってしまえば、自分の中で思い付く程度のものはすべて平凡で、非凡な発想というのは、自分の外でしか生まれないのではないか――と、私は考えていますよ。結局、自分は自分でしかなく、それ以上の何かにはなれませんから」
「自分は自分……ですか」
「ええ。逆に、他人の視点からは、私もあなたも、非凡な才能に見えている可能性があるということです。良い意味でも悪い意味でも、ね」
「……なる、ほど」
僕は静かにコーヒーを啜る。
随分と概念的な話だったけれど、なんだか、心を引っ掻かれたような気分だ。
平凡と非凡――その境目について、甲宮さんは語る資格があるのだろう。
だけど、僕にその資格はない。
返す言葉が思い付かず、つい自分の思考に没頭してしまう。
僕は僕で、彼は彼。
他の何者にもなれないのだとすれば、どんな奴も、生まれ持った才能やら運やらで、なんとか遣り繰りしていくしかないということか。
それもなんだか……救いのない話だ。
「あの……ちなみに、甲宮先生は何を思い付いたんですか?」
沈黙が気まずくなってきたので、今度はこちらから質問することにした。気恥ずかしいのを堪えて暴露したのだ――宣言通り、甲宮さんの発想も聞かせてもらわなければ、フェアじゃない。厚かましいのは自覚しているが、今は見ないふりをしておこう。
「そうですね……『考えていそうな人』、というのはどうでしょう?」
「考えて、いそう?」
「ええ。『考える人』の彫刻はご存じでしょう?」
『考える人』――確か、モーギュスト・ロダン作の彫刻だったはずだ。もともとは、『地獄の門』という別の作品の一部だったとかなんとか……。彫刻に対する造詣が深いわけでもないので、うろ覚えの知識でしかないが。
「あの作品をなぞって、『考えていそうな人』。『考える人』は顎に手を当てていますが、あなたの場合は――」
右手の指で、ひょいひょい、と首元の辺りを示す甲宮さん。
……ああ、なるほど。
つまり、またやってしまっていたということか……。
「僕の癖が、ヒントになったわけですね」
「正解。会話しているあいだ、ずっと首元に手を当てていましたからね。見ているうちに段々、『考える人』に似ているなぁ、なんて思って」
「だから……『考えていそうな人』、ですか」
「ええ、そうです。惜しいんですよね――あと少しで『考える人』なのにって感じで」
まさか、こんなところで癖の影響が出てくるなんて……それも、出会ったばかりの人に見抜かれてしまうほど露骨に癖が出ていたとは。
やっぱり、本格的に矯正していくべきだな。
二重で恥ずかしい思いをしてしまった。
「友人にもよく指摘されるんですよ、この癖のこと。考え事をしていると、ついついやってしまって」
「私も、癖が出てしまうことはありますよ。絵を描いているときは、特にね」
ようやく冷めてきたコーヒーを、温度を舌で確かめるように恐る恐る飲みながら、甲宮さんは頷いた。
やはり、猫舌らしい。
ならば最初からアイスコーヒーを常備しておけばいいのに、などと考えてしまうのは、余計なお世話だろうか。
「しかし、それも個性というものでしょう。癖がなければ個性もなく、個性がなければ作品も生まれない。作品というのはつまり、個人の癖や個性の塊なのかもしれません」
「甲宮先生の数々の作品も、先生の個性が発露した結果だということですか?」
「もちろん。私の描いた絵画は、私そのものだと言ってしまっても良い。他人にどう見えているかは分かりませんが、私は絵を描くとき――そして、完成した作品を眺めるとき、自分の頭の中を覗き込んでいるような気分になりますよ」
「頭の中……?」
「はい。頭の中、です」
「……」
これについては、甲宮さんはそれ以上、説明しようとしなかった。静かに微笑むだけで、そこから言葉を繋げるつもりはないようだ。
「それ以上踏み込むな」と、そういうことなのかもしれない。
頭の中。
というより、おそらく、彼の脳が処理している景色。
同じ風景を見ていたとしても、僕と甲宮さんとでは、その処理の仕方がまったく違うのだろう。たとえ、同じ地点同じ座標同じ角度から同じものを見ていたとしても、それをキャンバスに表現するとき、まるっきり異なる絵がそこには描かれることになる。
僕自身、何か表現したいものがあったとして、それを描いたとき、ほぼ確実に一度は、「なんか違うな」という違和感に襲われるのだ。自分が思い描いたものと、実際に描いた絵を比べると、どこかがおかしいような気がしてしまう。自分自身でさえ、自分の脳の中身を完全に把握しているとは言い切れないのだ。
だから、僕は感じたことがない。
自分の描いた絵を見て――「自分の頭の中を覗き込んでいるような気分」になったことなんて、一度もない。
甲宮さんは、その感覚をほぼ毎回味わっているのだろう。
自分の脳のフィルターを通して作り出された、何処にもない、されど彼の中にだけは確かに存在する世界を、キャンバスの上に正確に再現できるということだ。
まあ、あくまでも、僕の推察だけれど……正直、そんなに自信はない。
答え合わせが出来ない以上、確信は持てないのだ。
「そう、だから――話は戻りますが、人によってそれぞれ見方は異なるということです。私の絵を美しいと感じる人もいれば、醜いと目を背ける人もいますから」
「醜いだなんて……さすがにそこまでは――」
「醜いんですよ。そして、きっと、見難い。私は、画家の領分を逸脱した絵を描いているんじゃないかと、そんな風に思うことが度々あります……」
中身を半分ほど残したコーヒーカップをソーサーに置きながら、甲宮さんは少し寂しそうに言う。
「……描いてみたいものですよ」
その視線は再び、黒い水面に向けられていた。
一瞬。
一瞬だけ、目の前を、暗くて濃いヴェールを被った何かが横切った気がする。
気がするだけ、だ。
僕と甲宮さんのあいだには何も無い。無いからこそ、僕たちは歩み寄らない。
「画家らしい絵を描いてみたいと――本当に、心の底から、そう思うんです」
ゴポゴポと、部屋の隅から小さな音がした。
どうやら、亀が顔を出したらしい。




