9 七福あんこ
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店を出た創汰とファルリンは、アパートまで別れて帰る理由もないので、川沿いを一緒に歩く。
ファルリンは黄昏の濃密な橙に頬を染めている。
ハーフであるファルリンの顔立ちは、日本人の母の血をベースにイラン人の父の血を加えた風で、東西アジアの折衷芸術といった趣がある。ヒジャブから少しだけはみ出した前髪は黒々としていて砂漠の夜を思わせる。イスラムの女性がヒジャブで髪を隠すのは、髪が人を魅惑するからだという。確かにファルリンの髪は隠す価値があるように思える。隠されると余計に気になるというのもあるかもしれない。
「日本にいても、ヒジャブをかぶってないと駄目なの?」
創汰の問いに、ファルリンは眉をひそめる。
「ヒジャブはイスラム女性の身だしなみですね。もちろんコーランに書いてあるからというのはあるけど、ワタシは強制されてヒジャブかぶってるわけじゃない。イスラムを知らない人、みんなそこんとこ勘違いするからヒジャブ脱がしたがる。ヒジャブを女性差別の象徴かなにかと思っている。でもワタシにしたら、ヒジャブ脱げというのはスカート脱げと言われるのと同じくらい困ったこと。だからニホンでも脱がない。もしぱんつまるだしでいい国があったとして、そこにニホンジンの女性が行ったとして、さてぱんつまるだしになるだろうか。いや、ならないに違いない」
どうだろう。
郷に入っては郷に従えで、日本人はパンツ丸出しになってしまいそうな気もする。
まあでも抵抗はあるな、と創汰は思う。
「そういえば、スカートって大丈夫なの?」
ファルリンは制服のスカートを穿いている。
ヒジャブを取るのは無しで、脚を晒すスカートは有りっていうのも違和感がある。
「ソータよくみなさい。ワタシちゃんとスカートの下にスパッツ穿いてますね。足首まで隠せる便利スパッツ。肌晒してない。問題ない」
――スパッツ?
ファルリンが指した脚は黒タイツだった。
アパートに戻った創汰は階段を上がる。
「ソータどこ行く? 住居侵入?」
創汰の部屋は一階だった。
「七福さんに届け物があるんだ」
敵情視察に予定外の時間を取られたが、創汰の本来目的は七福あんこに会うことだった。先生から届け物を預かったのは訪問するための口実だ。
チートの力で清掃部フーズ買収を防ぐほどの大金を手に入れる方法、と創汰が考えたとき、たどりつく先には銀行しかなかった。正義の能力は悪事に使ってはいけない。
思い出したのは陽奈の言葉だった。
『あんこちゃんの部屋にはパソコンがいっぱいあるんだ。あと株とかの本もいっぱい。凄い詳しくてさ、株とかガイタメとかっての? 色んなこと教えてくれたけど全然意味わかんなかった』
――七福さんから清掃部フーズの買収を防ぐ知識を得られないだろうか。
もちろん七福あんこがその方面にいかに詳しかったとして、所詮は一介の女子高生だ。あんこの知識だけで買収を防ぐなんて無理だろう。だがそこに自分のチートの力をかけ算すれば、突破口が開ける可能性がないだろうか。
「あーねー。ではワタシも行く。あんこに会いたいですね」
――ファルリンと一緒なら、女子に遭遇しても不審に思われなくて済む。
創汰にとって二階は未知のフロアだった。女子しかいないこのアパートで、唯一の男子たる創汰は用もなく二階にあがれない。
――どうしてこのアパートには女子しかいないんだろう。
創汰は首を傾げることがある。
コーポ川沿は女子寮じゃない。
同じクラスの住人が一二人中五人と妙に多いのも不思議だ。
同じクラスの一人暮らしの生徒が、同じ寮になるように学校側が意図的に振り分けている、という噂があって、その理由が創汰にはしっくりくるように思えた。高校に上がり、環境が急激に変化する中で、新たに一人暮らしとなればホームシックの問題も生じる。同じ寮に同じクラスの生徒を集めることによって、それを多少なりとも和らげよう、という意図だ。
だが真偽は定かでなく『自分以外の住人がすべて女子』であるという事態は、創汰が現在抱える謎の大きな部分を占めていた。その次に占めるのは、『チートの能力者にはボーナスのような設定がついてくる』とクローゼット女が言った、そのボーナス設定がいまだにわからないことだ。
創汰は恐る恐る七号室のドアホンを鳴らす。
あんことは特に仲が良かったわけじゃない。
よほど警戒されるかと思っていたら、無造作にドアが開いた。
創汰を見るなり、あんこは不思議な顔をした。長谷川創汰という生物の存在がまったく信じられないという顔で、眼鏡の奥から変な深海魚でも見るような目を向けた。
ドアが開いた早さを考えとき、あんこがのぞき穴で来訪者を確認しなかっただろうことは、創汰に想像できた。そしてそれがいま確信に変わったのは、あんこが上下グレーの下着姿だからだった。
いったんドアが閉まって、十秒ほどあって、再び開いた。
――十秒の間に何があったのか。
謎でしかない。
あんこは服を着てきたわけでもなかった。
「……ぼくは思った。明日子さんがごはんを持ってきたのだと」
パニックを起こしのたかと思いきや、あんこは英語でも訳すようにつぶやく。
「あの……届け物に来たんだけど」
――あ、それ下着なの? 別に女子の下着とかいまさら気にしないわー。
創汰がそのスタンスを貫くことに決めたのは、女子の裸など見慣れているさばけた男を見せようとしたからだった。もちろん女子の裸など見慣れていない。映像以外では。
「……なんで、きみが」
――こんなの普段着だし。男に見られても別に気にしねえし。
あんこがそのスタンスを貫けていなかったのは、赤く染まった顔を見れば一目瞭然だった。
意地の張り合いで、誰も得しない気恥ずかしさが漂う。
「……」
あんこは創汰の手から届け物をひったくる。
ドアを閉めようとしたあんこに、
「あ、あの、七福さんって株とかに詳しいって聞いたんだけど……」
創汰はすかさず訊ねる。
と、あんこの目の色が変わった。
「……詳しいですが、なにか?」
「企業買収のこととか知りたくて」
ふむふむと、あんこはいかにも知ってます然で頷く。
「……教えるのもやぶさかではありませんが」