3 6月のチートデビュー
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翌日月曜日の長谷川創汰は、希望に溢れ艶めいてさえいた。
――今日から俺の人生は変わる。
昨日の老婆の件以来、創汰は『チート』の能力を色々試していた。
すると、創汰の細腕でもタンスをそこそこ持ち上げることができたし、英語の教科書は一冊まるまる辞書なしで訳すことができた。
だがやはり、タンスで足の指を挟めば死ぬほど痛いし、いくら英語で念じても手から魔法は出なかった。
すなわちチートの能力は、脳や筋肉を使ってできることであれば、努力せずともおおよそヒトの限界を超えることができるらしかった。
――この力を使えばクラスメイトは俺を見直すぞ。
これならばもう、どんな数学の難問もどや顔で黒板に答えを書きに行けるし、バスケのシュートをコートの反対側から決めることだってできる。
創汰はこの四月に高校に入学するや否や、天性の不器用ぶりを余すことなく発揮していた。
入学初日の自己紹介では、みんなが軽くひとウケ取る中で焦った結果、かえって寒いことになったし、最初の体育のバスケでは簡単なパスを取り落して以来、気を使われた優しいパスが来るようになった。そしてチャンスの場面では一切パスが回ってこないどころか、創汰が良い所にいたとしても、ボールは苦しいロングシュートとなって舞う方を選んだ。そんなバスケで華麗にレイアップシュートを決めるようなクラスメイトとは、二か月たった今も致命的に言葉が通わなかった。
授業中先生に指されても、答えにしどろもどろになることが多いから、賢いとも思われていない。思われていないだけでなく、入学直後の実力テストで三一二人中二八四位の成績を獲得したという現実も創汰の失望を手伝った。
――レベルが高すぎるなぁ……。
創汰が合格した南西学園は、県内トップクラスの私立校だった。
合格した時は喜んだ。お前のレベルでは絶対に受からないと各方面から言われていたのだ。どうだ見たか、と思った。南西学園は地元の田舎を飛び出して、一人暮らしをしてでも通う価値がある高校だった。
だが入学した創汰は、生き物にはそれぞれ身の丈にあった幸せがあることを知った。泳ぎの遅いフグがマグロの群れに混ざってもノイローゼを起こしてしまうし、背伸びした馬がキリンと同じ高い所の葉っぱを食べてみても、それはやがて首が辛くなるだけなのだった。
――だが、この力を使えば俺も人気者になれる。
創汰は清々しいほど力の使い道をはき違えて、自分を憧れの目で見つめる天乃雀の妄想に耽った。
隣の席の天乃雀の存在は、創汰が朝、布団から抜だして学校に足を向けるための唯一のモチベーションといっても良かった。
「おはよう、創汰くん」
「お、おはよう」
朝の挨拶。大抵の女子が「長谷川くん」と呼ぶ中、天乃雀が放つ「創汰くん」の響きは、長谷川創汰を虜にした。創汰はそのスズメの声を大事に持ち帰り、晩ご飯のおかずにも、おやすみ前のBGMにもすることができた。スズメの声は耳の奥で宝石のように輝き続けた。
隣の席のスズメは創汰と同じコーポレイト川沿で生活しているけれど、アパートで会話をする機会はない。食堂でスズメの姿を見かけたりはするけれど、奥手な創汰の方からスズメに話しかけることはできなかったし、スズメの方もわざわざ創汰に話しかけるということはなかった。
だが教室だと、隣同士という関係から、スズメとの距離がぐっと縮まる。
創汰がこの時間を愛さないはずがなかった。
「はい。創汰くんにもクッキーあげる。昨日焼いたんだ」
「え。あ、ありがとう」
そのクッキーが賞味期限であろうギリギリまで創汰の部屋に飾られたのはいうまでもなかった。
――俺なんかにもクッキーをくれるのは、なにがしか特別な感情があるから?
そんな期待を強めた時期も創汰にはあったけれど、先生に指名されたとき以外、声を発するところを見たことがない大道寺信王くんにもクッキーをあげているスズメを見て、創汰は打ちひしがれたりもした。
――スズメは誰にでも分け隔てなく接することができる子なんだ。
創汰や信王くんのような地味系男子ともコミュニケーションを欠かさず、イラン人留学生ファルリン・アルハマーズにも、今は登校拒否に至ってしまった七福あんこにも、真っ先に声をかけられる類い希なる女子高生、それが天乃雀だった。
くわえて、長くてさらさらの黒髪をなびかせながら、くりくりと大きな目で微笑み、かと思えば、どこか世界に絶望しているような憂い横顔にを帯びさせたりもするのだから、スズメがクラスの人気者にならないはずがなかった。
――俺の手が届く存在じゃない。
――俺なんかが恋愛対象に考えて良い存在じゃない。
でもそれでも良い、と創汰は思う。
神棚の上のご神体のように、そこでただ輝いてさえいてくれれば、それだけでありがたい。
諦観の壁を越えた創汰は、いつしかそんな宗教じみた境地にたどり着いていた。
そんな創汰がついにチートデビューする日がやってきた。
最初のチャンスは体育の授業で、創汰はさっそくゴールキーパーの身分でありながら、ゴールキックを直接相手ゴールに叩き込むという荒技をやってのけた。クラスメイトは目を丸くした。
長谷川ってパスもまともにできなかったよな。今のはまぐれだろ。だよな。
――誰も信じないだと。
それどころか相手のゴールキーパーがぼうっとしていたせいだ、ということになった。
馬鹿な。まぐれでもあり得ないだろ。
創汰はクラスメイトの目を覚まさんとばかりに、GKの立場でありながらドリブルで駆け上がり、奇跡の一〇人抜きを見せつけたうえで、ペナルティエリア外から無回転のブレ球をゴールにねじ込んだ。このとき創汰は加減を誤って一〇〇メートルを九秒切る速さで駆けていたのだけれど、誰もタイムを測定していなかったのは幸いだった。
今度はさすがに場がさざめいた。
まじかよ。長谷川すげえじゃん。ロッベンかよ。
クラスメイトの一人、清掃部晴人に「練習でもしたのか?」と訊かれたので、創汰は練習したことにした。
そして次の言葉で創汰は青ざめた。
「ちょっと練習してこれなら、長谷川ってチートじゃね?」
やばい、と思った。
創汰はクローゼット女の説明を思い出す。
『正義ノ味方は自らが正義ノ味方であることを、一般人に知られてはならない』
罰則は最も厳しい、能力剥奪、記憶剥奪、そして畜生界への追放だ。
アプリのQ&Aによれば、「正義ノ味方であることが一般人に知られた」と判断されるのは、正義ノ味方であることや、能力名が断定されたとき、とのことだった。
例えば創汰の場合は、「長谷川ってチートだな」に類する、断定の言葉を発せられたとき、能力がばれたと判断される。
その点で、今ほどの晴人の発言は紙一重だった。クエスチョンマークに助けられたと言ってもよかった。それは断定ではなくて、かろうじて疑問系だった。
以来、創汰のゴールは鳴りをひそめた。
そして体育だけでなく他の授業でも、思う存分チート能力を発揮するわけにはいかなくなった。耳に「長谷川ってチートじゃね」の恐怖がこびりつき、創汰に能力を小出しにさせた。結果、創汰は前よりちょっとだけできる子になった。具体的に言えば、期末テストでは三一二人中二四五位くらいになった。もうちょっと上でも良かったかなと思ったけれど、いずれにせよ人気者になるのは無理だった。
――せめて二か月前に能力がもらえてれば……。
思うにつけ、創汰は悔やしくてならない。
クラス内カーストがおおむね固まった六月は、創汰が能力を得る時期としては少々遅かった。地味なヤツとしての地位を確立した創汰が、いまさらチートの能力を発揮すれば目立ち過ぎてしまう。
これがもし四月だったなら、自分を誰も知らない高校で、高校デビューとばかりにはなばなしくチート能力を発揮して、他の追随を許さない人気者になれていたのかもしれない。
「チート使えねえ……」
創汰はつぶやいた。