10 七福あんこ(2)
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2DKの作りは創汰の部屋と変わりがなかった。
薄暗い部屋では三台のパソコンが光を放っている。一台だけがデスクトップ型、他はノート型だ。目についたのは巨大なラック型の本棚で、ぎゅうぎゅうに詰まった漫画や映像ソフトの重みで、骨組みごと右に傾いていた。
床を見れば、お菓子の空き袋、食べたままほったらかしの食器、スープだけ残ったカップラーメン、ペットボトルは空のものもあれば、中身が入っているもの、もしくは倒れて中身がこぼれたままのもの、脱ぎっぱなしの服、いかにも湿っていそうなバスタオル――など、菌を養うために必要なありとあらゆるものが万全に散乱していて、座布団を勧められた創汰を怯ませた。
(!)
腰を落ち着けた創汰は目を見開く。
壁だ。
余白を残したら悪霊が入り込むとばかりに、壁、天井がポスターで病的に埋まっている。どのポスターも風景にはおおむね花が描かれている。花の色は例外なく淡い。中心にはアニメや漫画の少年が据えられている。テーマを言えば友情だろうか。少年あるいは青年が少なくとも二人は必ず描かれていて、おしなべて半裸以上で体のどこかに触れ合っていた。それは男の視点で見ると不自然な友情に思えた。友情成分が多めだった。過剰とも言えた。見ればその辺に散華している漫画雑誌薄い本の類も、例外なくあごの細い美少年が表紙を飾っており、脇のCDケースには『YOU雄ロマンスミステリカ/特別限定ブルーレイボックス特典喘ぎ声男子CD』と書かれていた。
部屋に一緒に足を踏み入れたファルリンの姿はすでにない。
一足遅れて部屋に入ったため、一足遅れて状況に気がついた可哀想なファルリンは、アスタクフラッラーと三回唱えて部屋を飛び出した。同性愛嗜好はイスラムでは大罪だったはず。たぶん死刑。
「……お茶ですし」
イスラムなら死刑になっていい七福あんこは、どこからか持ち出したコップに、その辺にあったペットボトルを注意深く選別して、「……これはたしか大丈夫なやつ」とぼそぼそ言いながら注いでみせた。
あんこの足下――机の下には二リットルサイズのペットボトルが五本ほど並んでいて、お茶色の液体が満タンに詰まっていたのだけれど、それは駄目なやつらしかった。
「で、何から説明したらいいし?」
したり顔で椅子に腰掛けたあんこはいまだ半裸のままだ。
あんこの下着はブラとかパンツとかといったロマンティックな表現は似合わず、なんというか、布だった。三枚九八〇円の布。ぼさぼさのボブカットは寝癖が触覚のように跳ねている。艶めく髪は美しいというよりも、梅雨どきの台所でたまに見かける不吉な黒に似ている。
――体裁整えればそれなりに見れそうなのに。
と、創汰は思わなくもない。磨かれてない原石風の残念さがある。けれどいくら原石とはいえ、今はただの石だからやはり放り投げる価値しかなかった。
「七福さんに会社を買収から守る方法を教えてほしいんだ」
創汰は本題に入る。
誠に遺憾ながら、清掃部フーズを謎の買収から守るためここに来たのだった。
「M&Aってことですかー。M&Aなどなにゆえ知りたいし?」
「エムアンドエーってなに……」
「ちょ、おま!」とあんこは突っ込んで、むふーと鼻を鳴らす。
「あーそこからでしたかー。草生えるー」
――おやまあ、困った子猫ちゃんが迷い込んできたものね。
世の中の人間はおおよそM&Aを知っている体で物事を語るあんこは、そんな態度をにじませていた。
「あれですかな。親の会社が買収されそうでピーンチ。あんこちゃんまん早く助けに来てくれー、といったところですかな?」
「いや、俺じゃないんだけど」創汰は冷静に否定する。「憶えてるかな。同じクラスの清掃部晴人」
清掃部晴人という名前に、あんこが一瞬表情を曇らせる。
清掃部晴人と聞いただけでテンションを上げる女子はうんざりするほどいるから、創汰には意外な反応だった。それともあんこは単に、三次元は例外なくクソといった思想の持ち主なのかもしれない。
清掃部フーズが謎の集団に買収されそうで、そのせいで清掃部晴人が学校を辞めることになるかもしれない。創汰はその顛末を簡単に説明した。
「つまり。あの男を助けたいってワケですか」
――長谷川創汰が清掃部晴人を助けたいなどということがありえるだろうか?
あるわけがない。
けれど面倒なので創汰は黙って頷く。
あんこの目が俄然輝きだして気持ち悪い。
「どうしてそんなにアヤツを助けたいし?」
創汰は答えに戸惑う。
「清掃部くんは友達だから」と嘘の一つも吐けばいいのだけれど、そんな自分のアイデンティティを根底から覆すような嘘をつくのはプライドが許さなかった。
「……わからないんだ」
創汰がそうごまかして首を振ると、あんこは「フオオ……」と唸って鼻息を漏らした。
「会社が買収されそうということはつまり――」
あんこが講釈の口を切った。
「その会社の株が買い占められそうだというワケですから、ああ、つまり買収というのは買収したい企業の株の五〇パーセント以上を買い占めることによって達成されるので、というのは株の五〇パーセント以上を得れば、株主総会での議決権の半数以上を得たことになるから、そうするとその会社の取締役を好きに選任できるようになるわけで――」
「あー、えっと」
「でもそう簡単に買い占めができるワケでもないのでして、アンフェアな株の買い占めは法律でいろいろ規制されてますし、普通の企業は乗っ取りの防衛策を講じているものですし、例えば買い占めの方は『公開買付けの義務』というものがありまして、これは株式を買い集める方法のルールで、市場外で一定の買付けをする場合、買付期間、買付数量、買付価格などをあらかじめ開示させ、開示を義務づけることによって、不意打ち買収を禁止しようという趣旨でありますし」
「あの」
「この他にも『大量保有報告書』と言うのがありまして、大量の株――具体的には対象会社全体の五%の株式を保有する者は、『大量保有報告書』を総理大臣に提出し、保有割合や保有目的なんかを五日以内に開示しなければならんのですが、これによって買収対象にされた会社は『おいおい、なんかウチの株買い占めようとしちゃってるヤツがいるぜ』と気づくこととなり、『ウチ、いつの間にか買収されちゃってましたー』ということはなくなると言いながらも、ここには穴があって「五日以内に開示しなければならない」というのがおミソ、その五日間のうちに一気に株を買い占めてしまえば、『大量保有報告書』が開示されたときには五%をとっくに超えていて、時すでにおすしですしになることはあり得るので」
「……」
「なので企業側でも、己の会社を買収から守る作戦を講じる必要があるわけで、例えば株に譲渡制限をつけ、株主が株式を譲渡するときは会社の承認を得なければならない、としてしまえば、株式の流れを全て会社が把握できる一方、だがしかし譲渡制限をつけた株式は上場できないというデメリットがあり、他にもホワイトナイト、クラウンジュエル、焦土化作戦、パックマンディフェンス、ゴールデンパラシュートといった防衛手法はありますが、グーにはパー、パーにはチョキ、そしてチョキにはグーとどれもそれぞれ弱点があるのは当然のことで、買収する側はそこを上手く突く必要がある。例えばまずホワイトナイトの場合――」