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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ホラー

夜叉色

作者: 千日紅

 耳をすますと、電話口の向こう、息づかい。


『……ぁ……はぁ……はぁ……は……ぁ……』


 受話器を握っている何者かの、何らかの激情を抑え損ねた、腹や胸を骨が折れるくらいミシぃッとおしつぶして、内臓がびちびちと爆ぜる痛みと苦しみに押されて喉から出てくる、言葉にすることなどできようもない憤怒、悲嘆、怨嗟――そう、怨みそのもの。




 無言電話がかかってくるようになったのは、梅雨に入って数日経った頃だった。


 携帯電話にコミュニケーションの多くを頼るようになった昨今、さしあたった必要性はなかったが、私達の夫婦の家には部屋と部屋を結ぶ子機が家中の便利なところにつけられていて、これと外回線を結ぶことは自然なことのように思われた。

 主電話は玄関脇の応接室に入る廊下の壁に寄せ付けた、机の上に置かれていた。

 この電話に響いてくるのだ、誰とも知らぬ沈黙の声が。

 無言電話は、決まって私一人が家にいるときにかかってきた。

 夫は料理店のオーナーシェフをやっていて、朝は早く、帰りも遅い。夫の店の内装デザインを私の立ち上げた会社が請け負って、その縁で私達は結婚した。結婚した当初から、私達の生活はすれ違いがちだった。私も独立したばかりの会社を軌道に乗せるので、精一杯だったからだ。

 それでも何とかお互いの休暇を合わせ、旅行に行ったり、海外ドラマをぶっ通しで視聴したり――そのような時は、私達は誰憚ることなく、お互いへの愛情を示しあって、愛の行為に耽溺した――だから、私も油断していたのだ。


 夫には女がいるに違いない。

 無言電話は、夫の愛人がかけてくるのだ。

 そうでなければ、夫のいない、私だけが在宅しているときに限って電話を掛けられるはずがない。夫は全てに恵まれた人だった。放っておいても、女が群がってくる。

 私はまず、夫の浮気の証拠を掴むため、夫が帰ってくる時間を待ち構えて、リビングで待つことにした。

 夫は車を乗り入れたガレージから、玄関を使わずにそのまま入ってきていた。

 夫は、いつもは寝室で寝入っている私がリビングで起きて待っていることに戸惑った顔をした。

 夫からは、汗と、油と、香辛料の混じった匂いがした。それから、不思議なことに、いや、当然と言うべきか、香水の匂いがした。

 私が青ざめたことに、夫は気がついたようだった。

 そして、「待っていてくれてありがとう」と言った。


 夫は、帰ってきて一番にガレージに設えたシャワーを浴びるようになった。ガレージのシャワーは、車を洗ったり、外で使ったものの汚れを落とすためにあるのに、それで夫が体を洗うのは忍びなかったが、夫曰く、せっかく待っている私に、一日の労働でたっぷりと汚れた体では、抱擁をすることもできないからと。

 やさしく微笑んだ夫を、私はそれ以上追求できなかった。

 嘘に決まっている。夫はあの香水の匂いを、女の匂いを消そうとしているのだ。


 私は夫が帰ってくるのを待つ。

 夫はまたガレージから上がってきて、私に感謝を述べて抱きしめる。

 抱きしめられれば、夫の仕事でも、女との情事でも、残り香は存在しない。

 私が待っているとなって、夫は自分の店で作った料理を持って帰ってくるようになった。試作品だという数々は、田舎風の気の置けない料理から、洗練された手の込んだ料理まで様々だった。

「傑作なんだが、誰も一緒に味わってくれなくてね」

 夫は私の行動を彼への献身と受け取った。


 夫と私は一杯だけワインをグラスに注ぎ、深夜のディナーを愉しむ。

 夫の視線は、私の唇に注がれ、そこには私がまごつくほど激しい欲望が込められている。料理の脂で艶かしく艶めいた唇を、夫の親指が拭う。

 夫の料理が並ぶテーブルに手をついて、後ろから挑まれながら私は途切れ途切れに思う。

 もしかしたら、女などいないのではないか。夫は私だけに愛を捧げているのではないか。

 ――無言電話など、ありもしない幻覚なのではないか。


 けれど電話は鳴り続ける。毎晩、私が受話器を取って、耳に押し当てるまで、電子音が鳴り響く。

 恐ろしいことに、息づかいばかりだった電話は、声を私に聞かせるようになった。

 夫との私の愛の巣に。夫が図面を引かせ、私がインテリアを決めた家に。

 誰もが羨む、私達夫婦の生活を、引き裂こうと電話は鳴り響き続ける。 震える手で受話器を取り上げ、耳に押し当てる。


「……ぁ……はぁ……ぁ……はっ! ああっ! あっ! あーっ! あーっ!」


 獣のように叫ぶ女の声だった。男に貫かれ、頭を振り乱しながら、絶頂の時に上げる声だと私は思った。

 もうたくさん!

 時計の針はそろそろ夫が帰ってくる頃を指す。

 一時も早く夫の顔が見たくて夫の帰ってくるガレージに向かった。もう待つことはできない。今夜こそ言うのだ。女がいるのでしょう!?



 夫の趣味である高級車を何台も収納したガレージ。ここだけはインテリアも夫が決めた。

 私たちは干渉しない、自立した大人のカップルだ。だから、お互いの領域は不可侵である、当然のことだ。

 いつもなら私は夫に許可を求めただろう。

 ガレージの扉を開けると、私の顔に強い冷気が吹き付けた。過剰すぎる冷房、コンクリートうちっぱなしの床、壁、よく手入れされた車。

 私はその場に立ち尽くした。

 ガレージには夫の車が並ぶ。その車と同じ間隔で、壁にはアンカーが埋め込まれ、そこから一組ずつ手錠がぶら下がっていた。


 空の手錠。

 空の手錠。

 女の腕がはまった手錠。

 空の手錠。

 空の手錠。


「……ひっ……」


 私の喉から悲鳴にならない息が漏れる。

 ひとつだけ役割を果たした手錠からは女の腕が一本ぶらさがり、肘のとこで切断され、ぎざぎざに伸びた皮、真っ赤な肉と骨。

 私は腰を抜かし、その場にへたり込んだ。

 何が……あれは、何で……いや、誰……が……。

 警察。

 ガレージの壁に取り付けた子機が目に入った。

 脇にあったクーラーボックスに手をついて立ち上がろうとして、ボックスごとひっくり返る。その拍子にクーラーボックスが開いて、中から透明なラップに包まれた幾つかの塊が出てきた。


 財布、スマートフォン。

 肉の塊。

 肉の塊。

 下顎のない女の頭。


 女の顔。


 瞼を切り取られ、眼球が剥き出しになり、鼻はそぎ落とされて二つの歪な三角の穴、かろうじて残った上唇は白くひび割れ、口裂け女のように耳まで繋がり、頬紅で装うあたりまでは肉が抉られ、骨が見える。

 乾いた赤い肉はつやつやとゼリーのような光沢を放ち、脂が白く膜、ぴったりと張られたラップごし、異臭。熟成された肉の甘ずっぱい匂い。

 きれいにカラーリングされた女の髪が、ラップの中で女の顔にマーブル模様を作っている。


 私は吐いた。吐瀉物にまみれ、助けを求め私は必死で電話に手を伸ばす。

 指先が触れた瞬間、受話器が外れて落ちた。

 ぶら下がった受話器。


 ブツッ


 ……ぁ……


 はぁ……

 ……はぁ……は……あぁ……


 あ、……ぁあっ


 あーっ! あーっ! あーっ!

 あぁーっ!


 ……ぁ……


 ……て……


 ……けて……


 ……たす……け……


 あーっ! あーっ! あーっ! あーっ! あーっ!


 ガシャン


 金属がぶつかる音がして、ガレージのシャッターが上がり始める。

 薄暗いガレージにヘッドライトの光が差し込み、一台の銀色の車が滑り込む。

 エンジンが止まり、ドアが開き、私の夫が。

 愛しい夫が降りてくる。


 夫はガレージの床に座り込んで失禁した私を見下ろすと、熱の籠もった視線で私を見つめ、それから、蹂躙された女の肉を見た。

 夫の優しい微笑みが迫ってくる。


「……あの頬肉のソテー、君が喜んでくれてとても嬉しかったよ」



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