長い長い長い名前
「山田愛郷厳揮蒸樹……」
俺の名前はいわゆるキラキラネームだ。それもタチの悪いことに、めちゃくちゃ長い名前なのである。
俺のフルネームは『山田愛郷厳揮蒸樹鋼尊奮夢豊純律義護熟秀秘密賢霊偉藍紅清廉豪傑不老不死天才勇気百倍太郎』という。
字面を見ただけで頭が痛くなるような文字数だ。
なんでも、馬鹿な両親が『自分の名前だったら無理して覚えなくても書けるようになるだろう』と、アホな思い付きをしてこんな名前になったらしい。
名字が『山田』と、面白みがなかったことから名前は派手にしてやろうという思惑もあったようだが、完全に裏目に出ている。
両親揃って頭が弱く、漢字を苦手としていたことから起きた悲劇だった。役所の連中が何故ストップをかけなかったのか、俺は三十路を超えた今でも出生届を受理した奴を尋問したいと思っている。
こんな馬鹿丸出しな名前だと、困ることはたくさんある。
まず、親は漢字テストに有利になると思ったらしいが、そもそもこのフルネームを用紙の名前欄に書ききることは不可能だ。大抵『山田愛郷厳揮』くらいで済ませていたが、それでも長い。難しい漢字が続くので、名前を書くだけで腕が疲れてしまう。そのせいで俺のテストの点数はいつも振るわなかった。全て馬鹿な両親のせいだ。
おまけに意味のない漢字の羅列のため、両親以外の人間に正式な名前を呼ばれることは皆無だった。
親は馬鹿なくせして意地っ張りで、自分たちの命名が間違っていたと認めたくないのか、いつだって俺の長い名前をフルネームで呼ぶ。馬鹿みたいだ。
『郷厳揮蒸樹鋼尊奮夢豊純律義護熟秀秘密賢霊偉藍紅清廉豪傑不老不死天才勇気百倍太郎、今日の学校はどうだったんだ?』
『郷厳揮蒸樹鋼尊奮夢豊純律義護熟秀秘密賢霊偉藍紅清廉豪傑不老不死天才勇気百倍太郎、早く寝なさい』
『宿題は済ませたの、郷厳揮蒸樹鋼尊奮夢豊純律義護熟秀秘密賢霊偉藍紅清廉豪傑不老不死天才勇気百倍太郎』
こんなことを一日に何度も言われるのだ。
おかげで俺は、俺の正式名を誰かの口から聞いている最中、非常に長い時間の経過を感じるようになってしまった。
ほら、退屈な時間というのは長く感じるものだろう? それと同じで、俺は自分の名を聞かされる時間が長くつまらない無駄な時間だと認識するようになっていた。多分、体感時間だと十分くらいだろうか。
たまに両親以外にフルネームで呼ばれると(例えば入学式の時とか)、言い慣れないせいで言葉をつっかえたりするために、更に長く感じる。
せっかくなので、この名前で良かったと思うことを、無理やり思い出してみよう。
そうだな……小学校の時、隣の席の相手について作文を書く時間があった。その時俺は隣の女子に長い名前のせいで文句を言われるかと思ったが、逆に礼を言われてしまった。
『山田くんの名前、長いからすぐに作文用紙が埋まったよ』と。良いことなのかは分からないが、女子に感謝されるのは悪い気はしなかった。
あとは、やはり否が応でも注目を浴びることだろうか。学校ではすぐに顔を覚えられる。もちろん変な名前の奴、として。
病院の受付で名を呼ばれた時は、大抵二度見される。
二回目の診察の時には、受付係や看護師に存在を覚えられているので、これもプラスな面といえるだろうか。
どれだけ血眼になって探してみても、この名前で良かったことなどこの程度しか出てこない。
しかも中学校、高校と年齢を重ねていくにつれ、デメリットばかりが目立つようになっていった。
名前のせいでイロモノ扱いされ、学内ではまともに付き合ってくれる奴もいなかった。最も、名前だけで他人を判断する様な連中はこちらから願い下げだが。
こうして面白みのない学生生活を過ごした俺は、大学には進学せず高校卒業後すぐ職についた。
仕事はキツかったが、学生時代のように俺の名を表立って馬鹿にする輩はいなかったから、その点は良かった。
特に同期入社した田原という男とはそこそこ馬が合い、よく仕事後に遊びに行く仲になった。お互い入社当初は未成年だったので大っぴらには酒を飲むことは控えたが、成人を超えるとすぐに夜の繁華街に飲みに行っていた。
「山ちゃんは名前と同じくらい変わってるよな」
酒で顔を赤くし、べろべろに酔いながら回らない舌で田原はよくそんなことを言った。
田原は俺と同い年だったが、二十歳になるとすぐ結婚し、子供まで出来た。女性経験の全くなかった俺には、違う次元の存在のようだった。「でも、デキ婚だぜ」とはにかんで見せる田原を、今でも時々懐かしく思う。
俺が二十三の頃だった。ある日、会社の先輩に「良い儲け話がある」と持ち掛けられたのだ。まず、その人が声をかけたのは田原ではなく俺だったことに違和感を持った。
田原は社内でも人付き合いが良い方で、俺よりよほどその先輩と仲良くしていたからだ。
とりあえず話を聞くだけ、と思い休日を削ってその先輩の家に行った。そこで聞かされたのは、いわゆる株の話だった。
知り合いの会社の未公開株が……。今買っておくと絶対に儲かるから……。
確かそんな内容だったと思う。
金の匂いをちらつかされ、俺は話に夢中になった。
ようやく俺にもツキが回ってきたに違いない。先輩宅で出されたマズイ茶を啜りながら、そう胸を熱くした。
気がつけば、差し出された契約書を前にペンを握っていた。名前を書きあとは判子を押せば、それで取引成立だ。
しかしここでひとつ問題があった。
俺の名は聞くのも大変だが、書くのはもっと骨が折れるのだ。
山田郷厳揮蒸樹鋼……と小さな文字で自身の名を書きながら、俺はふと考えた。
この話は虫が良すぎやしないか?
もしや騙されているのでは……。
奇しくも長い名前を書いている最中に頭が冷静になり、疑問が湧いてきたのだ。俺はペンを置き、少しの間考えた。
いいや、そんな訳がない。この話に乗らないのは大馬鹿じゃないか。
そう自分自身を言いくるめて、続きを書いてしまうことがどうしてもできなかった。
「限られた人数しか投資できないんだ。お前だから声をかけたんだぞ、勿体無い」と怪訝な表情をする先輩を振り切り、結局その日は判子は押さずに先輩宅を後にした。
それからしばらく経ったある日。珍しく田原が「うちでメシでも食わないか」と誘って来た。
金がかからないということで、俺は二つ返事でオーケーした。
田原の家は会社からほど近い木造アパートだった。
お世辞にも綺麗とは言えないが、家族三人暮らしならば不便はないのだという。
玄関に入ると、田原の奥さんが子供を抱いて出迎えてくれた。
「おかえりなさい。山田さん、いらっしゃい」
まだ若く、美しい女の人だった。子どもを産んだとは思えないほど、メリハリのある体つきをしていた。
俺はまともに目を合わせることもできず、たどたどしく会釈をした。
「山田、妻の真美子と娘の亜夢だ」
田原はすっかり父親の顔になって、俺に家族を紹介する。
それからすぐに居間に通された。古びた茶ダンスやぼろぼろの段ボールが六畳間にひしめいている。タンスの上には子供を挟んだ、典型的な家族写真。
その部屋の真ん中で、小さめのローテーブルがどでんと存在感を放っている。
田原は一旦台所の方へ姿を消すと、戻ってきた時にはほくほく顔ですき焼き鍋を手にしていた。
「山田、肉好きだろ? たまにはいいもん食って精をつけろよな」
田原の後からひょこひょこと付いてきた奥さんは、大量の肉を持っていた。パック詰めされた肉は赤身と脂肪がくっきりと分かれており、けして安価ではないであろう事を、普段自炊などしない俺にも察しさせる。
「いいのか田原、こんなごちそう……」
「いいんだよ、お前には世話になってるしな。それに俺、臨時収入があってさ」
田原は俺を畳の上に直に座らせると、でかいビール瓶を置いた。発泡酒じゃない、本物のビールだ。缶でもない、今や珍しい瓶である。それも一本や二本ではなく、一ダースはあるように見える。
目玉が飛び出るかと思った。田原は俺と同じ、安月給のはずだ。
俺の顔を見て、田原はにやりと笑う。
「実はな、この間江本さんからいい儲け話を聞いたんだ。そしたらよお、ひと月で十万も儲けが出たんだよ!」
俺は目の前が真っ暗になる思いだった。
江本とは、俺を自宅に誘って株の話を聞かせた先輩の名だ。
田原のにやけ顔が、ひどく歪んで見えた。
……田原は友人も多く、仕事も出来て美人な奥さんと可愛い子どもまでいる。その上、多額の金まで手に入れた。
それに比べて俺はどうだ? 友達など数えるほどしかいないし、彼女なんて妄想でしか出来たことがない。もちろん、金だってない。
おかしい。
この世の中はどうなっているんだ。なんで俺の人生にだけロクなことがない? 俺が何をしたっていうんだ。
最早箸を動かす気も無くなり、俺は思考に没頭した。目の前にはすっかり火が通り、茶色く染まった上質な肉が鍋の中で躍っているが、手は一ミリも動かない。
おかしい、どう考えたっておかしい。どうして俺にだけツキが回ってこないのか。
田原の奥さんが包丁とまな板を持ってきた。そのまま野菜を切ろうとすると、「台所で切れよ!」と田原に咎められ、恥ずかしそうに微笑んでいた。
「亜夢、お母さんはホント天然だな〜」と俺の存在を忘れ、田原は愛娘に向かって相好を崩す。
そこで俺は気付いた。全て、俺のこの名前のせいだと。
思えば、このクソみたいな名前のせいで敬遠され、俺の人生からはツキというものが全て逃げていったのだ。
その日俺はたらふく肉を食い、ビールを半ダースは呑み、その日はそのまま田原の家に泊まった。
そういえば、今日はあの日以来久しぶりに肉を食ったんだっけ。
「……清廉豪傑不老不死天才勇気百倍太郎死刑囚。これより死刑を執行する」
俺の目の前に立つ初老の老人が、息も絶え絶えに言い終えた。
ああ。ようやくか。この爺さん、刑務所のお偉いさんらしいが、もう首切った方がいいんじゃないか。
死刑囚に死刑を言い渡すだけで、これだけ息を切らしてるんだから。
おかげで俺は、人生の最後の最期に最長の体感時間を味わうことになってしまった。
それも、この爺さんが俺の名を何度もつっかえたり言い間違えたりしたせいだ。
そうでもなきゃ、こんなつまらない俺の人生を振り返ってみたりしようなんざ思わなかっただろう。
俺はチラッと横を向く。高所にあるガラス窓の向こうには真面目そうなおっさん達が三人、目におかしな光を宿しながら俺の方を見ていた。この距離からでも、連中が揃いも揃って喉仏を上下させたのがわかる。俺の視線に気づくと、仲良く揃って目を逸らした。
「……前へ」
顔馴染みの刑務官に言われるがまま、俺は足を一歩前に進めた。今、俺の足元はボタン一つで下へ落ちる、処刑台専用の床だ。
首に太い縄がかけられた。
「……山田死刑囚、最後に何か言うことは」
先程俺の名前を読み上げた爺さんが、低い声音で俺に尋ねる。
「焼肉用の肉はもっと良いもんを用意してくれ」
俺がそう答えると、爺さん含め周りの刑務官たちは怪訝そうに顔をしかめた。
死刑囚は最後の食事として、好きなものを好きなだけ食べさせてもらえることになっている。俺が選んだのは、あの日と同じ焼肉だった。
田原たちを殺した日と同じ、焼肉だ。
「……何の非もない人々を惨殺した罪は重い。しっかりと自らの罪を償うように」
爺さんは言った。
あの日俺は自分の人生の運の無さに絶望し、その場にいた田原、田原の奥さん、そしてその娘を田原の家の包丁で殺した。
あれから十年間、俺は刑務所に入りっぱなしだ。ただ死刑囚は働く必要がなく、その点でいえば楽だった。
あと刑務所暮らしでは名前ではなく番号で呼ばれるので、あの長い名前を一時的ではあるが忘れられたのも良かった。
俺の人生において、案外一番輝いていたのはこの刑務所での暮らしだったかもしれない。いや、それはないか、うまいメシは食えなかったし酒もタバコも全部
あ、落ちた。