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「えっと、もしかしてタイミングが悪かったですか? 私、直ぐにでもルーデさん達と働きたくて……いても立ってもいられなくて……。また明日、出直しますね……」
呼び方は任侠映画の登場人物みたいで親しみやすいが、多分、渚を面接してくれたりする重役が不在なのだろう。それを察し、気が早ってしまったと後悔する。
そんな時、隣部屋の扉が静かに開く。
「構わないわ。入っていただいて」
優しく響くのは、心へと沁み込んでいくようなソプラノの声音。その一言、二言だけで、聞いている者全てを虜にする慈愛に満ちた声だった。
聖母、という人物がいるとすれば、きっとこんな声で子をあやすのだろうとさえ思える。
「姐さん……こんな時間に大丈夫なのか?」
驚いた様子でエリックが尋ねる。
「えぇ、大丈夫よ。せっかく来ていただいたのだから、私もお話をしたいわ」
「まぁ、姐さんがそう言うなら……。ほら、ナギサ」
ルーデやエリックはやや困惑した様子だが、重役の言葉に従って渚を部屋へと促した。
渚も、時間を圧して面接を受けさせてくれる、聖母めいた女性に「怖い人じゃなければ良いな」と場違いなことに緊張する。
「……」
ここへ来て何度目かの固唾を飲み込み、ゆっくりと部屋へと踏み込む。
しかし、そこにあったのは闇。
開いた扉から差し込んだ陽光に切り取られた一部だけが目視できるのみで、文字通り部屋全体が闇に覆われている。人の姿など見えない。
「失礼します。今日は、私のために時間を割いていただき誠にありがとうございます」
それでも至って冷静に一礼し、部屋の中へと進んで行った。
何かを試されているのか、と疑って、それでも多少のことでは動じなくなっている自分に気付く。
部屋の中央付近まで歩み寄ったかどうかというところで、スポットライトを真上から浴びせたみたいに闇の一部が晴れて、作りの良いアンティークなソファーチェアが照らし出された。
「はッ……」
それを見届けた後、部屋の外にいたルーデとエリックは、独りでに閉まりゆく扉の向こうで渚を見つめていた。そして闇に閉ざされる。
「こんにちは、良くいらしてくださいましたね。漣 渚さんでしたか。おかけになって」
「はい……。失礼します」
面接の仕方は一通り復習してきたが、高校受験以来なので緊張してしまう。その上、ほぼ一夜漬けだ。
高級な――そんなことわかりっこないが――牛革の香りがするチェアーに腰掛けたところで、目の前の闇が開けて女性の姿が現れる。
漆黒のドレスを身に纏った、30歳後半になるかどうかという美女だった。闇の中でなお銀色に輝くロングのストレートヘア、眉目秀麗な顔立ちに煌々と灯る深紅の瞳。
ルーデも、体の曲線や程よい肉付が映える欧米人的な美人だと感じたが、あれはまだ磨いてできた美だ。目の前にいる美女は、存在そのものが既に完成された美であった。
「初めまして、私はマダリン。この魔物諜報会社を纏める社長でございます」
「私は、漣 渚です。本日はよろしくお願いします」
互い、ハキハキとした口調で、それでも静かな清流のせせらぎに似た声音で自己紹介する。
「社長とは申しても、あなた方、人間の役職に合わせて名乗っているだけなのですけれど。それは置いときまして、早速で申し訳ないのですけれど、幾つか質問に答えていただけるかしら?」
緊張を解そうとするかのように、マダリンはこれまで見たことのない至上の笑顔を向ける。
「……は、はいッ」
思わず見惚れてしまい、返事が遅れる。
「ふふふ。初めてですと大抵の人が私に魅了されそうになってしまいますので、気にしないで良いのですよ。それで、質問なのですけれど。渚さんは、どうして私達のところへいらっしゃろうと思おいになったのです?」
「ルーデ……ゲルトルーデさんに誘われたからです。私には、守らないといけない約束があって、それが何だったのかはっきり覚えていないんですけど、こちら――魔物側に来なければ守れない約束だと分かるからです」
根拠のない確信だった。
答えてから渚は、自分が何を言っているんだ、と自身で呆れてしまう。
(馬鹿だなぁ。こんなこと、何の理由付けにもならないじゃない……)
マダリンはそんな渚を、静かに微笑みを携えたまま見つめるだけだ。
「こんなこと小娘の戯言だと思われるかもしれませんが、一度、私はその約束を守れなかったんだと思います。だから、今度こそこのチャンスを逃がしたくないんです」
自嘲しながらも、紡がれる言葉は止まらない。
「ルーデさんに出会って、少し分かったことがあって……たぶん、この約束は私と魔物側に関係することだってことです。全人類を敵に回しても、守らないといけない約束なんだって……! ハッ!? ご、ごめんなさい、私、熱くなっちゃって……」
いつの間にか、涙も留めなく溢れてきていた。どうしてこんなに悲しいのか分からない。
失われた記憶に関係していることだと思える。
きっと、とても悔しくて、力のなかった自分を責たいのだと思う。
「良いのですよ。吐き出しなさい。それは、吐き出さないと心の奥底に埋もれてしまう大切な物なのです」
気付けばマダリンが横手に回りこんでいて、渚を優しく抱きしめる。
「これからは、その大切な約束のことや、危険なことで辛いものになるかもしれません。それでも、貴女は私達と共に歩みたいのかしら?」
答えは決まっている。
「はい」
僅かな間を置くこともなく、渚は答えた。
「そう。では、合格よ」
ゆっくりとした瞬くをして、マダリンが言葉を紡ぐ。
期待した言葉。
そして、その名前を。
「ようこそ、魔物諜報会社『Adriana Lecouvreur』へ」