第二十三話・脱出したその後
さて、渚が意識を取り戻したのは暗い部屋の中だった。頬に当たるのは、平らな石であろう固くざらついた感触である。
(夢……か)
顔を包むヒヤリとした感覚に意識を引っ張られながら、渚は小さな者達の語る話に耳を傾けていたことを思い出す。けれど、その内容は覚えていない。だた、目頭から頬にかけて少しだけ濡れている。
夢のことよりも先に、渚は現状を整理するために頭を回転させる。
手足は、ロープで縛られているらしく動かせそうにない。口を塞がれていない辺り、この部屋がどれだけ叫ぼうとも助けを呼べないようになっている、ということも判断できた。顔や手が感じる冷たい湿気から予想するなら、この部屋は地下だ。
「……後は、どんな部屋なのか、かな」
そこまで考え終えて、一人で呟く。
頭を整理していて気にしていなかったが、傍に誰かが寝転がっていたようだ。渚の声に反応して、その人物も口を開く。
「渚、起きたか」
「あッ、竜等さん。無事でよかったです」
聞き覚えのある声に、渚も返事をする。
どうやら、竜等 薫も渚と同じ状況のようだ。
「これが無事と言えるのかはわからんが、とりあえず怪我はしてない。さすがに氷点下じゃないが、浴衣だと肌寒いぐらいだな」
「それだけ喋れる余裕があるなら、大丈夫ですよ。ところで、ここは一体どういう部屋なんです?」
生きて再び出会えたことに、渚は安堵の息を吐く。この程度で焦って、失敗してしまうのではまだまだ渚は半人前のようだ。
しかし、だからと言ってここで諦めて、可能性の低い助けを待つほど渚だって諦観はしていない。
体を拘束しているのは手足のロープだけなので、部屋の状況さえ掴めれば脱出はできると考える。相手はそこそこの人数がいるため、ここまで侵入してきた渚のことはそれほど警戒はしていない。加えて、まだ外は吹雪き始めているはずなので、拘束を解いたところで洋館から逃げ出しようがないと判断したのだろう。何よりも、懐に入れた魔導書が奪い返されていないのが、何よりの証明だ。
「ここは食堂の下にある地下だな。氷室とでも言うのかね、ワインセラーの役割があるみたいだ。あと、物置にも使われていてちょっとしたものならある」
薫の説明を聞いて、これは僥倖、と渚は笑みを浮かべた。
まさか、ここまで脱出にうってつけの部屋に閉じ込めてくれているとは思わなかった。
「わかりました。では、竜等さんは何かタオルくらいの布を探してください。それと、どうでも良いことかもしれませんが、竜等さんはどうして逃げなかったんですか?」
人を小馬鹿にして、油断している奴らに目に物を見せてやろう。そう、渚はいやらしいことを思ってしまう。
薫だって、逃げだそうと思えば簡単に逃げ出せる状況だったはずだ。こうやって、渚が捕まることを予想していたわけではないだろうに。
「捕まって立場の弱いフリをしておけば、あいつら調子に乗って色々と喋ってくれるもんでよ。さっきも、面白い話が聞けたぜ」
「人が悪いですね」
「渚も、人のことは言えんだろ。声が弾んでるぞ」
こんな状況にも関わらず、渚と薫が視線を合わせて笑い合う。声など出していないが、この暗闇でも何となくどんな顔をしているのかはわかった。
どちらか善で悪かなど関係ない。やられたらやり返す。何事も諦めたらそこで負けを認めたことになる。
その辺りをルーデから学んでいた。
だから、次に顔を合わせるときは殴ってやる気概で脱出に望むのだ。それも含めて、とりあえず一発では終わらせないための口実を作っておく。
「それで、彼ら何をしようとしているんですか? たぶん、私達の方が関わりのある問題だとは思いますが」
「そうだな。まず、あいつらは悪魔を召喚しようって腹らしい。俺はそこまで詳しくないが、フルーレティっていう悪魔ってぇのは聞いた」
「フルーレティ、ですか? 私も、さすがに聞いたことのない名前ですね」
大体は予想していた答えが返ってくる。
悪魔種の概要こそエッタから聞き及んでいるものの、名前の全てが出てくるほど渚も学ぶ時間はなかった。ゲームなどで出てくる有名どころくらいはなんとか、といった具合だろうか。
そんなことを話しつつ、渚は脱出用に使うワインの瓶を足で探り、一本をなんとか挟み込むようにして取り出す。
「その悪魔を召喚するのに儀式と生贄が必要だってことで、あいつらはあのカガミって小僧を使うつもりみたいだな」
「なッ……!? アッ……!」
続く薫のセリフに、渚は驚いてワインの瓶を取り落としてしまった。
割れるほどではなかったものの、高音が地下室に響き渡る。
『……』
音を聞きつけて白装束達がやってこないか、しばらく沈黙を保ったまま様子を見る。が、どうやら相当に防音が利いているらしく、地下の入口が開くようなことはなかった。
「ふぅ。き、気をつけろ……。しかし、そんなに驚くことかね?」
「友達、ですからね。でも、カガミの資料があった理由に納得が行きました」
「渚のお友達を誘拐でもしようってぇのかね。で、ホントに友達なのか?」
「それ以外に何があるって言うんですか?」
「いやぁ、こりゃ結構、前途多難かもと、ね」
「?」
安堵する薫と、そんなやりとりを交わしながら、渚はワインの瓶にタオルを巻きつけていく。
薫に瓶の口を押さえてもらい、足を使って二周ほど。
ちなみに言うと、渚が「それ以外に」どうのと答えたのは「誘拐でも」の部分である。当然のことながら、渚に薫の意図は伝わっていない。
それはさておき、タオルを巻きつけた瓶を床に叩きつけることで音を響かせずに割るのに成功する。後は破片を使ってロープを切っていけば。
「はい、まず手がとれました、と」
手を縛っていたロープから抜け出し、まるで脱出マジックに成功したかのように振舞う。直ぐに薫もロープを切り、足の方に取りかかる。
しかし、様々なミステリ小説を読んだりサスペンスドラマを観てきたが、こんなところで役に立つとは思ってもみなかったことだ。
「渚、お前はこういうことをどこで覚えてくるんだ? お前さんとこの魔物達がレクチャーしてくれるのかね?」
「いえ、小説やドラマからですね。他にも漫画やゲームですけど、世の中に無駄ってことは、もしかしたらないのかもしれませんよ。それから、ルーデさん達はこんなまどろっこしいことをしなくても脱出――いえ、捕まりすらしないんじゃないでしょうか」
「御高説どうも。アントニエッタ嬢やエリックって奴はそうかもしれんが、エルトルーデはどうだろうな」
「言ってあげないでください。逃げ足は速い人ですから」
などと悠長に噂をする二人。きっと、どこぞのタクシーの中でクシャミを漏らしているに違いない。
『クシュンッ!』
『風邪でございますか? うつさないでくださいませ』
『健康優良児だぜ、私は。このぐらいの寒さで風邪なんて引いてたまるか』
『肯定。何とかは冬の風邪を引かないと申しますので単なる噂でございましょう』
『そうそう、夏風邪は馬鹿が引くって、るっさいわ!』
『ハハハハッ。面白いねぇ、お姉さん達。昨日から不思議なお客さんばっかり乗せるわね』
という具合だ。
「さて、準備は良いですか?」
「まぁ、こんなところで良いだろ」
拘束を解いた二人は、脱出の準備を終えて歩き出す。
残念ながら武器になりそうなほどのものはなかったが、とりあえずは雪掻きに使うであろうプラスチック製と思しきカラフルなスコップ一個、瓶を割ったタオル、それと手足に巻かれていたロープを束ねて持っていく。
敵を拘束するのに使えると思ったからだ。こちらから仕掛けるつもりはないものの、それでもいざと言うときは戦わねばならないだろう。ただし、ちょっとくらい思いっきり殴られる覚悟はしておいてもらおう。
暗闇をゆっくりと進んで、食堂へ出る入り口まで軋む木の階段を上がって行った。聞き耳を立ててみるも、やはり防音性が高いせいか足音一つ聞こえない。
「……いくぞ」
「……はい」
緊張の面持ちを浮かべた薫に、同じ表情の渚が答える。正方形の扉を押し開け、隙間から少しでも周囲の状況を探る。とりあえずは、三面に敵の姿は見当たらなかった。
薫によって扉が大きく持ち上げられると同時に、渚が外へと飛び出して前方に転がる。すぐさま立ち上がり、スコップを構えながら扉の残り一面側で待ち伏せされていないかどうかを確認する。
「……ふぅ。大丈夫です、竜等さん」
食堂のどこにも白装束の姿がないことを確かめ、渚が薫を呼んだ。
薫も素早く登り切るとゆっくり扉を閉める。
食堂からロビーに出る扉も同じくして、薫が扉を開いて渚が飛び出しながら索敵。
「じゃあ、外へ出たら一気に走って行くぞ」
周囲に注意しながらエントランスへ向かい、ドアノブに手を掛けて足に力を込めた。
扉が引き開けられると同時に二人はエントランスへ飛び出し、周囲を囲む雪を落としながら駆け昇る。
吹雪が体を打ちつけ、走っているつもりでもほとんど前に進まないまどろっこしさに気が焦る。それほどかからず敵も渚達の逃亡に気づいて追いかけてくるだろう。それまでに、どこまで距離を開けられるかが勝負だった。
だが、吹雪に合わせてもう一つの問題が浮き彫りになってきた。
「……ッ」
「竜等さん……!」
渚はダウンジャケットがあるためなんとか持ち堪えられるものの、薫は厚手の浴衣一枚だけなのだ。当然、寒さにやられて身体の自由が利かなくなり始める。旅館までのたった十数分の距離が、雪風に阻まれて何時間にも感じた。
倒れかけた薫を渚が精いっぱい支えるが、それでも針葉樹林を抜ける頃には限界が訪れる。
「すまん、大人の俺が足を引っ張っちまって……。最悪、お前だけでも逃げろ……」
「そんなッ。駄目です……! 後少しですから、がんばりましょうよ!」
洋館に残してくるべきだったか、と渚は後悔しつつもそれを頭から振り払う。
渚が逃げたことを敵が知れば、薫に何をしようとするか分かったものではない。
「言うこと聞きやがれ、我がまま娘! 憚られて聞かなかったけどよ、お前、処女だろうッ?」
「こ、こんな時になんてこと言ってるんですか!? 馬鹿ですかッ? 凍え死ぬ前に、私に殴り殺されたいんですか!?」
「ちげぇよ! どうやら、処女ってぇのは悪魔を呼び出すのに、生贄に適してるみたいなんだよ……。だから、お前とカガミのガキが捕まったら、本当に悪魔を呼びだしちまうんだよッ……」
いきなりのことで頭から火を噴きそうになったが、続く説明に納得する。
確かに、悪魔崇拝に処女の血を使うという話は良く聞く話だ。カガミがどうして関係してくるのかはわからないものの、魔物の血をひいていることが関係あるのかもしれない。
「でも、ここで竜等さんを見捨てて行くなんて、できません……。きっと、私を探してエリックさんが来てくれます。光輝さんや、カガミだって、心配してるに決まってます! 私だって、我がままを言いたくなる時ぐらいあるんですから」
渚は必死に薫を立ち上がらせようとする。
どうしてだろうか。渚にとって、薫は友人くらいの関係である。見捨てる許可を貰った以上、共倒れの危険性を推してまで連れて行く必要性はないはずだ。それとも、薫は渚の中で『仲間』にランクアップしたのだろうか。
「友達でも、仲間でもない……」
「そうだ。ここで見捨てられても、文句なんざいわねぇよ……」
十歳近くも離れた薫に対して渚が抱くのは、頼れる隣人に対するちょっとした期待だ。困った時は、なんとなく助けてくれるという可能性。そして、時に不要なくらいの過干渉に及ぶ大人ぶり。
(お父さん……?)
薫が怒鳴った通り、渚は薫にとっての娘であり、そして自身にとって彼は父親のような存在になっている。父親の顔を知らずに育った渚だからこそ、強くそう思ってしまうのかもしれない。
いずれにせよ、簡単には天秤に掛けられない大事な人であることに間違いはない。
もう、意識をほとんど失って渚にもたれ掛かってくるだけの薫を、どうすれば救えるか頭をフル回転させて考える。ダウンジャケットを貸せば今度は渚が凍え、どちらも動けなくなる。渚も、薫を抱えて吹雪の中を歩くだけの身体能力などない。
手元にはロープが数本、魔導書、そしてスコップ。
『ビバークしよう』
渚と、もう一つの声が結論に至る。
振り向けば、そこにはカガミの姿があった。エリックや光輝はいない。
「か、カガミ……」
「うん。無事でよかったよ、渚」
渚の呼び掛けにカガミが応える。
夢や幻聴ではなく、確かにカガミがそこにいた。それはある意味では幸運、別の意味では不幸なことだ。
この状況で、打開策があるとすればカガミの手助けや救援物資だ。しかし、敵は渚とカガミを狙っている。一網打尽にされる可能性を残しているわけだ。
「二人が動けるようならこのまま旅館へ戻る手もあったけど、どうやらそうもしていられない様子だからビバークして吹雪をやり過ごそう」
「でも、あいつらが私達を追ってくる……。早く逃げないと……」
「あいつら? 誰のことか分からないけど、ここで無理をすれば命を落とす確率の方が高い。遭難して最も命を落とす要因は、自分達の体力を過信して行動することだ」
雪を知る、周辺環境を熟知したカガミの言葉に、渚は頷かざるを得なかった。
体力が減った状態で敵に追い付かれるよりも、ここで体を休めておいた方が少なからず有利に動けるのも確かだ。
「うん。急いで、ビバークできるようにしよう」
「じゃあ、まず……」
ちなみにビバーグとは、野外での不時伯のことである。野営よりも緊急性が高い際の呼び方だろうか。
カガミが背負ってきていたリュックサックから毛布を一枚取り出して薫を包む。次にリュックサックの上に座らせて、木を背もたれ代わりに使う。低体温症にかかっているため、雪に触れる範囲を可能な限り減らすためだ。
その間に渚が、雪を少し下向きにスコップで掘り進む。途中でカガミに穴掘りを交代する。
「渚も少し休んでいて。この環境を乗り越えるのだって、体力勝負なんだから」
「……うん」
こうなると、如何に人間というものが無力か分かる。交代する際、カガミの手は渚よりも冷たかったというのに、何の問題もなさそうにビバーク用の穴を掘り進んでいくのだ。かじかんだ手を握りしめて、ただ待つことしかできないのは人間だけだった。
「何とか……こんなもので行けるかな?」
急造ではあるものの、三人が入っても少し余裕があるぐらいのカマクラが出来上がった。土よりも柔らかい雪とは言え、この短時間で作れる程度には手慣れているということだ。
後は空気穴だけ残して入口をビニールシートで塞いでしまえば、寒風からは身を守れるわけである。そこにランプを灯して携帯コンロを焚けばかなり温かくなる。
「はい、これを飲んで少しでも身体を休めて」
「ありがとう、カガミ」
手渡された温かい緑茶を受け取り、渚は息を吐く。溜息と、安堵が混じり合ったものだ。
少し落ち着いたところで、渚は洋館であったことや自分達の置かれている立場をカガミに説明していく。説明し終える頃には、渚も衣服の湿り気が気になる程度には身体の温もりが戻ってきているのに気づく。
「そうか……。そんなことが、ね。あ、震えてるけど大丈夫?」
「ジャケットが冷たくて……」
「気付かなくてごめん。濡れた服は脱いでおいた方がいいよ。余計に体の熱が奪われるから」
カガミの指示に従って、渚はダウンジャケットを脱いでコンロの前にかざす。シャツにまで浸みこんでしまっているが、毛布を借りているとは言え流石に難しいところだ。
こうなると、しっかりと水気を吸った薫の浴衣も気になってくる。
「ぅぅ……」
案の定、薫の体は意識がなくとも震えているではないか。
「どうしよう……? これじゃ、竜等さんが……」
「そうだね。ちょっと失礼して脱がさせてもらおう」
カガミが浴衣を剥ぎ取るも、コンロの熱量だけではあまりに時間がかかりすぎると渚はダウンジャケットの湿りぐらいから判断する。だからと言って、今の渚に何ができるのかと言われれば、大したことは思いつかない。
眼鏡を外して、一度深呼吸をする。
ベタと言えばベタな手段ではあるが、やれることは全て試してみるべきだと思う。
渚が準備が整える間、こちらの方を振り向いてくるカガミ。
「な、渚……!?」
素っ頓狂な声を上げるのも分かる。
なにせ、渚は今、シャツとインナーを脱ぎ捨てて地味なショーツとブラジャーだけの姿になっているのだから。
「あ、あまり、見ないで……。私じゃ、こんな方法しか思いつかないから……」
「う、うん……ごめん」
カガミも意図を察してくれたようで、酷く困惑しながらも視線を外してくれる。渚も手早く薫を包んでいる毛布の中へ一緒に入り込み、体を密着させる。
これは応急処置なのだと、自分に言い聞かせながら。
よーし、薫、そこをかわ(殴り
というわけで、典型的な雪山のワンシーンでした。
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あ、ドシドシ入れてください。